焼酎の未来を切り拓く若きカリスマ 黒木本店・黒木信作が追い求めるもの
宮崎県高鍋町。青々とした田畑、穏やかな小丸川の流れ、そして温暖な気候に恵まれたこの地で、焼酎を醸し続けてきた老舗がある──黒木本店。創業1885年。「百年の孤独」、「中々(なかなか)」、「㐂六(きろく)」など、数々の名焼酎を世に送り出してきた。
1998年には『自然環境との調和』を掲げて、宮崎県児湯郡の険しい山間部に尾鈴山蒸留所を設立。同年には農業分野にも踏み出し、原料栽培から製造、肥料化までを一貫して担う循環型の酒造りを開始した。この国で〈サーキュラーエコノミー〉という言葉が持て囃される20年以上も前のことである。
〈▲ 黒木本店HPより〉
そんな黒木本店の5代目であり、代表取締役を務めるのが黒木信作だ。父が切り拓いた革新の道を、さらなる深度で掘り進め、伝統のアップデートに挑み続ける異色の造り手である。
宮崎県内屈指の進学校を卒業後、大学進学のため上京。大学時代は「勉強もせず、授業も出ない。パチスロ店に入り浸る絵に描いたようなクズ学生だった」とは本人の弁。しかし、バイト先の飲食店で出会った一杯のワインが、彼の“香り”に対する鋭い感性を覚醒させる。
以来、ワインについて学び、感覚を研ぎ澄ませていった。大学卒業後は渡仏。ブルゴーニュのワイナリーを訪れ、ワイン造りを実地で学んだ。そして実家の蔵元に戻り、製法や設備の見直し、蒸留技術の刷新に取り組み、やがて業界内外で注目を集める存在となっていく。
【焼酎業界には注目すべきプレイヤーが増えたが、信作さんは一人だけずっと先の景色を見ている】――そう黒木氏を評するのは、焼酎に詳しいライターだ。
焼酎が食中酒の枠を超え、世界のバーシーンに浸透しつつある今、そのムーブメントの中心に間違いなく彼はいる。本稿では、黒木氏の原体験から、蔵元改革の裏側、そして焼酎の未来への視座までを余すところなく聞いた。語られる一つひとつの言葉に、彼の揺るぎない信念と、まだ誰も見たことのない遥か先の、焼酎の未来の風景が滲む。
PROFILE
黒木信作
くろき・しんさく。1988年生まれ。宮崎県高鍋町の老舗焼酎蔵「黒木本店」5代目。尾鈴山蒸留所代表。明治大学を卒業後、フランスへ留学し、現地のワイン造りを学ぶ。帰国後は、黒木本店と尾鈴山蒸留所で品質管理や営業を担当、農業法人「甦る大地の会」の代表としても活動。
子どもの頃、黒木本店は〈まちの酒屋さん〉だった
1980年代、居酒屋チェーンを舞台に、甲類焼酎を炭酸などで割るチューハイが一大ブームを巻き起こす中、黒木本店はそのトレンドとは逆行する形で、麦焼酎をオーク樽で熟成させた『百年の孤独』をリリースする。
『百年の孤独』のヒットは、業界に新たな可能性をもたらし、焼酎のプレミアム化を加速させ、黒木本店のブランド力を大いに高めることとなった。
しかし、黒木少年の記憶に残る黒木本店とは、地元に根ざした〈酒屋〉であった。焼酎に限らず、様々なお酒を取り揃え、駄菓子やジュースも店頭に並び、それを求めて近所の子どもたちも集まる。老舗蔵元とはいえ、地域住民にとっての黒木本店は〈まちの酒屋さん〉だったのである。
「蔵は、売り場の奥にひっそりと佇んでいました。今でも蔵の匂いは覚えていますよ。親には『あんまり近づくな』と言われていたけど、お酒の匂いが苦手で、近寄りたくもなかった。それでも、悪さをすると、蔵の瓶のようなところに閉じ込められて、反省するまで出てくるな、ということもありました」
〈▲ 「幼少期は『蔵は怖いもの』という印象でした」〉
5つ年上の兄が長男として将来を託されていたこともあり、自分が蔵の後継者となる未来を一度も想像したことがなかった。中高時代はバスケットボールに熱中し、音楽やファッションにも関心を示しながら、カルチャーの発信地である東京に憧憬を抱いた。田舎に住む子どもが自然と感じる都会への憧れ。高校卒業後、彼はその思いを胸に、東京の大学へと進学する。
蔵元の後継ぎといえば、東京農業大学醸造科学科などの専門ルートが定番だが、彼の進学先は明治大学商学部だった。これはあくまで結果論ではあるが、いわゆる【蔵元後継者コース】を歩まなかったこと、“当事者”ではなかったことが、彼に自由な視点を与え、焼酎の伝統や常識に染まらない目線をもたらすことになったとも言える。
