就職・結婚・昇進、すべてが「想定外」だった|村木厚子「20代の決断」
人生は決断の連続。就職や転職、さらには結婚、子育てなど、さまざまな局面で選択を迫られます。時には深く悩み、逡巡することもあるでしょう。
充実したキャリア、人生を歩んでいるように見える先人たちも、かつては同じような岐路に立ち、悩みながら決断を下してきました。そこへ至るまでに、どんなプロセスがあったのでしょうか。また、その選択は、その後のキャリアにどんな影響を及ぼしたのでしょうか。
そんな「人生の決断」について、村木厚子さんが振り返ります。村木さんは1978年に労働省(現・厚生労働省)に入省して以来、女性政策や障がい者政策に携わり続け、国家公務員として37年間勤め上げました。女性が結婚・出産後も働き続けることが今ほど当たり前ではなかった時代にあって、「長く働き続ける」という目標を叶えるため、村木さんはどんな決断を下してきたのでしょうか。
1回目にフォーカスするのは、「20代の決断」です。
※全3回のシリーズの第1回です
「とにかく長く働きたい」という夢を叶えるために上京
20代最初の決断といえば、国家公務員になるために地元の高知から上京したことでしょうか。
私は中学から私立校に通い、途中で父が失業するなど経済的に苦しい時期がありながらも、大学まで卒業させてもらいました。「女子は大学に行かなくてもいい」と言われてしまうような時代でしたから、両親に対しては余計に感謝の気持ちが大きかった。同時に、ここまで教育を受けさせてもらえたからには、大学卒業後は自分の力で食べていける大人になろうと。「とにかく長く働くこと」が、社会に出るにあたって最初に抱いた夢でした。
ただ、私が就職活動をしていた1970年代後半は「男女雇用機会均等法(※1)」もなく、四年制大学を卒業した女性を雇ってくれる地元の民間企業はほとんどありませんでした。唯一、公務員だけは採用枠があり、“消去法”で受けたのが高知県庁の職員と国家公務員だったのです。幸い、どちらも合格しましたが、そうなると「地元に残って県庁に勤める」か、「上京して国家公務員になる」のか、大きな選択を迫られます。
※1……職場に生じている男女間の格差を是正し、男女の機会均等や待遇の確保を図ることなどを目的とした法律。1985年制定、翌86年施行。
東京はなんとなく怖いイメージがあったし、国家公務員が何をする仕事なのかもあまり分からない。それでも上京することを決めたのは、「長く働きたい」という思いを叶えたかったからです。今となっては想像しようもありませんが、当時の県庁は「男性職員の仕事」「女性職員の仕事」が明確に分かれていて、「企画は男性職員の仕事で、女性職員の仕事は“庶務”です」のようなことを言われた記憶もあります。女性という理由で“限られた仕事”しかさせてもらえないのではないか。国家公務員のほうが、まだ長く働ける可能性があるかもしれない。だったらそこに賭けてみよう、と。
そんな経緯で当時の労働省に入省し、私の公務員人生がスタートしました。20代のうちは能力が追いつかないながらも、やれることを懸命にやって、楽しく働くことができました。30代、40代、50代を振り返っても、仕事自体は男性と同じようにさせてもらいましたし、2015年に退官するまで37年にわたり勤め上げられたわけですから、あのときの決断は正しかったのだと思います。
思いがけない20代半ばでの結婚に、何のためらいもなかった
2つ目の大きな決断は、26歳で結婚したこと。もともと結婚に関心がなく、したとしても晩婚だろうと思っていました。夫になった男性は、労働省の同期で親友。仕事の心配事やトラブルについての相談、それこそ恋愛相談にも乗ってもらっていたんじゃないかな(笑)。それくらい信頼していました。ずっと一緒にいたいというよりも、「年老いたときにこんな人が“茶飲み友達”でいてくれたら、どんなに楽しいだろう」と思わせてくれるような人です。
でも、彼がもし、私以外の誰かと結婚したら……。いつでも何でも話せる茶飲み友達でいるのは難しくなるかもしれない。幸い彼も「妻には家庭に入ってほしい」というタイプではなく、「同志」のようなパートナーを求めていた。だったら夫婦になってしまおうということで、自分でも驚くくらい早く結婚を決めました。
