『天才か狂人か?』曹操も手を焼いた三国志最凶の暴言王とは
三国志屈指の個性派
三国志には数多くの「個性派」が登場する。
「個性派」という言葉の定義は難しいが、昔の人が大袈裟に書くことを好んだこともあり、多少盛られたエピソードも含まれているだろう。
しかし、常人には真似のできないような逸話は、1800年経った今でも語り継がれている。
今回は、そんな三国志屈指の個性派である禰衡(でいこう)を紹介する。
彼は、人材コレクターとして知られる曹操ですら扱いきれなかったほどの風変わりな人物だった。
禰衡の知名度
今回の主役である禰衡の知名度だが、コーエーテクモゲームスの『三國志』シリーズに5から8まで登場していたが、9以降は姿を消し、もう一つの人気シリーズである『三國無双』シリーズには登場せず、入門書である『横山三国志』にも登場しないため、日本で名を売る機会はかなり少なかった。
また、ゲームの『三國志』シリーズに登場していた時も、5と6では知力90以上、政治も88、87と高いステータスを誇る優秀な人材だったが、7と8では知力が70台に落ち、政治に至っては34に急落してしまい、人気シリーズから姿を消す事になってしまった。
インターネットの普及により、後に紹介する強烈なエピソードを知られるようになったが、今日に於いても禰衡の名前を見る機会は少なく、知名度は低いといっていいだろう。
禰衡伝説の始まり
前置きが長くなったが、次に禰衡の生涯を振り返る。
青州出身の禰衡は若い頃からその才能を評価されており、記憶力に優れ、文章や書を一度見ればすぐに覚えたと伝えられている。しかし、それをひけらかすような態度でいたため、周囲の評判は芳しいものではなかった。
196年、許昌にやって来た禰衡は、曹操にも配下の名士たちにも会おうとせず、むしろ彼らを公然と侮辱した。
有名なエピソードを紹介すると「陳羣や司馬朗に挨拶に行かないのか?」と尋ねた者に対して「あなたは私に豚殺しや酒売りのところに行けというのか?」と答えたという。
禰衡の暴走は止まらず、ついには「曹操は大した事がない」とまで言い放つ始末だった。
袁紹に次ぐ天下人候補だった曹操をも恐れない暴言の連発だったが、この一件によって禰衡は有名人となり、数々の暴走…もとい伝説を残す波乱の生涯を歩むこととなった。
禰衡大暴れ!
こうして一躍有名人となった禰衡だが、それは悪評によるものであるため、むしろ許昌の嫌われ者であった。
誰もが近寄りたくない存在となっていた禰衡だが、後漢末期を代表する文人で「建安の七子」の一人に数えられた孔融は、彼の才能を高く評価し、曹操に推薦しようと考えた。
当時、曹操は才能ある人物を積極的に登用しており、禰衡の評判を聞いてもなお興味を示した。(禰衡の悪評と自身への悪口は耳に入っていたはずだが、それでも会いたがった曹操の人材コレクターぶりはさすがである)
孔融は、禰衡にとって敬意を持って接する事の出来る数少ない人物だったが、禰衡自身は曹操に仕える気がなかった。
そして孔融の誘いを「自分は狂気を患っている」と称して断ってしまう。
その後も、頑として曹操と会いたがらなかった禰衡だが、禰衡が太鼓の名手であると聞いた曹操によって、宴席でその腕前を披露する事になった。(なぜ禰衡が引き受けたのか、その経緯が史書に書かれていないため詳細は不明だが、曹操は朝廷の楽士として禰衡を呼んだため、勅令として拒否権を奪ったという説がある)
禰衡は、曹操の期待通り見事な太鼓の腕前を披露するが、演奏を間違えてしまった。
『禰衡伝』によると、当時は「演奏を間違えた者は衣装を改める」という習わしがあったとされる。
禰衡も例に従い、着替えるために退出すると思われたが、なんと公衆の面前で堂々と脱ぎ始めてしまった。
全裸のまま演奏を再開したのか、その場で着替えたのかは諸説あるが、その後も見事な演奏を披露して周囲を圧倒した。
そんな禰衡に対して曹操は
「禰衡に恥をかかせるつもりだったが、こちらが恥をかかされてしまった」
と苦笑したという。
許昌を追われる
