自刃した武田勝頼に最期まで尽くした土屋昌恒 ~「片手千人斬り」の伝説
山梨県甲州市などを流れる日川という一級河川には、三日血川(みっかちがわ)という別名がある。
この恐ろし気な名前の由来となったのが、甲斐の戦国武将・土屋昌恒(つちや まさつね)にまつわる伝説だ。
土屋昌恒は武田信玄・勝頼の2代に渡り甲斐武田氏に仕えた武将で、武田二十四将の1人である土屋昌続(まさつぐ)の実弟でもある。
昌恒は、武田勝頼が織田勢に追い詰められて多くの武田家家臣たちが離反していく中で、最後の最後まで武田家に忠義を尽くし、その名誉を守り抜こうとした。昌恒の奮闘の末に、日川は三日血川と呼ばれるようになったのである。
今回は、その勇猛果敢な戦いぶりから「片手千人斬り」という猛々しい異名がつけられた、土屋昌恒について解説していきたい。
土屋昌恒の生い立ち
昌恒は、1556年に武田信玄に仕えていた譜代家老衆の1人、金丸筑前守(かなまる ちくぜんのかみ)の五男として生まれた。幼少期の名は惣蔵である。
昌恒と同年代の武将には、蒲生氏郷(1556~1595)や、上杉景勝(1556~1623)などがいる。
昌恒の長兄である金丸平三郎は信玄に奥近習として仕え、横目役を務めた人物だった。
しかし、武田信廉(のぶかど)の被官・落合彦助との諍いの末に殺害されてしまい、それを受けて昌恒の次兄である昌続(当初の名は平八郎)が、「奥近習六人衆」の1人として信玄の傍で仕えるようになった。
信玄は、側近中の側近である「奥近習六人衆」を深く寵愛し、六人それぞれに「昌」の字を与えた。
これにより平八郎は名を昌続と改め、1561年9月に川中島の戦いで初陣を飾った後に、1568年頃から甲斐の名門土屋の名跡を与えられて土屋昌続と名乗るようになった。
昌恒が初陣を飾ったのは、兄の昌続よりも早い13歳頃のことだった。
昌恒は幼い頃から武勇に優れており、初陣となった宇津房合戦(1568年)では敵方であった岡部貞綱(おかべ さだつな)の家臣の首を見事に討ち取った。
その後に武田方に降り、武田家海賊衆となって信玄に土屋姓を与えられた岡部貞綱(土屋貞綱)の嘆願により、昌恒は貞綱の養子となり「土屋昌恒」と名を改める。
つまり昌恒は初陣の時点で、家臣を討ち取られた側が「養子にしたい」と願うほどの武勇だったのである。
昌恒は信玄に仕え、信玄亡き後は跡を継いだ勝頼に仕えた。
父と兄の討死により、両土屋家を継ぐ
1575年5月21日に起きた「長篠の戦い」において、兄の昌続が天神山で織田勢の一斉射撃を受けて戦死した。
そして、養父の貞綱もまた長篠の戦いで討死する。
昌続には後継ぎとなる男子がいなかったため、昌恒は昌続・貞綱の両土屋氏を継承し、遺された家臣団を率いることとなった。
この時、昌恒はまだ20歳前後であった。昌恒は土屋家の筆頭となった後も勝頼に従い、東海道方面や関東方面で行われた戦に参加し活躍し続けた。
武田軍が大敗を喫した長篠の戦いから約6年後の1581年3月、「高天神城の戦い」において、徳川家康が高天神城を陥落させた。
勝頼は、和睦を試みていた信長を刺激することを避けて援軍を派遣しなかったので、結果的に高天神城を見捨てる形となった。
勝頼のこの判断は、武田氏の威信を絶望的なまでに失墜させた。
そして翌年の1582年、勝頼が自分を裏切り織田方に寝返った木曾義昌の人質を処刑したことをきっかけに、織田・徳川連合軍、そして北条軍による「武田征伐」が本格的に始まった。
既に勝頼の権威は失墜し、家臣たちの離反が相次いでいた。(※穴山梅雪の離反など)
さらに運の悪いことに、ちょうどこの時期に浅間山が噴火し(1582年2月11日)、武田領国内の国衆や領民たちは「勝頼が天から見放された」と考えた。
武田軍全体の士気は大きく下がり、多くの兵の逃亡が相次ぎ、領国内の諸城は織田軍に抵抗することなく陥落していった。
追い詰められて逃げ場所を失った勝頼一行は、甲州にある武田家ゆかりの地「天目山」へと向かった。
昌恒も勝頼に従い共に天目山を目指したが、かつては数万人ともいわれた武田勢は、この時もう男女合わせて数十名しか残っていなかった。
死地に向かう主君の名誉を守るために「片手千人斬り」の大活躍