思いがけない20代半ばでの結婚。それでも躊躇せずに踏み切れたのは、父からたびたび聞かされた言葉が影響していたと思います。父はよく「勉強は自分のためにするものだから、いくら一生懸命やったとしても褒めてはやれない。ただ、家のお手伝いをしたら褒めてあげる」と言っていました。また、私が上京するときは「お前がどんなに仕事で偉くなっても、それだけで褒めてあげることはできない。でも、仕事をして、結婚をして、子どもも育てたら褒めてあげる」という言葉とともに送り出してくれました。まぁ、送り際にこんなことを言うのは、本心では高知に残ってほしかったからだと思いますが(笑)。
《画像:父と一緒に撮った大学の卒業写真》
でもそんな父の教えがあったから、「仕事(勉強)と家庭のどちらかではなく、両方を大事にする」という価値観が芽生えたのでしょう。だから、「今は仕事をがんばりたいから結婚や子どもを持つタイミングじゃない」とか、「結婚して子どもが産まれたら仕事を辞める、仕事の優先順位を下げる」とは、はじめから考えてもいなかったのです。29歳で長女を出産しましたが、激務に追われるなかでも、子どもをつくることに対しては何の抵抗もありませんでした。当たり前に、子育てをしながら今まで通り仕事を続ける気でいましたから。
育児で両親を頼れない「悲惨な状況」でも、転勤を決意
今振り返ると、私の場合は、職場環境にも恵まれていたように思います。当時、どの省庁にも「女性の先輩」はほとんどいませんでしたが、労働省だけは別でした。「婦人少年局(現・厚生労働省 雇用環境・均等局)」という女性に関わる問題を扱う部署もあり、それこそトラコ(※2)の時代から女性に門戸を開いていたのです(※3)。女性の幹部がいて、子持ちの先輩も多かった。この、子どもがいても管理職として働き続けている先輩たちの存在があったことも、「仕事か家庭かどちらかを選ぶ」という発想に至らなかった大きな理由かもしれません。
※2……2024年放送の連続テレビ小説『虎に翼』の主人公・猪爪寅子(いのつめ・ともこ)のあだ名。寅子のモデルとなった三淵嘉子さんは横浜家裁退官後、労働省の審議会でも座長を務めた。
※3……婦人少年局の初代局長は山川菊栄さん。局長を務めた期間は1947年〜51年。『虎に翼』の猪爪寅子が裁判官として活躍していた時期に重なる。
とはいえ、そんな先輩たちから見ても、私たち夫婦の事情はなかなか厳しいものだったようです。子育てしながら仕事をしている先輩たちの多くは親と同居しているか、近くに実家があり、いつでもサポートを受けられる状況。でも、私たちは夫婦ともども実家が遠く、子育てを両親に頼ることはできませんでした。そんなときに先輩からかけられた言葉は、今でも覚えています。「両親を頼れない村木家は、ある意味で“悲惨な事例”かもしれない。だけど、あなたたちが子育てと仕事を両立できたら、後輩たちにとってものすごく励みになるのだから頑張りなさい」と。
《画像:長女を出産後6週間で初出勤。そのときに撮った一枚》
激励の言葉だけでなく、具体的なアドバイスもいただきました。長女を授かったときも、長女が2歳の頃に島根への「子連れ転勤」が決まったときも、先輩たちが実体験や「あのときはこうやった」というノウハウを積極的に教えてくれました。そうやって先輩たちから受けた恩を私たちも下の世代に返そうと、子育てと仕事の両立にあたり困ったことは何か、それにどう対応したかの実体験をまとめたマニュアルを作り、子どもが産まれた後輩に渡したりもしました。
当時の労働省には、両立を支援するような「制度」こそありませんでしたが、みんなで助け合おうという「環境」があった。女性が働くことが今ほど当たり前ではなかった時代、親身に面倒を見てくれる先輩たちの存在は本当に心強いものでした。
そして、自分も「女性だからって可能性を閉ざされるのはイヤだ、と今の仕事を選んだわけだから、与えられたチャンスはつかみたい」と考えていました。そういえば、「子連れ転勤」を打診されたときも、うんと偉い上司が「どうする? 断ってやろうか?」と親切心から声をかけてくれました。でも、あのとき転勤を決断してよかったな、と今でも思います。
ポストが上がるたび、見える景色が変わった
前述の通り、私が社会人になって最初に抱いた目標は「とにかく長く働くこと」。
反面、出世したい、偉くなりたいとは、まったく思っていませんでした。
そんな考え方が変わったきっかけは、27歳で係長に昇進したこと。係長になると、係員(※4)時代の仕事ぶりが客観的に見えるようになります。すると「今の自分なら、もっといい係員になれるのに」と思えてくる。その後、課長補佐、課長、局長と階段をひとつ上がるたびに、同じことを思いました。
