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「努力した分だけ、活躍の時と場所がめぐってくる」──山田久美 女流四段の、強くなるためのメソッド【将棋講座】

NHK出版デジタルマガジン

「努力した分だけ、活躍の時と場所がめぐってくる」──山田久美 女流四段の、強くなるためのメソッド【将棋講座】

わが道をゆく 強くなるためのメソッド

NHKテキスト『将棋講座』の人気連載「わが道をゆく 強くなるためのメソッド」。プロ棋士の強さの秘密は何か。これまでどんな苦労を重ね、今後は何を目指していくのかなど、その知られざる素顔に迫ります。今回は、山田久美女流四段をご紹介します。

山田久美 やまだ・くみ
1967(昭和42)年1月6日生まれ。群馬県太田市出身。西村一義九段門下。1982年4月に女流2級、2014年女流四段。タイトル挑戦は1989年度の第12期女流王将戦と2014年度の第22期倉敷藤花戦。1994年度から96年度までNHK杯テレビ将棋トーナメント司会、第46回まで。1998年度から99年度までNHK衛星第2放送『囲碁・将棋ジャーナル』司会。2017年から日本将棋連盟女流棋士会の会長。
※記事公開時点の情報です

勉強と実践に励んだ中学生時代

──将棋を始めたのは小学6年生の3学期とうかがいました。

 「将棋を趣味にしていた父に、中学生になったら何かで学校一番を目指しなさい、将棋なら教えてあげる、と言われたんです。将棋だったら一番になれるかもと、軽い気持ちで始めました」

──当時は身近に将棋を指す女子はいなかったでしょうね。

 「いたんです。中学に入って通うようになった将棋道場に。1歳年下の、席主のお嬢さんでした。彼女も私と同じくらいの初心者だったはずですが、指したら負けたんです。それが、すごく悔しかった。大人に負けるのはしかたなくても、年下の子に負けるなんて。まずはその子に勝とうと思って、道場に通いました」

──初めて本気で強くなりたいと。

 「その子はそのうち来なくなったんですけどね。道場では、みなさんが入れ代わり立ち代わり指してくれました。五段か六段くらいのおじいちゃんに六枚落ちから教わり、定跡は木村義雄十四世名人の『将棋大観』で勉強しました。父が指し手を読み上げて私が駒を動かし、それを覚えるまで反復練習。父は厳しいところもありましたけど、道場で昇級するとお小遣いを増やしてくれたんです。うれしかったし、励みになりました。大好きなジュリー(沢田研二) のアルバムが買える!と思って。ほぼ毎月昇級して、1年くらいで初段になっていました」

──1年で初段は、早いですね。

 「ちょうど砂が水を吸い込むような時期だったと思うんです。もっと小さいときだったら、負けていやになって終わりだったかもしれません。当時はとにかく実戦、実戦。平日は学校から帰るとバスに乗って道場へ行き、夜8時くらいに母が迎えに来る。休日は大会があれば父と一緒に行く。居飛車穴熊でガンガン攻める将棋が好きでした。田中寅彦先生の本で勉強したんです。中学の3年間は、そんな日々が続きました」

──プロを目指したのは?

 「林葉直子さんや中井広恵さんへの憧れがあって、私も女流棋士になりたいと思うようになりました。佐瀬勇次先生に一門の研究会に誘っていただいたり、イベントに呼んでいただいたりしているうちに、自然と進路を決めていました」

──1982年4月、女流棋士に。

 「棋士の推薦で女流棋士になれたのは、私が最後です。現役の女流棋士が私を含めて16人。先輩のみなさんにはとてもやさしくしていただきました。アットホームな雰囲気は、女流が40人くらいになるまで続いていたと思います」

女流棋士になって

──プロとしての意気込みや自信は?

 「そんなものはなくて、ただ好きなことの延長という気持ちでした。職業としての自覚も、一生やっていく覚悟もない。自分がタイトルを争うなんて、まさかまさかです。女流棋士になってから奨励会を受験しましたが、落ちています。林葉さんや中井さんが入ってるから、自分も入れたら強くなれるかも、というくらいの気持ちでしたから。師匠に勧められて、研修会には1期生として入りました」

──1990年に女流王将戦でタイトル初挑戦。92年から93年にかけて17連勝を記録。94年にはレディースオープン・トーナメントで準優勝しています。

 「特別頑張った結果ではないんです。毎日指していたアマチュア時代の貯金だけでやってました。もっと勝っていても目立たない人がいるのに、私はたまに目立つ成績で、いいところ取りしていたようなものです」

