ものがたりグループ☆ポランの会 手話と音楽と語りで綾なすライブセッション 『すきとおったほんとうのたべもの 2024』稽古場リポート~多彩な表現の交流が生み出す新たな観劇・感動体験
その稽古場は、とても賑やかだった。
宮澤賢治が遺した奥深い物語や詩、気高い思想を賢治の「言葉」に忠実に、〝書かれてあるままに、全て、伝える〟。そんな指針を掲げて2004年の結成以来、宮澤賢治作品のみを語り・上演してきたのが「ものがたりグループ☆ポランの会」だ。既にお気づきの方も多いと思われるが、団体名も賢治の童話「ポラン(ポラーノ)の広場」に由来。「ポラーノ」は賢治が「ポラリス(北極星)」から創作した言葉とされ、夜空の星を見る際の大きな指標でもある「ポラリス」のごとく、観客の指標の一つになれるようにという願いが、団体名には込められているとのこと。
そんな「ポランの会」が2022から取り組んでいるのが、視覚障害を持つヴァイオリニストと手話パフォーマー(ろう者)と共に行う作品制作。聴こえる俳優と手話パフォーマーが二人一組で一つの役を担い、発語と手話で同じ賢治の言葉を発する。ナレーションやト書きに当たる部分も、同じペアによる二つの言語で表現。さらに全盲のバイオリニストと見えるピアニスト、二人のミュージシャンが楽曲と効果音的な演奏の両方でパフォーマンスを彩るという、複数の表現手法が共生・交錯する非常に豊かな創作を行っているのだ。
この手法で2023年に初演した『すきとおったほんとうのたべもの』を、アップグレードして上演すると聞き、その稽古場を訪ねた。作品は宮澤賢治の「注文の多い料理店 序」と本編の「注文の多い料理店」、それに「土神と狐」により構成されており、取材時は「土神と狐」の稽古日だった。
区の生涯学習センターの一室。三々五々集まってくるメンバーの間では声と手話による挨拶が飛び交い、言葉と仕草が明るい火花を散らしているようだ。語りチームは手話と身振り手振りを交えて手話パフォーマーに語り掛け、そこに手話通訳者も加わってのやりとりは、日常的なおしゃべりのはずが、既になにがしかのドラマが始まっているようにも見える。
続いて制作担当者が小さな袋から取り出したのは色、形、材質もそれぞれに異なる「鈴」だった。ゴム状の短い紐の輪がついており、出演者は一つずつ身につける。稽古が始まる前一人ずつが身につけてし、見えないバイオリニスト・白井崇陽に「この音は○○です」と鳴らして聞かせる。鈴の音は、舞台上のどこに誰がいるかを白井に知らせる合図。逆にこの混成チームでの創作の始まりには、バイオリンだけでなく演奏する白井の身体に手話パフォーマーたちが触れ、どのように演奏しているのか動きや身体の使い方を学んだという。
この日の稽古は「土神と狐」の終盤の改訂と確認から。「ポランの会」メンバーだけの稽古が別日にあり、そこで出たアイデアや変更点を手話パフォーマーや演奏家たちと共有、試したり改善したりという手順で稽古は進む。
「土神と狐」は、野原に生えた一本の美しい樺の木と樺の木の元に通う見栄っぱりの狐、狐に嫉妬を募らせてしまう土神の、もつれた心の関係を描く小さな悲劇。
主宰で演出も担当する彩木香里が、ポランのメンバーと考えてきた演出プランをその場の全員に伝えることから稽古スタート。だが、「こういう意図と狙いです。はい、やってみましょう」という訳にはいかず、まずは彩木の発言を手話通訳者が手話パフォーマーに伝えることから。内容について質疑応答も同時に行い、手話と発語入り乱れての話し合いがひとしきり続く。互いの表情や目線、手話がよく見えるよう円形に集まり、発言の前には全員が手を挙げ名前を言う。名前を言うことで、手話通訳者が誰の発言かを白井に伝えることができ、手話パフォーマーも誰の発言かを認知することができるためだという。確認を終えると、白井に「不明点はありますか?」などと確認し終え、ようやく演技スタート。
稽古の時にはアクティングエリアの中央、客席前面あたりに制作担当者がパソコンの画面に映して字幕を操作。手話パフォーマー、特に語りの担当者たちの大きな目安となっていた(字幕は本番、舞台奥などに投影される)。
一つの役を二人の、主たる表現言語が異なる俳優が演じることで、役が持つ多面性が自然と浮かび上がってくる。狐と土神の狭間に立たされる樺の木の当惑や恐れ、見え隠れする微かな喜び、樺の木の木を引くため嘘までついてしまう狐の葛藤、狐に対する嫉妬や神らしくもない無様さをさらす自分を許せない土神の悲憤。童話・寓話の形を取りつつ、髪や動物、自然の造形に人間の複雑な心理や欲望を託して活写する作家・賢治の筆の力に改めて感服する。
俳優たちは発語、手話、ダンスのような動作などを各人の主たる表現言語に織り交ぜつつ台詞を表現し、ペアの者同士でや語りのペアとのやりとりにはアイコンタクトも活用。とはいえ、一度ではなかなか二人一役のタイミングが合わず、決めた立ち位置から大きくずれたり、台詞と動作のきっかけが相棒と噛み合わないことも当然あり、そのたびに細かくすり合わせて再度のトライとなる。
物語が悲哀に満ちたものなので、稽古場の空気も重め……などということは全くなく、ズレたタイミングや、力み過ぎて空回りしてしまうペアの演技には、その都度、身振りと声で大きな笑いや歓声が起こり、全身を使って「これもアリじゃない?」や「かえって面白いかも!」など、肯定的な反応が稽古場のそこここで起こる。一番のゲラ(笑い上戸)は演出の彩木で、笑い過ぎて演出の指示がすぐに出せないようなことも。
そんな様子をニコニコ聞き守りながら、いざ出番となると自身で作曲した妙なる調べをバイオリンで奏で、シーンや作品のブリッジとなる旋律を、いくつもの候補を引きつつ演出に提案してくれる白井の守護者的な存在感が作品を引き締める。
手話パフォーマーたちの手と表情の豊かな〝おしゃべり〟も、日常と地続きにある演技のようで、長く観ているとそこに込められた意図や意味がうっすらと受け取れるようになってくるのも不思議で魅力的だ。
普段取材する演劇の創作現場より、多彩かつ大量の表現が飛び交う「ポランの会」の稽古場は、そのまま完成した作品の豊かで重層的な味わいへと繋がっていくはず。目、耳、思考、感情・感性。人間を外界と繋ぐあらゆる回路をフルに刺激し、新たな感動へと導いてくれるであろう「ポランの会」の創作、その高い志と幅広い鑑賞の喜びをライブで体験しないのは、演劇ファンにも賢治ファンにとっても損でしかないと思う。
Text:尾上そら