名声の裏にあった、家族の絆 ― 特別展「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」(読者レポート)
大阪市立美術館 特別展「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」会場風景
世界中で最もよく知られている画家の一人フィンセント・ファン・ゴッホ。日本でも毎年のようにゴッホ展が各地で開かれ、大勢の人が足を運んでいます。それどころか、彼の作品は傘やエコバッグなどにもプリントされ、日常に溶け込んでいると言っても過言ではありません。
今ではこれほど“偉大な作家”として認知されているものの、左耳を自傷したという衝撃的なエピソードや、死の直前まで創作を続けていたことなど、画家自身の人生が広く知られている例は、ゴッホ以外にはあまりないのではないでしょうか。
大阪市立美術館 特別展「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」会場より 会場風景「第1章 ファン・ゴッホ家のコレクションからファン・ゴッホ美術館へ」より
本展は、ファン・ゴッホ家に受け継がれたファミリーコレクションにスポットをあてた展覧会です。ゴッホを語る上で、弟テオの存在は切り離すことはできません。兄フィンセントの創作活動の裏には、つねにテオの献身がありました。その深いつながりを象徴するかのように、兄の死後、約半年でテオ自身もこの世を去ります。
大阪市立美術館 特別展「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」会場より 会場風景「第2章 フィンセントとテオ、ファン・ゴッホ兄弟のコレクション」より
大阪市立美術館 特別展「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」会場より 溪斎英泉《夜の楼》1849-51(嘉永2-4)年 ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)
生前には数枚しか絵が売れなかったフィンセントですが、今では世界中で愛される画家となりました。
その背景には弟テオの妻、ヨーの尽力がありました。夫が亡くなり、フィンセントの作品や、兄弟が18年間交わした手紙、美術コレクションなどをヨーは受け継ぎます。そして彼女は義兄フィンセントの名声を確立させようと人生の大半を捧げたのです。ヨーロッパやアメリカで展覧会を開催し、テオ宛ての手紙をまとめて出版するなど多くの活動をします。
そしてついにはロンドンのナショナル・ギャラリーにも作品が収蔵されることになりました。
大阪市立美術館 特別展「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」会場より フィンセント・ファン・ゴッホ《ヴィーナスのトルソ》1886年6月 ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)
大阪市立美術館 特別展「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」会場より 会場風景「第3章 フィンセント・ファン・ゴッホの絵画と素描」より
ヨーの亡きあと、その志を受け継いだのは、息子のフィンセント・ウィレムです。彼が59歳のとき、「後世のためにもファン・ゴッホ家のコレクションはオランダに保管されるべき」という信念のもと、フィンセント・ファン・ゴッホ財団を設立。そして1973年、オランダに国立フィンセント・ファン・ゴッホ美術館(94年に民営化されファン・ゴッホ美術館となる)を開館します。
同館は開館以来、5千万人以上の人が世界中から訪れる場所となっています。
大阪市立美術館 特別展「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」会場より 初来日の手紙「傘を持つ老人の後ろ姿が描かれたアントン・ファン・ラッパルト宛ての手紙」1882年9月23日頃 ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)
大阪市立美術館 特別展「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」会場より イマーシブ・コーナーは幅14メートル超え
展示では初来日したファン・ゴッホの手紙4通やアルル時代に描いた《種をまく人》など、初期から晩年までを網羅した作品が紹介されています。ゴッホの才能や努力はもちろんですが、ゴッホが今、世界中で愛されているのは、「ファミリー」の支えがあったからだということを本展を通じて知りました。
「生きているときに、作品が数枚しか売れなかった画家が世界的な画家になる」という夢物語なのではなく、確かな家族の絆と努力のおかげなのです。この事実を知ることで、ゴッホの作品は一層響き、そしてこれからも愛され続けていくことを確信します。
大阪市立美術館 特別展「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」記者内覧会より テオのひ孫、ウィレム・ファン・ゴッホ氏(フィンセント・ファン・ゴッホ財団代表)
大阪市立美術館 特別展「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」記者内覧会より 展覧会サポーターの松下洸平氏。本展の音声ナビゲーターも担当
[ 取材・撮影・文:カワタユカリ / 2025年7月4日 ]