漢帝国を陰で操った「最凶の頭脳」陳平 ~韓信を罠にかけ、呂一族を滅ぼす
紀元前3世紀末の古代中国。
秦帝国の滅亡によって大陸は再び群雄割拠の時代に入り、漢の劉邦と、楚の項羽が覇権を争っていた。
農民出身ながら天下を制した劉邦のもとには、数多くの知勇兼備の人材が集い、新たな国家の骨格が形作られていく。
そのなかで、後世に名軍師として名を馳せたのが、張良と陳平(ちんぺい)のふたりである。
主に戦略面で貢献した張良とは違い、陳平は他人が思いつかないような奇策を次々に打ち出して劉邦を救った。
だが、陳平はそれから400年ほど後の三国時代、魏の曹操が布告した『求賢令)』で、「兄嫁と密通し、賄賂を受け取った」と例に挙げられるほど、品行の悪さでも知られた人物だった。
あふれんばかりの才能と、品行の悪さという二面性を併せ持つ陳平とは、どのような人物だったのだろうか。
策略の人
陳平は、戦国時代に魏の支配下にあった陽武の地に生まれた。
家は貧しい農家で、兄・陳伯(ちんはく)が畑を耕し、陳平は学問に打ち込む日々を送っていた。
成人し、結婚を考えるようになった陳平は、金持ちの老婦人である張氏の孫娘に目をつけた。
張氏の孫娘は5度結婚したがそのたびに夫が死んでしまい、男が寄りつかなくなっていたのである。
陳平は一計を案じ、村の葬儀を熱心に手伝うようになった。
葬儀を通じて張氏と交流を持つようになった陳平は、ある日、わざと人より遅く帰宅した。
陳平のあとをつけた張氏が彼の家の前まで来てみると、そこには何台もの馬車の轍が残っていた。
つまり、陳平は張氏に「自分は馬車に乗るような高い身分の人間と交流がある」とアピールしたのだ。
貧しい農家の次男にすぎない陳平に、実際に高貴な人脈があったとは考えにくい。
張氏は策略と見抜いていた可能性もあるが、そうした陳平の知恵や志の高さを評価したのかもしれない。
結果的に陳平の策略は成功し、彼はまんまと金持ちの孫娘を娶ることができた。
後に「計略の達人」として知られる陳平の初期の逸話である。
魏と楚を去る
紀元前209年、陳勝・呉広の乱が勃発すると、各地で反秦の動きが広がった。
陳平も志を同じくする若者たちを率い、陳勝によって魏王に擁立された魏咎(ぎきゅう)のもとに身を寄せた。
軍事の要職である太僕(王の車馬の管理官)に任命された陳平であったが、魏咎に献策が採用されることはなかった。
魏咎は後に、秦の章邯(しょうかん)に対して「自分の命と引きかえに領民を助けてほしい」と訴えて焼身自殺するほど高潔な人物であり、策略家である陳平とは性格が合わなかったのかもしれない。
次第に周囲から悪評を立てられるようになった陳平は、魏を離れ、項羽のもとに身を投じた。
だが、陳平は試練に直面する。
彼が攻略に関わった殷の地が劉邦側に寝返ったことで、激怒した項羽は、責任を陳平に問い、命を奪おうとしたのだ。
失望した陳平は、項羽から受け取っていた金や印綬を返上し、そのまま漢の陣営へと向かった。
しかし、その道中でも思わぬ危機に見舞われた。
黄河の渡し場で、船頭が陳平の身ぐるみを剥ぎ、命を奪おうと企てたのである。
危険を察した陳平は、「漕ぎ手を手伝おう」と言ってその場で衣服を脱ぎ捨て、自分が無一文であることを示した。
奪うものがないと悟った船頭は、殺害を思いとどまったという。
品行に問題あり
その後、旧友である魏無知(ぎむち)の紹介によって、陳平は漢王・劉邦と対面する機会を得た。
人物を見抜くことに長けていた劉邦は、陳平の話術と才気にたちまち魅了され、彼を都尉(軍の監察官)に任命する。
さらに、劉邦は陳平に自らの車への同乗を許し、護衛兵を統率する任務まで託した。
新参者にしては異例ともいえる厚遇であった。
だが、当然のように陳平はここでも問題を引き起こす。
古参の武将である周勃(しゅうぼつ)や灌嬰(かんえい)が、その厚遇ぶりに不満をいだき、陳平の経歴や品行を中傷するようになったのである。