最終的に曹操は笑って許したものの、禰衡が到底扱える人物でないことは明白であった。
もはや暴言がエスカレートして反乱の煽動でもしない限り、放っておくのが最善策だった。
しかし、諦めきれなかったのは孔融である。
曹操に禰衡の登用を持ち掛けた事と、公衆の面前での禰衡の暴挙で面子を潰された事によって、引くに引けなくなっていた。
孔融は、太鼓事件の後も曹操に会うようしつこく迫り、禰衡も根負けして「君のためなら」と渋々ながらも承諾する。
翌日、曹操が孔融とともに禰衡を待っていると、門番から「みすぼらしい身なりの男が門前に座り、杖で地面を叩きながら曹操を罵倒している」という報告が入る。
確認するまでもなく、その男こそ禰衡であった。
曹操もついに怒りを爆発させ、禰衡を斬ろうとするが、彼はすでに広く知られた人物であり、ここで処刑すれば狭量な君主と見られかねないと考え、処分を思いとどまった。
そこで曹操は、禰衡を南陽の劉表のもとへ送ることに決めた。
許昌で禰衡を好きな人物は皆無に近かったが、なぜか禰衡の送別会が開かれる事になった。
しかしこれは禰衡との別れを惜しむための宴ではなく、禰衡を無視して恥をかかせようというものだった。
禰衡がやって来ると、出席者は打ち合わせ通り寝たフリをして禰衡を無視した。
すると禰衡はいきなり泣き出し、周囲を驚かせる。
「言葉を発することが出来ない死体しかいない、どうして泣かずにいられようか!」
許昌を去る最後の最後まで、禰衡は禰衡のままだった。
禰衡処刑
意外なことに、禰衡は劉表に対しては当初は従順に振る舞い、劉表からの評価も高かった。
劉表のもとでは文書の起草や議論に関わり、その才能を発揮したとされる。しかし、これはあくまで劉表の前でのことであり、他の者たちに対しては相変わらず傲慢な態度を崩さなかった。
やがて、禰衡の振る舞いに不満を抱いた者たちが彼の態度の酷さを訴えるようになり、それを聞いた劉表も次第に彼を遠ざけるようになった。
劉表自身も禰衡を持て余すようになり、ついには彼を江夏の黄祖のもとへ送ることを決めた。
黄祖のもとでも、禰衡は初めのうちは厚遇され、文書の作成などに従事していた。
しかし例によって、やがて傲慢な態度が問題視されるようになる。
ある宴席で、黄祖が彼に発言を求めた際、禰衡は「死んだような老人に何を話せというのか」と暴言を吐いたという。
この言葉に激怒した黄祖は、即座に彼を捕らえ、処刑を命じた。
この時、黄祖の息子・黄射は助命を嘆願したが、すでに処刑は執行されており間に合わなかった。
黄祖自身も、禰衡を殺したことを後になって後悔したという。
濃密な人生を送った愛すべきヒール
禰衡の年齢は、何歳くらいのイメージに思えるだろうか。
筆者が初めて彼のエピソードを知ったとき、曹操を恐れぬその言動から、偏屈な老名士のような人物を思い描いていた。
しかし、実際に彼が処刑されたのは、わずか26歳の若さであった。
禰衡が歴史に名を刻んだのは、正史に登場してからわずか2~3年ほどの短い期間にすぎない。それでも彼は、曹操に侮辱的な態度をとり、劉表のもとでも人々と衝突し、最後は黄祖を罵倒して処刑された。
その生涯はまさに波乱万丈であり、破滅的ですらあった。
もし孔融が曹操に彼を推薦しなかったら、あるいはもう少し長く生きたかもしれない。しかし、禰衡の性格を考えれば、いずれにせよ誰かを激怒させ、最期を迎える運命だったのかもしれない。
三国志の物語において、曹操はしばしばヒール(悪役)として描かれる。しかし、その曹操をも侮辱し、世の権力者たちを嘲笑いながら生きた禰衡こそ、ある意味で「愛すべきヒール」だったのではないか。
筆者自身も、最期の瞬間まで己の信念を貫いた禰衡を、決して嫌いにはなれない。
禰衡の生涯は、単なる異端児の物語ではない。彼の言動は、今なお多くの人々に語り継がれ、伝説として残り続けているのである。
参考 :
『三国志』魏書・荀彧荀攸賈詡伝
『後漢書』巻八十下「文苑列伝第七十下」他
文 / mattyoukilis 校正 / 草の実堂編集部