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#2 世界最古の演劇論は、なぜ書かれたのか 土屋惠一郎さんが読む、世阿弥『風姿花伝』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

NHK出版デジタルマガジン

#2 世界最古の演劇論は、なぜ書かれたのか 土屋惠一郎さんが読む、世阿弥『風姿花伝』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

土屋惠一郎さんによる、世阿弥『風姿花伝』読み解き

新しきが「花」である――。

室町時代、芸能の厳しい競争社会を生き抜いて能を大成した世阿弥の言葉は、戦略的人生論や創造的精神に満ちています。

『NHK「100分de名著」ブックス 世阿弥 風姿花伝』では、土屋惠一郎さんの解説で、「秘すれば花」「初心忘るべからず」など、世阿弥の代表的金言を読み解きながら、試練に打ち勝ち、自己を更新しつづける奥義を学びます。

今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第2回/全4回)

能はコーディネーションの芸術

 能は、今からおよそ六百年前の室町時代に、世阿弥によって大成されたと言われています。その源流にあるのは、奈良時代に中国から伝来した散楽(さんがく)という芸能です。散楽は今で言う雑技のようなもので、綱渡りや刀投げといった曲芸や、ユーモラスな物まね芸を見せるものでした。それが日本にもともとあった滑稽な演技と融合し、平安~鎌倉時代に「猿楽(さるがく)」になったとされています。猿楽は能の直接の母体にあたるもので、世阿弥も猿楽の一派である大和(やまと)猿楽の出身です。

 では、その猿楽がなぜ「能」という言葉で呼ばれるようになったのでしょうか。

 能という言葉自体は、日本の芸能の中で古くから使われてきました。能は、芸能として歌、舞、物語の三つの要素を含んでいることを意味しています。猿楽は「猿楽能」とも呼ばれましたし、田植え踊りを源流とし、世阿弥の時代にも大変人気のあった田楽(でんがく)も「田楽能」と呼ばれていました。

 ちなみに、白川静(しらかわしずか)さんの『字統(じとう)』によれば、能という漢字は、昆虫が水の上を泳いでいる様子を表しているそうです。文字の左側が昆虫の胴体で、右側が脚を表していると思われます。つまり、能が手足をさまざまに動かす身体芸であることを示しています。

 おもしろいのは、現在私たちが能を見て、「これが能らしさだ」と思っている部分のほとんどは、実は世阿弥や、世阿弥の父・観阿弥(かんあみ)が、さまざまな芸能の領域から取り入れたものだということです。例えば、世阿弥は近江(おうみ)猿楽から天女舞(てんにょまい)というものを導入しました。これは、仏教の阿弥陀来迎図(あみだらいこうず)などにある、空を舞う天女のような優美な舞です。天女舞の導入により、幽玄で美しい舞の要素が加わりました。また、これに先立って観阿弥は、歌と舞を併せ持つ曲舞芸(くせまいげい)という芸能を猿楽に取り入れました。曲舞芸は白拍子の芸とも言われ、これによって、物語の中で役者が謡いながら拍子を取って舞う、ということができるようになったのです。

 これらの要素は、今でこそ当たり前に「能らしさ」として語られるものですが、実は、観阿弥や世阿弥が属していた大和猿楽にはもともとないものでした。

 能は、観阿弥がその礎を築き、世阿弥が大成したと言われています。しかし、彼らはまったくオリジナルなものをつくり出したわけではありません。同時代にあり、人々に好まれていたさまざまな芸能の領域を磁場のように引き寄せ、それらをコーディネーションして、能という一つの枠の中に、今日に続く芸術をつくり上げたのです。

 「はじめに」で触れたドラッカーのイノべーションの理論には、先駆者がいました。ドラッカーよりも一世代前の経済学者シュンペーターです。シュンペーターは、経済の活力は革新と「新結合」から生まれると言いました。新しい結合です。すでに存在していたものでも、それを新しい結合へと再編することで、経済の活力は生まれる。世阿弥はまさしくこの新しい結合の姿として能をつくりました。異なる芸能や異なる座の芸能を新しい結合のもとにコーディネーションして、能の新しい姿をつくり出したのです。