一縷の望みをかけて天目山へ向かった武田勢だが、天目山には既に織田軍の滝川一益(たきかわ かずます)率いる部隊が先回りしていた。
そして「天目山の戦い」が勃発する。
昌恒ら、勝頼に最期まで付き従うことを決意した家臣たちは、自害を覚悟した勝頼が田野へたどり着くまでの時間を稼ぐために、織田軍相手に鬼神のごとき奮戦をした。
その際、昌恒は殿(しんがり)を引き受け、狭い崖道で敵を待ち伏せ、左手で藤のツルを掴んで体勢を保ちながら右手に太刀を取り、迫りくる織田の軍勢を次々と斬り伏せ、蹴落としながら戦い続けたという。
崖下を流れる日川は、昌恒に突き落とされた織田軍の兵の血で3日の間赤く染まり続けたことから、日川は後に「三日血川」、昌恒は「片手千人斬り」の異名で呼ばれるようになった。
この武田家最後の戦いにおいて、武田軍はわずかな手勢で織田の大軍を一時的に押し返したのだ。
昌恒らの奮闘により、勝頼は織田方に討ち取られることなく自刃を果たすことができた。昌恒は自らを犠牲にして、武士にとって命よりも大事な主君の名誉を最後まで守り抜いたのだ。
その後、昌恒は織田軍との熾烈な戦いの中で討死、もしくは自刃したとされている。享年27。
敵である信長にも賞賛された昌恒の忠臣ぶり
織田信長の一代記『信長公記』にも、昌恒に関する記述が残っている。
信長は後に昌恒の戦いぶりや武田家家臣としての働きぶりを高く評価し、「よき武者数多を射倒したのちに追腹を切って果て、比類なき働きを残した」と賞賛した。
一説には、相次ぐ重臣の離反によって混乱に陥る勝頼と武田家家臣に対し、武士として死ぬべき時を見誤らないように訴え自決を促したのも、昌恒だといわれている。
昌恒の忠義の篤さを象徴する逸話として、武田信玄の従妹で勝頼の乳母でもあった理慶尼が記した『理慶尼記』には、こんな話が残っている。
以下は意訳である。
甲州征伐が勃発し、新府城から落ち延びた勝頼一行は、理慶尼が尼僧として暮らしていた勝沼の大善寺に立ち寄った。
理慶尼は勝頼を快く迎え入れ、勝頼夫妻と嫡男の信勝は理慶尼とともに、大善寺の薬師堂で寝所をともにした。勝頼は大善寺で過ごしている最中に小山田信茂の裏切りを知り、天目山へ向かうことを決定した。
自決を決めた勝頼一行は、天目山麓で最後の別れの宴を催した。
その宴の席で昌恒は勝頼に対して、「御屋形様は、この私も裏切るのではないかと警戒なさっているのではないかと案じておりました。そのようなことは決してない証を、お目にかけましょう」と言った。
そして5歳になる自分の息子に「お前はまだ幼く、大人と共に歩むのは難しい。だから先に行き、六道へ続くあの世の岐路で御屋形様をお待ち申し上げよ。私も御屋形様と共に行く」と伝え、西を向いて念仏を唱えるよう申し付けた。
昌恒の息子は父の言いつけに素直に従い、小さな両手を合わせて念仏を唱える。そして昌恒は腰の刀を引き抜いて、我が子の胸を貫いた。
勝頼はこの有様を見て、「何ということをするのだ。最後の言葉も他にかけようがあったろうに」と涙ながらに嘆き、他の供の者たちも涙を流した。
ただしこの逸話は、昌恒の忠義の篤さを表現するための創作であるとされている。
昌恒の嫡男である土屋忠直(つちや ただなお)は母に連れられて、昌恒の養父であった土屋貞綱ゆかりの駿河に落ち延び、徳川秀忠の小姓や井伊直政配下を経て、後に上総久留里藩主となっている。
次男の重虎は信州に落ち延び、出家して僧侶となった。後に重虎の弟子となった久保田彦左衛門は即身仏・真宗行順大行者(行人様)となり、信州新野の瑞光院で年2回御開帳が行われている。
息子の忠直が徳川家康の目に留まり、第2代将軍となる秀忠の小姓として取り立てられたのも、昌恒の「忠臣ぶり」があったからこそであろう。
昌恒の一途な忠義は世代を超えて土屋家復興の礎となり、その後、土屋家宗家は旗本寄合席として幕末まで存続したという。
参考 :
丸島和洋「土屋昌恒」 柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』
平山優 (著) 『武田氏滅亡』『武田三代 信虎・信玄・勝頼の史実に迫る』
『信長公記』他
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部