#3 「古池」の句は、なぜ画期的だったのか 長谷川 櫂さんが読む『おくのほそ道』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
長谷川櫂さんによる、松尾芭蕉『おくのほそ道』読み解き
大震災後に歩む、芭蕉の「みちのく」。
松尾芭蕉の『おくのほそ道』は単なる紀行文ではなく、周到に構成され、虚実が入り交じる文学作品です。
『NHK「100分de名著」ブックス 松尾芭蕉 おくのほそ道』では、長谷川櫂さんが、東日本大震災の被災地とも重なる芭蕉の旅の道行きをたどり、「かるみ」を獲得するに至るまでの思考の痕跡を探ります。
今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第3回/全5回)
古池の句から『おくのほそ道』へ
古池や蛙飛こむ水のおと
芭蕉
この句はふつう古池に蛙が飛びこんで水の音がしたと解釈されますが、ほんとうはそういう意味の句ではありません。では、どういう意味なのか。それを知ることが、芭蕉がみちのくへ旅立った理由を知る手がかりになります。
古池の句の誕生のいきさつを門弟の支考(しこう)(一六六五─一七三一)が書き残しています(『葛の松原』)。それによると、ある日、芭蕉は隅田川のほとりの芭蕉庵で何人かで俳句を詠んでいました。すると庵の外から蛙が水に飛びこむ音が聞こえてきます。そこでまず「蛙飛こむ水のおと」と詠んだ。その上に何とかぶせたらいいか、しばらく考えていましたが、やがて「古池や」と決めました。
つまりこの句は、何となく思われているように「古池や」「蛙飛こむ水のおと」の順番にできたのではありません。最初に「蛙飛こむ水のおと」ができて、あとから「古池や」をかぶせた。このうち最初にできた「蛙飛こむ水のおと」は、じっさいに聞こえた現実の音を言葉で写しとったものです。
一方、「古池」は現実の古池ではありません。なぜなら芭蕉は蛙が水に飛びこむ音を聞いただけで、蛙が水に飛びこむところは見ていないからです。見ていなければ、蛙の飛びこんだ水が古池かどうかわからない。
では「古池」はどこから来たのか。そこでもう一度、言葉の生まれた順番どおりにこの句を読みなおすと、芭蕉は蛙が水に飛びこむ音を聞いて古池を思い浮べたということになります。「古池」は「蛙飛こむ水のおと」が芭蕉の心に呼びおこした幻影だったのです。
つまり古池の句は現実の音(蛙飛こむ水のおと)をきっかけにして心の世界(古池)が開けたという句なのです。いいかえると、現実と心の世界という次元の異なるものの合わさった〈現実+心〉の句であるということになります。この異次元のものが一句に同居していることが、芭蕉の句に躍動感をもたらすことになります。このことは芭蕉と俳句の双方に画期的な意義をもっていました。
では古池の句の画期的な意義とは何か。これを知るには、古池の句以前の俳句がどんなものだったか知らなくてはなりません。一言でいうと、古池の句以前の俳句はずっと言葉遊びの俳句でした。言葉遊びとは駄洒落のようなものです。
若き日の芭蕉は季吟に俳句を学んでいますが、季吟が属していた貞門派の句とは次のようなものです。貞徳(ていとく)(一五七一─一六五三)の句から、
花よりも団子やありて帰雁(かへるかり)
貞徳
雁は桜の花が咲くというのに北へ帰ってゆく。あれはきっと北の故郷に団子があるからだろうというのです。「花より団子」ということわざをもとにして北へ帰る雁を詠んでいます。
芭蕉が古池の句を読む直前、隆盛をきわめていたのは宗因(そういん)(一六〇五─八二)の談林(だんりん)派でした。談林の句は同じ言葉遊びといっても貞門よりずっと過激でした。同じく雁の句をあげると、
今こんといひしば鴈(かり)の料理哉(かな)
宗因
雁は今では天然記念物で狩猟は禁止されているので食べるなどご法度ですが、当時は雁もごちそうでした。この句は雁料理の句です。今お持ちしますといったばかりで、いつまでたっても出てこない雁の料理よ。「今こんといひしば鴈」は「百人一首」にもある「いま来むといひしばかりに長月(ながつき)の有明けの月を待ちいでつるかな」(素性(そせい)法師)という歌を踏まえています。
二つの句を比べると、貞徳の句ははんなりとしてくすくす笑いのおもむきがありますが、宗因の句は大笑いの句です。
芭蕉も宗因の門下でした。この時期、次のような句を詠んでいます。
塩にしてもいざことづてん都鳥(みやこどり)
芭蕉