──このころNHK杯戦の司会も務めましたね。

 「将棋を知らない人でも楽しく見てもらえるように、棋士の日常の姿を少しでもお伝えしようと心がけました。服装も意識して、テレビで映えるような明るい服を着よう、絶対同じ服は着ないぞと決めたんです。衣装ではなく自前でしたけど、服を買うことは好きなので、買い物のいい理由にはなりました」

──NHK衛星第2放送『囲碁・将棋ジャーナル』では生放送の司会も。

 「生放送は経験がありましたし、対局のことなら尺におさめるのも慣れていました。でも、情報番組では加減がわからなくて、初回のときはもうバタバタ。最後に将棋の解説をするときは、残り時間がなくて猛スパートです。慣れるまで1か月くらいかかりました」

──テレビの仕事は自分の将棋に影響がありましたか。

 「いろいろな棋士のさまざまな将棋を見ますから、指したことがない戦法もやってみたいと思うようになり、幅が広がった気がします。特に横歩取りですね。当時は横歩取り8五飛戦法が流行していましたし。解説の先生には自分が聞きたいことを質問したりしました。役得、いや職権乱用だったかな。ごめんなさい!」

タイトル目前で

──2014年に倉敷藤花戦で25年ぶりのタイトル挑戦。「チーム山田」が話題になりました。

 「中村真梨花さんに初めて勝ってベスト8に進んだころ、女流棋士になって初めて挑戦を狙う気持ちになりました。とにかく実戦を増やそうと、VSの相手になってくれる人を探して、10人以上の方に協力していただきました。それがチーム山田。甲斐智美さんに挑戦することになりましたが、これまでみたいな気持ちでやっていたらまずいぞ、見せ場もなく終わったら申しわけないぞと思って、チーム山田には引き続きお願いしました」

──頼もしい弟弟子もいますね。

 「甲斐さんは振り飛車党だったので、藤井猛さんにいろいろ教えてもらい、三浦弘行さんと阿部健治郎さんの共著『三浦&阿部健の居飛車研究』で最新形を勉強。阿部さんには直接教えてもらいました」

──三番勝負はいかがでしたか。

 「第1局はチームの戦略がぴったりはまって優勢になったのに、勝ち切れなかったのは私の実力です。ただ、振り飛車で苦戦した甲斐さんが、第2局では飛車を振らなかったんです。根拠はないんですが、相居飛車の戦いなら互角に戦えると思っていたので、精神的に優位に立てたのが勝因ですね。実は最後に詰ますときは読み切れていなかったので、甲斐さんが投了してホッとしました」

──タイトル獲得目前で心境は?

 「これで恥ずかしくなく戦えたと、安心してしまったんです。もっと勝負にこだわらなければいけなかった。第3局で負けたときはチームのみなさんに申しわけなくて、自分への怒りがありました」

──棋歴を振り返って思うことを。

 「20代半ばには、私はタイトルを目指す人ではなく対局以外の仕事の人になっていて、自分でもそれが私の立ち位置だと思ってしまいました。負ければ悔しいし、情けなくて泣けてくることはあっても、すぐに忘れて頑張ろうとしなかった。負けて泣くというのは、努力をした人にだけ許されることで、自分は泣く価値も立場でもなかったと思います。もし昔の自分に会えたら、泣いている時間があったら詰将棋を解きなさい、と言います」

会長になって

──2017年に女流棋士会の会長になりました。

 「予感はありましたし、前任の清水市代さんが理事選に出るとうかがって、役員に女流棋士がいるなら心強いし、お引き受けしようと思いました」

──どんなことを心がけていますか。

 「これだけ女流棋士の人数が増えると、みんながみんなうまくいく方法なんてありません。今では、7割ぐらいの人が納得して3割くらいの人に辛抱してもらう、というところが現実的と考えるようになりました。私はものすごく頑固で、会長になったばかりのころ、ある人の意見を完全に突っぱねたことがあります。でも、それではいけませんね。山田久美はこう思うけど、会長としてはこうする。それが必要なことだと知りました」

──後輩へのメッセージを。

 「対局に普及活動に、みなさん本当に頑張っています。棋戦が増えて、対局に挑むモチベーションが途切れずにいられるのは、とても幸せなことだと思います。だからこそ、私のように女流棋士としての限界や立ち位置を簡単に決めないでほしいんです。活躍する時と場所は努力した分だけめぐってきますから」

──ご自身のこれからについて。

 「あと何年現役でいられるのかはわかりませんし、1局勝つということが年々重くなってきました。結果はどうあれ後悔しない準備をして、1局1局を大切にすることを心がけていきたいと思います」

◆『将棋講座 2025年6月号』より「わが道をゆく」
◆文:雨宮知典

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