「兄嫁と密通していた」「魏や楚を裏切った信用できない男」「賄賂の金額に応じて人事を左右する」などという讒言に不安をいだいた劉邦は、推薦者である魏無知を呼び出して問いただした。
すると魏無知は、こう反論した。
「わたしが陳平を推薦したのは彼の策略の才能を見込んだからです。漢王がおっしゃっているのは彼の品行についてですが、楚と争っている今、そんなことを問題にしている余裕があるでしょうか」
続いて陳平を呼び出した劉邦は、過去の経歴や収賄の容疑について問いただした。
「おまえは魏にも楚にも仕えたがうまくいかず、今はわたしに仕えている。信義のある者がこれほど心変わりするものだろうか」
すると陳平は悪びれることなく、こう反論した。
「わたしが魏や楚を去ったのは、進言してもまったく採用されなかったからです。
今、策を用いてもらいたい一心で漢王のもとに参じましたが、身一つで資金もなく、やむを得ず賄賂を受け取ったまでのこと。
もし策が不要というのであれば、これまでの賄賂はすべて返上し、潔く職を辞する所存です。」
この反論を聞いた劉邦はますます陳平を気に入り、彼に多くの金品を与えて護軍中尉(軍の上級監察官)に出世させたという。
これ以降、陳平の悪口をいう者はいなくなった。
賄賂や汚職について、陳平は弁明するどころか、あえて肯定するような物言いをしている。
だが、劉邦が気にしていたのは「陳平は裏切らないのか」「漢軍に必要な人材なのか」ということだったのだろう。
劉邦は「品行に問題がある」ことを承知で陳平を引き立てたのだ。
反間の計
楚漢戦争が始まって1年ほどが過ぎ、劉邦は項羽に追い詰められていた。
最前線の軍事拠点である滎陽城に籠もった漢軍は、楚軍に食料の供給を絶たれ、孤立していたのである。
打つ手がなくなった劉邦は項羽に和睦を申し入れたが、拒否された。
いよいよ万策尽きたかのように見えたが、このとき陳平の奇策が劉邦を救う。
陳平は劉邦にこう進言した。
「項羽は、讒言を信じやすい男です。范増(はんぞう)、鍾離昧(しょうりまい)、龍且(りゅうしょ)、周殷(しゅういん)といった、信頼している数少ない側近に疑惑を植え付ければ、楚軍は必ずや内部崩壊を起こすでしょう」
この策を採用した劉邦から、軍資金として黄金4万斤を与えられた陳平は、多額の金をばらまいて楚軍に大量の間者を放った。
その後、「鍾離昧らが漢に内通して王になろうとしている」という噂を耳にした項羽はまんまと疑心暗鬼にかられ、事態を確認するために漢軍に使者を派遣した。
劉邦は豪勢な料理で使者を歓待したが、相手が項羽からつかわされた使者だと聞くと態度を一変させる。
「なんと、范増どのの使者かと思っていたが、項王からの使者であったか!」
この劉邦の発言の報告を受けた項羽は、大いに范増を疑った。
項羽に信用されなくなった范増は失望して職を辞し、彭城に帰還する途中で亡くなってしまった。
項羽は、数少ない貴重な助言者を失ったのである。
こうして楚軍を内部崩壊させた陳平であったが、滎陽城はまだ包囲されたままであった。
食料も尽き、援軍も期待できず、このままでは座して死を待つばかりである。
ここで陳平は、再び奇策を進言した。
それは、甲冑を着せた2000人の女性を城の東門から出させ、楚軍を混乱させたのち、劉邦の影武者に降伏を宣言させる。
その隙に劉邦本人は西門から逃走する、というものであった。
奇策は見事に成功し、劉邦は無事に関中への脱出を果たした。
だが、その陰で影武者となった紀信は火刑に処され、東門から放たれた二千人の女性たちの運命も記録に残されていない。
人身売買の対象となった可能性もあれば、楚軍によって無惨に命を奪われたとも考えられる。
陳平が卓越した知略の持ち主であったことに疑いはない。