ワインとの出会いが、すべての始まり
上京後の黒木氏は、大学の授業にはほとんど出ず、ひたすらアルバイトに明け暮れた。給料日はアパレルショップに直行するなど迷わず散財し、パチンコやスロットでバイト代を溶かすことも珍しくなかったという。
転機が訪れたのは、上京して2番目に働いたフレンチレストランでのことだった。その店では、ワインや料理について客から質問される場面が多く、どんな問いかけにも答えられるよう、徐々に自ら学ぶようになったという。
「自分にとって初めて能動的に学びたいと思えた瞬間でしたね」
とはいえ、彼自身がワインに魅了されていたわけではなかった。特に赤ワインの味は理解に苦しんだ。こんな渋いものが美味しいのかと首をかしげ、むしろしたり顔でワインの美味しさを語る大人たちは、格好つけるための演技をしているようにすら思えたという。
そんな印象が一変したのは、ある日のこと。
「閉店後、バイト先の先輩が1本の赤ワインを開け、みんなにふるまってくれたんです。それを口に含んだ瞬間、初めて美味しいと思えて。いわゆる後を引く、余韻が残るワインでした。素直に美味しいと思えたこともさることながら、香りや味を言葉にして表現しようとする自分自身にも驚きました。なんか、すごく言葉にしているなって。あの夜が、僕にとってすごく大きかったと思います」
もっと知りたい。もっと飲んでみたい。
そんな思いから、ワインバーでのアルバイトを探し、当時隆盛を極めていたmixiのワイン愛好家コミュニティにも参加。限られた予算のなかで、いかに多くの種類の、良質なワインを味わうかを試行錯誤した。
「ワインに関心を持ってからというもの、どんなものでも口にするものは“香り”を気にするようになりました。それこそ水ひとつとっても嗅ぐ癖がついた。もともと食べることは好きだったけど、そこから食に対する感度も研ぎ澄まされていったように思います」
〈▲ 黒木本店の貯蔵庫。まるでワイナリーのように熟成樽が並ぶ〉
ワインへの知識を蓄える中で、焼酎を相対的に評価したり、見つめ直すことはなかったのだろうか?
「特になかったですね。焼酎に関しては『飲めなくはない』という程度。あの頃はワインの方が焼酎より文化的にもお酒としても優れた飲み物だと思っていました。実際に、ワインは世界中で飲まれているし、体系的に学べる構造もある。とはいえそれって今振り返ると、自分の中の劣等感の表れというか、単に“外のモノ”への憧れが強かっただけなのかもしれません」
大学卒業後はモラトリアム期間延長のため海外留学をした。渡航先は〈ワイン〉〈ファッション〉〈アート〉など自身の興味領域が揃っているという理由でフランス・パリを選択。仏滞在中にブルゴーニュ地方のワイナリーでブドウの収穫を手伝い、ワイン造りも体験した。
「世界のワイン愛好家が憧れる産地で、ワイン造りを仕事にできて、素晴らしいワインが飲める。最高の生活ができて羨ましいです、とワイナリーの社長に伝えると『こんな田舎の何がいいんだよ』と言い返されたんですよ。若い頃、オレはここを出たくてしょうがなかったぞ、と。なんかそれって、自分が宮崎を出たくてしょうがなかったのと同じ感覚で。
ブルゴーニュワインと言えども、地元の人からすればただの“地酒”に過ぎない。要は宮崎における焼酎と同じなんですね。水のように飲まれていた酒が、たまたま高付加価値がついただけ。『世界中に飲まれるようになったのは、この30年だぞ』って聞かされたときは、憧れていたワインの世界がすごく身近に感じられました」
帰国後は東京のワイン商社に就職することを決めていた。入社までの数ヶ月、黒木本店の酒造りを手伝うことにしたが、そこでの経験が彼の人生を決定づけることになるとは、このとき知る由もなかった──。
どうして本来の香りが失われているのだろう
実家の蔵は、子どもの頃から働いていたベテランの社員も多く、懐かしく、居心地が良かった。だが、手伝いを始めて2日目、黒木氏は違和感を覚えることになる。
