時代を変えたアニメ「宇宙戦艦ヤマト」松本零士の緻密さとメカセンス抜きには成立しない!
新進気鋭のスタッフとアニメーターが集まって立ち上げられたヤマト
戦艦を宇宙に浮かべたい。
プロデューサー・西崎義展のそんな発想から『宇宙戦艦ヤマト』の企画は立ち上がった。そこに、虫プロでアニメ作品の監督として活躍した山本暎一、『マジンガーZ』の脚本を書いた藤川桂介、SF作家の豊田有恒らが加わり、アイデアを出し合って企画書を制作したのが始まりだ。昭和48年(1973年)のことである。
初期の企画書においてキャラクターはアメコミ風で、ヤマトは岩の塊にしか見えないデザインであった。白土武、芦田豊雄、小泉謙三ら新進気鋭のアニメーターを起用し、スタッフの人選と依頼がほぼ終了した頃、西崎は “背景美術が弱いな。もっと宇宙に奥行きが欲しい” と感じる。そこで西崎は主要スタッフである野崎欣宏の紹介で練馬区にある松本零士の自宅に企画書をもって訪れ、松本はメカとキャラクターのデザインを快諾したのである。これによりヤマトは、あの洗練されたフォルムへと生まれ変わり、沖田十三、古代進、森雪ら、魅惑的なキャラクターが描き出された。
作曲家、歌手、声優、一流の人々が集って、昭和49年、ヤマト発進!
松本零士は当時、漫画家として『男おいどん』でその地位を確立しながら、『大海賊ハーロック』『セクサロイド』シリーズなどで、メカと美女に圧倒的な画力を発揮していた。松本の妻で漫画家の牧美也子によると、松本はディズニーのアニメ映画が好きで、最初から動く絵、アニメーションをやりたいと言っていたそうだ。そこにヤマトの話が来たことで “嬉しかったと思いますよ、自分の描きたいものでしたから” と、語っている。
昭和49年(1974年)、ヤマトの制作が開始される。松本のデザインから新たに設定書が書き起こされ、シナリオ、絵コンテが描かれた。松本の画は動画からセル画になり、フィルムへと変わった。音楽は、作曲家・宮川泰によって、ささきいさおが歌う主題歌をはじめ劇伴も完成。富山敬、納谷五郎、麻上洋子(現:一龍斎春水)、伊武雅之(現:伊武雅刀)らの声優陣がキャラクターに命を吹き込んで、昭和49年(1974年)10月6日、遂にテレビ放映が始まったのである。
本放送では視聴率が伸びず、全39話の予定が26話で打ち切りとなってしまった。裏番組が、当時大人気を誇った『アルプスの少女ハイジ』であったこともその要因とされている。しかし『宇宙戦艦ヤマト』は、再放送によって徐々にその人気に火が付くことになる。アニメファンの一部はすでに、ヤマトが他のアニメと一線を画するものであることに気が付いていた。それはじわじわとファンの間に浸透し、全国各地に私設のヤマトファンクラブが発足。その動きはヤマト映画化の署名運動へと発展し、昭和52年(1977年)に映画製作が実現。公開初日には徹夜組を含む2万人以上が行列を作ったという。
その人気を支えていたのは細かな設定に基づいた物語の秀逸さ、宮川泰による音楽の功績ももちろんあるが、何より松本零士によるメカとキャラクターのデザインによるところも大きい。オープニングのテロップに “監督 松本零士” とあることも、その証と言えよう。また中心メンバーの一人であった東映プロデューサーの吉田達も “ヤマトは松本の緻密さとメカセンス抜きには成り立たなかった" と断言する。
松本零士が作り出した宇宙の中で、他の作品ともつながる世界観
一方、松本自身も、最初のテレビ放映が始まった年に、小学館の雑誌『小学5年生』で『宇宙戦艦ヤマト』の絵物語を全6回で描き、また秋田書店発刊の月刊漫画雑誌『冒険王』で同名の作品を連載、古代進の表紙で単行本化もされた。アニメと並行して執筆されたが、月刊誌の連載ということもあり物語は大幅に簡略化された。古代進の兄はキャプテンハーロックと名乗る覆面をした海賊として登場し、ヤマトのピンチを救うといった場面も描かれている。松本が描く宇宙の中では、ヤマトとハーロック、そしてのちに描かれることとなる『銀河鉄道999』と『クイーン・エメラルダス』、さらに大和型宇宙戦艦が活躍する松本のオリジナル作品『超時空戦艦まほろば』も含め、全てが同じ世界線の中で生きているのだ。
映画版ヤマトの大ヒットを受け、その翌年の昭和53年(1978年)、劇場アニメ映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』が公開される。観客動員数400万人、興行収入43億円を記録する大ヒットとなったのだが、この映画のラストシーンは未だにファンの間で語り草になっている。強敵・白色彗星を倒したと思ったのもつかの間、超巨大戦艦が出現する。古代進は、これまでの戦いの中で戦死した森雪の遺体と共に特攻を決意。 “星になって結婚しよう” とささやき、超巨大戦艦に突っ込んでいく。
この場面に対し、特攻を美化することを認めず、たとえ負け戦であっても生き残る意思を描くべきだと主張したのが松本だ。松本は昭和13年(1938年)福岡県生まれ。昭和20年(1945年)の終戦の日をはっきりと覚えており、陸軍航空隊の戦隊長だった父から、戦場での悲惨な状況を直接聞かされて育ったという過去を持つ。映画に続いて放映となったテレビ版『宇宙戦艦ヤマト2』では、ヤマトを始めとする主要な乗組員はすべて生き残るという物語に改変された。
いずれ人は死ぬが、それまで精一杯に生きることが信条
昭和54年(1979年)のテレビアニメスペシャル『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』に続いて、その翌年に公開されたのが、劇場アニメ『ヤマトよ永遠に』だ。この制作会見の中で、松本は次のように語っている。
「これほど長い航海の船に乗るとは思ってもみなかった。(中略)ヤマトの航海は何であったかとケジメをつけます。感性の問題は私の一連の他の作品と同じで、人がすぐ死ぬというのは私は嫌いです。いずれは人も死にますが、それまで精一杯に生きるということを信条としてまして、それは『銀河鉄道999』でも同じでした」
この映画の公開から20年が経った平成12年(2000年)、松本は小学館の月刊漫画雑誌『コミックGOTTA』で『新 宇宙戦艦ヤマト』を連載。地球の危機を救ったヤマトが伝説と化していた西暦3199年、つまり前作の1000年後を舞台に、古代進32世らヤマト乗組員の子孫が活躍する物語を描いた。アニメ版のヤマトとは異なる世界観が、松本の中には脈々と生きていたのだ。
令和5年(2023年)2月13日、松本零士は85歳でこの世を去った。その魂は今、彼が描いた広大な宇宙の中を自由に飛び回っているに違いない。