しかし、彼が編み出す策は、常に陰惨さを帯び、どこか暗い影をまとっていた。
『史記』にも「陳平の策には、極秘裏に実行され、内容を知る者すらいなかったものがある」と記されている。
その詳細は明らかではないが、表に出せないほど過酷で陰険な策も数多くあったのだろう。
楚軍に仕掛けた内部工作も、史書に記された以上に苛烈で、えげつない手段が講じられていた可能性は否定できない。
韓信捕縛
項羽を打ち破って漢王朝を樹立した劉邦であったが、その後も各地で反乱が相次ぎ、天下は容易に安定しなかった。
そんな中、紀元前201年、もっとも功績の大きかった漢の三傑の一人・韓信が、謀反を企てているとの報が劉邦のもとに届く。
このとき韓信は、かつての知人・鍾離昧を匿っていただけで、謀反の意図はなかったとされる。
しかし、かねてから韓信の存在を警戒していた劉邦は、陳平を呼び寄せて助言を求めた。
「陛下の兵も将も、戦の才においては韓信に及びません。正面からぶつかっても勝ち目はないでしょう」
「では、どうすればよいのか」
「楚の西境にあたる陳の地に諸侯を召集なさいませ。韓信はきっと、拝謁のため郊外に現れるはずです。その場で捕らえてしまえばよいでしょう」
陳平の読みは今回も的中した。
劉邦を出迎えた韓信はその場で捕縛され、淮陰侯に降格された。
そして数年後、今度こそ本当に謀反を企てていたことが明るみに出て、ついに処刑された。
呂氏一族誅滅
劉邦の死後、後事を託されていた丞相・曹参(そうしん)が紀元前190年に亡くなると、王陵(おうりょう)が右丞相に、陳平が左丞相に任じられた。
その頃、漢王朝の実権は劉邦の正妻であった呂太后(りょたいこう)に握られていた。
呂太后は、自らの一族を各地の王に封じようと画策した。
硬骨漢として知られる王陵はこれに強く反発したが、陳平は異を唱えず、これに賛成する立場をとった。
やがて、呂太后の怒りを買った王陵は左遷され、その後任として陳平が右丞相に抜擢された。
こうして、劉邦の死後も順調に昇進を重ねていった陳平であったが、彼を讒言する者が現れる。
それは、呂太后の妹・呂シュであった。
呂シュの夫・樊噲(はんかい)はかつて謀反の疑いをかけられ、その際に陳平が捕縛の命を実行したことを根に持っていたのだ。
呂シュはしばしば呂太后にこう讒言した。
「陳平は政務を顧みず、酒と女にうつつを抜かしております」
この中傷を知った陳平は、やがて本当に政務を放棄し、遊興にふけるような生活を始めた。
呂一族に疎まれることを恐れ、あえて無能を装ったのである。
その策は功を奏し、呂太后の警戒心を解いた陳平は、以後も呂氏一族が王に取り立てられるのを黙認し続けた。
そして紀元前180年、呂太后が崩御する。
これを機と見た陳平は、功臣のひとり周勃(しゅうぼつ)と連携してクーデターを決行し、呂氏一族を一掃した。
そして劉邦の息子のひとり、代王・劉恒(りゅうこう)を擁立して即位させた。
後の漢の文帝である。
その後、陳平は正式に丞相に昇進し、紀元前178年に死去。諡は献候とされた。
生前、陳平はこう語っていたという。
「わしの子孫が廃絶されたら、再び興ることはあるまい。この身の陰謀が、あまりに多くの災いをもたらしたのだからな」
その言葉は現実となった。陳平の曾孫の代で不祥事が発覚し、侯の位と封国は没収された。
その知略で乱世を生き抜き、皇帝の信を得て権力の頂点に上り詰めた男、陳平。
だが、その歩みに影を落としたのは、策をめぐらすあまりに積み重なった「恨み」と「禍」であった。
一族の栄華は彼の死後、静かに歴史の中へと消えていったのである。
参考資料 :
司馬遷著 小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳『史記世家』下巻 岩波文庫
佐竹靖彦著『劉邦』『項羽』 中央公論新社
文 / 日高陸(ひだか・りく)校正 / 草の実堂編集部