在原業平(八二五─八八〇)は隅田川で「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」とうたいました。都鳥というからには都から飛んできたのだろう。ではたずねてみたい。都にいる恋人は元気かどうか。芭蕉の句はその「いざ言問はむ」を「いざことづてん」とおきかえて、都鳥を塩漬けにしてでも都へ贈ってあげようというのです。のちの芭蕉からは想像もできない、まあ、ぞっとするようなブラックユーモアの句です。
ところが、宗因が一六八二年(天和二年)に亡くなると、指導者を失った談林派は方向を見失ってしまいます。宗因に学んでいた弟子たちは混乱のなかでそれぞれ俳句の道を探しはじめます。
芭蕉もその一人でした。こうして宗因の死から四年たった一六八六年(貞享三年)春、芭蕉は古池の句を詠み、俳句に心の世界を切り開いたのです。これが芭蕉が見いだした自分の俳句の道「蕉風」でした。そこで古池の句は「蕉風開眼の句」と呼ばれます。振り返ってみると、古池の句以前の芭蕉には心の世界を詠んだ句はほとんどありません。古池の句はまず芭蕉にとって文字どおり画期的な句だったのです。
次に俳句にとっての古池の句の意義とはどんなものだったか。はるか古代から日本文学の主流だったのは和歌でした。その和歌は発生以来、一貫して心の世界を詠んできました。平安時代の半ばに完成した『古今和歌集』の序文(仮名序)の冒頭で編者の一人、紀貫之(?─九四五?)が堂々と宣言しています。
やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。
和歌は人の心から生まれるものであり、万事につけ心で思ったことを見聞きしたものに託して表現するものであるというのです。「世の中にある人、ことわざ繁きものなれば」とは世間で暮らしていれば、いろいろあるから、という意味です。思う「こと」を見聞きした「もの」に託して言葉にするといっているところに注意してください。
こうして脈々と人の心を詠みつづけてきた和歌に対して、言葉遊びの俳句が低級な文芸とあなどられていたのは当然です。そうしたなかで芭蕉が古池の句を詠んで俳句でも人の心が詠めることを証明したわけです。これを貫之風にいえば、「古池」という「心に思ふこと」が「蛙飛こむ水のおと」という「聞くもの」をきっかけにして誕生したということになります。この古池の句によって俳句はやっと和歌と肩を並べることができた。
だからこそ古池の句の誕生は芭蕉だけでなく俳句全体にとっても画期的だったのです。宗因の死後、多くの弟子たちが新しい道を模索したのですが、芭蕉が古池の句で見いだした人の心を詠む蕉風だけが現代にまで影響を与えているのは、古池の句が芭蕉にとって新しい道だっただけでなく、俳句全体の方向を定めるものだったからです。
芭蕉の『おくのほそ道』の旅はその三年後のことでした。
のちに本居宣長(一七三〇─一八〇一)は日本文学を貫く「もののあはれ」をとなえますが、この「もののあはれ」にしても貫之のいう「人の心」「心に思ふこと」そのものです。芭蕉は長い戦乱で滅んだ古い日本の文学の心の世界を俳句によみがえらせ、宣長は「もののあはれ」としてとらえなおしたのです。
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著者
長谷川 櫂(はせがわ・かい)
俳人。東京大学法学部卒業。読売新聞記者を経て俳句に専念。俳句結社「古志」前主宰、「ネット投句」選者、「季語と歳時記の会(きごさい)」代表。「朝日俳壇」選者、東海大学特任教授。俳論集『俳句の宇宙』でサントリー学芸賞(1990年)、句集『虚空』で読売文学賞(2003年)を受賞(ともに花神社刊)。『「奥の細道」をよむ』(ちくま新書)、『俳句の宇宙』『古池に蛙は飛びこんだか』(ともに中公文庫)などの著書がある。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。
■「100分de名著ブックス 松尾芭蕉 おくのほそ道」(長谷川 櫂著)第1章より抜粋
■書籍に掲載の脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛しております。
*第1章~第4章における『おくのほそ道』原文の引用は、尾形仂『おくのほそ道評釈』(角川書店)に拠ります。また、ブックス特別章の『おくのほそ道』全文は、同書より許可を得て転載し、編集部で作成した脚注を加えたものです。なお、そのいずれについても、読みやすくするために句の前後を一行分あけました。他の引用は「新編日本古典文学全集」(小学館)、「日本古典文学大系」(岩波書店)、「古典俳文学大系」(集英社)に拠ります。
*本書は、「NHK100分de名著」において、2013年10月に放送された「松尾芭蕉 おくのほそ道」のテキストを底本として一部加筆・修正し、新たに「『おくのほそ道』全文」、年譜などを収載したものです。