※4……役職なしの職員。一般企業でいうメンバー。
もちろん、年齢とともに上がっていくポストや仕事のレベルに対して「追いついていないな」と感じたこともありました。でもある日、気づきました。「今なら立派な係員になれる」と思えたということは、しっかり成長できている証ではないかと。たとえ上がったポストに対しては力不足だったとしても、そのギャップを埋めるために努力すれば、次に昇進するときは「今なら、もっと立派な係長になれるはず」と思えるようになる。ポストが上がるたびに、自分の可能性や伸び代が見えてくる。成長しているという実感が持てる。そう気づいてからは、昇進への思いも変わりました。
階段を1段上がると、見える景色は変わります。もちろん責任は重くなりますが、その分やれることも大きくなります。周囲の期待にも応えやすくなって、仕事がどんどん楽しくなっていくはず。ですから、働く女性の皆さんには「昇進に対して、尻込みしないでほしい」と強く伝えたいです。
20代から「正解のルート」なんて決めなくてもいい
思えば、就職も結婚も昇進も、当初想定していなかった方向に転がっていきました。すでに紹介したこと以外にも、新婚2カ月で交通事故に遭い重傷を負ったり、外務省に出向した際は鬱になる寸前まで精神的に追い込まれたりと、20代を振り返るだけでも予期せぬことばかりが起きました。
つまり、若い頃にいくら将来のライフプランを描いても、その通りにいくとは限らないということです。自分でコントロールできないことも多くて、すべてを計画しきるのは不可能。先々を見据えることは大事ですが、最初から「正解のルート」を決めて、そのルート通りに進むことにこだわりすぎなくてもいいのかなと思います。
人生の選択について考えるとき、「たくさんのドアがある部屋」を想像します。どれかひとつを開けると別の部屋が現れて、そこにもたくさんのドアがある。そうやって、ひとつずつドアを選んでいくのが人生です。選んだドアが正解かどうかは、次のドアを開けてみるまで分からない。だから、先のことを考えすぎるより、その時々の自分がどうしたいかを基準にドアを選んでいく。特に、人生の前半はそれでいいと思います。
若い頃、転職の支援をしている人から言われたことがあります。「職業人生の前半は“川下り”、後半は“山登り”がいい」と。まずは自分が放り込まれた川で、転覆しないようにボートを漕ぐ。そうやって必死に川を進むうちにたくさんの経験を積み、実力もキャリアもついてくる。それから人生の後半に向けた山登りがスタートする。そこで初めて、どの山をどのルートで登るか決めればいいのだと。年齢を重ねた今、この言葉により共感できるようになりました。
20代の働く女性のなかには、将来に対して不安を抱えている方、キャリアに悩んでいる方もいらっしゃるかもしれません。でも、手持ちの武器が少ない人生の前半は、目の前にあるドアを開けてチャレンジすることに専念するのがいいと思います。
そのうえで、自分が選んだドアの先に見える景色を楽しんでほしい。そして、その時々で最良だと思える選択をしてほしいと願っています。
村木厚子さん プロフィール
1955年高知県生まれ。高知大学卒業後、1978年、労働省(現・厚生労働省)に入省。女性政策や障がい者政策などを担当。2009年、郵便不正事件で逮捕。2010年、無罪が確定し、復職。2013年から厚生労働事務次官。2015年退官。退官後は、困難を抱える若い女性や累犯障がい者の支援にも携わる。著書に『公務員という仕事』(ちくまプリマー新書)など。
長いキャリアを考えるうえで、結婚・子育てと仕事の兼ね合いは悩みの種。実際、マイナビ転職の調査でも、育児との兼ね合いが原因で「退職した」「退職を検討した」という女性が43.6%に上りました。
マイナビ転職では、仕事と子育てを両立していくためにどのような環境や制度が「手持ちの武器」になるのかを調査しています。自身のキャリアを実現するために、今の仕事や職場にどんなメリット・デメリットがありそうか。これを機に、チェックしてみてはいかがでしょうか。
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構成:榎並紀行(やじろべえ)
編集:はてな編集部
制作:マイナビ転職