「本来感じられるはずの芋や麦由来の豊かな香りが、製造過程でどこかに消えてしまっていることに気づいたんです。もっと香り高く、鮮やかなものが出てくるはずなのに、製品にはそれが感じられない。むしろ、時に不快とさえ感じるようなオフフレーバーが混じっている。現場のスタッフは皆、真摯に、伝統的な手法に忠実に作業を行っているだけに、すごく“もったいない”と感じました」
その数日後、東京の名門酒販業者「はせがわ酒店」の長谷川浩一氏が蔵を訪れた。蔵見学中、長谷川氏は鋭い質問を黒木氏に投げかけ、それに対して黒木氏は、ワインの知識を活かして的確に対応した。この経験がきっかけとなり、黒木氏の父から「蔵に戻らないか」という正式な声がかかることとなる。
「留学から帰ってきたときはそのつもりはなかったけど、数日間、蔵で働いて気持ちが変わりつつありました。ただの地酒であったワインも、原料から造りまで、磨き続けることで、世界中で愛される地酒に成長した。焼酎だって、もっとおいしくなる余地があるんじゃないか、と。
大変な自惚れもあったと思うけど『この状況を変えられるのは、俺しかいない』とも思ったんです。自分しかできないことを成し遂げることこそが仕事なんじゃないかって。それって“答え”がないことだけど、“答えのない問い”を追求することこそ生涯を通じて挑戦すべきことなんじゃないかとも思いました」
東京でのキャリア、憧れ続けたワインの世界で働くことを諦め、彼は地元・宮崎で焼酎造りに向き合う決意を固める。
日本酒の蔵元から多くのことを学んだ
〈▲無農薬・有機栽培の原料で、酵母を添加せず、自然発酵させて造った『山ねこ 自然発酵』。蒸留は銅釜で行いカラメルのような甘く香ばしい余韻が感じられる極上の芋焼酎〉
ワインの世界を経由した彼にとって、実家の焼酎は良くも悪くも“伸びしろ”だらけの酒に思えた。
しかし彼が戻ってきた2012年前後の黒木本店は、作りの中核を担うプロフェッショナルが不在で、「今思い返しても、よくない時期に自分が戻ってくることになった」と述懐する。
「どの銘柄も、商品にして問題ないものばかりでした。でも、注意深く嗅ぐと、原料由来の豊かな香りが表現されていない反面、雑味やオフフレーバーが出ていました。もちろん、ほとんどの人は気づかないレベルです。
まず香りが消えている原因を突き止め、酒造りの根幹を問い直すことから着手しました。発酵過程で混入する悪性の菌や、衛生管理の甘さ、麹の品質のバラつき……香りを潰してしまう原因は複合的なものでした。先ほども申した通り、蔵のみんなの作業はとても丁寧だった。でも、丁寧に誤ったことを繰り返しているような状況だったんです」
なかでも最も重大な要因は、焼酎の香りを決定づける「麹」そのものにあった。
「焼酎というのは、素材の香りが色濃く残る世界に唯一の蒸留酒だと思っています。香りを引き出すのは麹ですが、麹は刃物のようなもので、その切れ味によって香りが出てくるんです。でも、麹が錆びついているというか、切れ味を失っていた。どんなに美味しい刺身でも、錆びついた包丁で切ったら錆の味で台無しになってしまう。それと同じで、長年使い続けた切れ味がない麹で発酵させていたことで、素材の香りが十分に引き出せず、焼酎本来の深みと風味を殺していたんです」
すぐさま衛生管理の改革に取り組んだ。麹室の温度や湿度、蒸しの工程、洗浄作業の手順から仕込みタンクの扱いに至るまで、見直せるものはすべて見直した。もちろん簡単な道ではなかった。蔵の現場からは不満の声も聞かれた。当然である。作業工程が変われば、現場の負担も変わる。作業時間も延びる。蔵の息子とはいえ、焼酎造りの経験のない若造が余計なことをするな――それが、当時の蔵人たちの本音であったろう。
それでも、黒木氏は一つひとつ丁寧に説明し、納得が得られるよう根気強く向き合った。そうやって内部の改革を進める一方、外との交流を深めていく。
広島の「酒類総合研究所」での研修や、日々醸造・松本日出彦氏、新政酒造・佐藤祐輔氏、木屋正酒造・大西唯克氏など日本酒業界を牽引する若き造り手との交流を通じて、醸造技術の最新かつ体系的な知識を獲得していった。
「日本酒業界は技術的にも意識的にも、明らかに焼酎蔵よりも先を行っていました。だから清酒の蔵元さんから学ぶことは本当に多かったですね」
最前線の知識と、造り手としての高い視座を実装する場となったのは、黒木本店ではなく尾鈴山蒸留所だった。小さな試験醸造から始まり、条件を変えながら香りの出方を観察し、雑菌の混入を抑え、工程を精密に再設計していく。より少量で、手作りの工程が色濃く残る尾鈴山では、微細な発酵の変化がダイレクトに現れるため改革の成果が見えやすく、検証もしやすかった。
改革を始めて2年後、効果が明確に製品に現れ始める。さらに原料へのこだわり、製造工程を磨き上げ、既存の銘柄をブラッシュアップするとともに、新たな銘柄も次々とリリースしていくことになる。
「新銘柄を出すことで、焼酎の可能性を広げ、これまでの枠を超えるような新しい価値を提供できるようになりました。従来の焼酎とは異なる味わいと香りを表現できるようになったことで、バーテンダーやより多くの飲食業界の皆様から新たな評価をいただけることにつながったのかなと」
黒木氏の理想は、「どんな飲み方をしても美味しく飲める焼酎」である。冷やしても温めても、ロックでもソーダでも、それぞれの温度帯やシーンに応じて表情を変える香り豊かな焼酎。それは飲み方を指規定しない自由さを持つ、真に完成されたプロダクトだ。
「たとえば麦焼酎の『山猿(やまざる)』は、栗のような甘く香ばしい香りを纏っています。冷やしても、お湯で割っても、雑味が出ず、焼酎そのものの輪郭がくっきりと浮かび上がる。でも、これもかつてはこの香りはなかったんです。山猿に限らず、自分が蔵に戻ってきた当時の焼酎と、今の焼酎は、同じ銘柄でもまったく違う酒になっていると自負しています」
もちろん、それは当時の商品の質が悪いということを意味しない。今の商品が、著しく良くなっているのである。
老舗の革新。それは確かに〈黒木信作〉という稀代の造り手が成し遂げたことだ。しかし同時に、多くの蔵人たちとともに築き上げた〈チーム〉としての成果でもある。
「2012年に戻ってきた当初、造りについて素人同然だった自分が、いろいろ口出しをするようになり、納得できなかった社員も多かったと思います。実際、いろいろと話し合いましたし、ぶつかることも多かった。あのとき起きたことを美談として語ろうとも思っていませんし、そんないいものでもなかった。本当に苦労しましたから。でも、あれから10年以上経過しますが、ほとんどの社員が同時から変わらず働き続けています。今、本当にいいチームが作れていると実感しています」
農業をやってきたからこそ得られたもの
2018年、九州地方では「サツマイモ基腐病(もとくされびょう)」が突如として猛威を振るった。この病気は、サツマイモの根元部分を腐らせる菌が原因で、特に湿度の高い地域での発生が顕著だった。発症が確認されて以降、鹿児島県や宮崎県をはじめ、多くの地域で芋焼酎の生産に影響を与えることとなり、供給不足を招くこととなる。
しかし、黒木本店ではこの影響をほとんど受けることなく、例年通りの生産を続けることができている。
「原料となる芋は自社農場『甦る大地の会』で栽培されたものと、契約農家で栽培されたものを使用しているのですが、うちの農場では基腐病が発生しなかったんです。自社農場は長年にわたり、農薬に依存せず、連作することなく複数の作物をローテーションで育てることで、土壌を健全に保ってきました。わかりやすく言うと、土にとって必要な菌がたくさんいる状態だから、“新しい菌”が入ってくる余地がない。結果、基腐病にやられることはなく、安定した原料の収穫を実現することができています」
農業活動を開始したのは1998年のこと。2004年に農業法人「甦る大地の会」を設立することになるが、そもそも黒木本店が農業に取り組み始めたのは、焼酎の理想像を追い求めた結果ではなかった。
「当初の目的は『残渣の処理』です。焼酎を蒸留する過程で必ず発生する焼酎粕は、かつては海や畑に流すことが黙認されていました。しかし90年代後半に、環境保全への意識の高まりとともに法律が変わり、焼酎粕は産業廃棄物と見なされるようになったんです。発酵した芋や麦を蒸留したものだし、腐るものでもないし、むしろ自然そのものなのですが…。とはいっても規制は規制。どう処理しようかと悩んでいたところ、焼酎粕を肥料化する技術を持つ企業から売り込みが入りました。
なるほど、肥料にはできるらしい。でも、肥料にしたところで、効果が見えない肥料なんて、農家さんは誰も使ってくれない。だったら、自分たちで農業をすれば、すべてが解決するんじゃないか。そもそも“後始末”を自分たちで引き受けるには、それしかない。そう考えて農業をすることにしたんです」
〈▲ 「焼酎を造る上で農業をする必要はありません。しかし我々にとってそれはとても意味があった」と黒木氏〉
焼酎粕の後始末問題を解決し、焼酎を作り続けるために始めた農業。しかし畑に立ち、作物を育てるうちに、焼酎造りとの深いつながりが見えてきた。
たとえば、品種の選定。一般的な農家はリスクを避けて定番品種を作るが、自社で畑を持つ黒木本店は、通常なら手を出さない新品種や有機無農薬栽培にも積極的に挑戦できる。
「自分たちでやるからこそ、面倒なものにも取り組めるんですよ。で、苦労して芋を育てると、この芋の香りを引き出すには、どんな麹がいいだろうという考えにつながる。もっと言うと、芋で焼酎を作る意味って何だろうという根源的な問いを持つようにもなったり。こんな問いに向き合えるのは、畑と蔵が地続きだからこそだと思うんです」
農業は、香りや味わいの設計図を、より自由に描ける“創作の土台”となった。たとえば人気銘柄「㐂六 無濾過(きろく・むろか)」は、自社栽培による無農薬の芋を使って生まれたものだ。外部の農家との協業では実現が難しいゼロからの設計を、黒木本店は自らの手で実現していった。
もはや黒木本店にとって農業は、ただの素材調達の手段ではない。それは焼酎という文化を、この土地と未来に接続するための、もうひとつの酒造りなのだ。
伝統を繋げていくためには、新たな価値を創造するしかない
焼酎を取り巻く環境は、決して明るいとは言えない。一時はブームに沸いた焼酎市場も、2010年代以降は縮小に転じ、少子高齢化や消費行動の多様化、そして新型コロナウイルスの影響も重なり、多くの焼酎蔵が厳しい局面を迎えている。
実際、黒木氏はその現実を肌で感じている。
「宮崎県内でも、去年だけで何社かが蔵を売りに出しています。100年以上続いた蔵が、です。全国的に酒の消費が増えず、原材料費や人件費は高騰し続け、深刻な芋の病害も発生。蔵を経営するということが、もはや伝統を守るだけでは立ちゆかない時代に突入しています。どうすれば伝統を維持できるのか。それは品質を高め、新たな価値を創造するしかないと思っています」
伝統にすがるのではなく、進化をさせる。“惰性で守る”のではなく、自ら選び直す。その攻める姿勢が必要ではないかと黒木氏は強調する。
「焼酎は元来、食中酒ですが、世界のバー文化の中に活路が見出だせると思っていて。今、世界のバーシーンは本当に面白いことになっています。フレッシュなフルーツやハーブ、スパイスを使って、料理のようにカクテルが作られている。その中で、焼酎の香りを求めているトップバーテンダーたちがいる。うちの焼酎は、どんなにフルーツやハーブと組み合わせても香りが負けません。逆に言えば、この香りじゃないと成立しないカクテルが生まれる。そうやってバーシーンで使われるようになれば、焼酎が世界中で認知度を上げて、飲まれることにもつながると思うんです」
焼酎は、人と人を結ぶ酒。心をほどくものでもあり、他の文化や国とのつながりを生み出すきっかけになる――黒木氏は〈焼酎の未来〉を前向きに捉える。
「人と人がつながるとき、そこに文化や国境は本来関係ありません。そこを越えていき、人をつなぐ役割を焼酎が果たす。それこそが、僕の目指す理想の未来でもあるんです」
インタビューの最後、「パチスロ店に入り浸っていた時代の信作さんに聞かせたいですね」と冗談を言ったとき、彼は間髪入れずこう答えたことが印象的だった。
「あのどうしようもない時期があったから、今があると思うんです。うん、あれも無駄じゃなかったんですよ」
老舗蔵元に生まれ、焼酎業界の“プリンス”として活躍する黒木氏の半生は、端から見れば成功者のそれでしかない。しかし、そのサクセスストーリーを紐解くと、幾多の困難、挫折、泥臭い姿が見えてくる。彼はその中で学び、もがき苦しみ、仲間とともに成長し、今の信念やビジョンを築き上げた。
理想に到達するまでの道のりはおそらく険しい。しかし黒木信作は、次の100年を見据え歩みを止めることはない。
撮影:飯田健太郎