世界初の演劇論

 さて、中世における芸能の「結び手」、コーディネーターだったとも言える世阿弥とは、どのような人物だったのでしょうか。世阿弥(一三六三?~一四四三?)は、室町初期に活躍した能役者であり、生涯でわかっているだけでも五十作以上もの作品を書いた能作者です。大和猿楽の一派である結崎座(ゆうざきざ)(観世座)の棟梁、観阿弥の長男として生まれました。人気役者であった父や関係のあった貴族たちから、和歌、連歌、蹴鞠などの教養を授けられ、役者として父とともに舞台に立っていました。十二歳の時、京都の今熊野(いまくまの)神社で行われた猿楽興行に父とともに出演し、臨席していた時の将軍、足利義満の寵愛を受けるようになります。少年時代の世阿弥は、大変な美少年だったと言われています。十三歳の時、関白二条良基(にじょうよしもと)から「藤若(ふじわか)」という幼名を与えられ、その時良基は、「よくぞこんな美童が輩出したものだ」と、東大寺尊勝院の僧に宛てた手紙に書いて絶賛しました。その後も世阿弥は、たびたび義満と同席して盃を賜るなど、恵まれた時代を過ごしました。祇園祭の桟敷(さじき)に義満は世阿弥(藤若)の同席を許していますが、内大臣にもなった貴族の三条公忠(さんじょうきんただ)はその日記の中で、大樹(義満)は世阿弥という「児童」を寵愛しているが、この者は「散楽者」であり「乞食(こつじき)の所行」をする者であると評して、義満の世阿弥への扱いを非難しています。この日記を見ると、世阿弥は今日考えられる芸術家というイメージではなく、「乞食」として差別されていたことがわかります。世阿弥がそうした身分との緊張の中で生きていたことを背景にして『風姿花伝』を読むと、さらにその言葉は重みを持つことでしょう。

 二十二歳の時、父・観阿弥が巡業先の駿河で五十二歳で亡くなります。世阿弥は父の跡を継ぎ、観世座の棟梁となりました。そして、足利将軍の治世の下、父から受け継いだ能をさらに守り立てていくため、さまざまな革新を起こしていくのです。どのような革新を起こしたのかは、のちほど詳しく見ていきましょう。

 世阿弥には大きな功績が二つあります。一つは、数多くの能の作品を書き遺したことです。世阿弥作ということが確実視されるものだけでも五十作品以上ですが、実際にはそれ以外にも世阿弥作のものがあるかもしれません。作者が誰であるかがはっきりしないものの中に世阿弥作のものか世阿弥の手が入ったものがあるかもしれません。

 世阿弥は能の本を書くことが能役者のもっとも大事なことであると書き遺しています。現在では、能役者が作品を書くことはなくなってしまいました。現在だけではなく、世阿弥以後の数世代後からは新しい作品を書くということはなくなりました。それだけ世阿弥は偉大であり、偉大すぎたのかもしれません。

 世阿弥が書いた作品は、今でもほぼそのままの形で上演されています。逆に言うと、現在上演されている能は、約六百年前に世阿弥が書いたものか、世阿弥から一世代もしくは二世代あとの世代が書いたものにほぼ限られています。このような形で続いている芸能は、他にはほとんどないでしょう。ヨーロッパのオペラは、バロック・オペラというスペクタクル劇もありますが、あまり上演されることはなく、現在常時上演されるのは、モーツァルト以後であり、モーツァルトのオペラ作品が初演されたのは、一七六〇年代から九〇年代にかけてです。

 能作と並ぶもう一つの功績は、能楽論を書いたことです。古代ギリシャの哲学者アリストテレスはギリシャ劇を対象にした演劇論を『詩学』という本の中で書いていますが、それは演劇論というよりは劇作論です。文学論の範囲に収まります。世阿弥の能楽論はおそらく世界で最初に俳優自身によって書かれた演劇論であり、その代表作が、今回取り上げる『風姿花伝』です。

 世阿弥は三十七歳の時、自分たちの芸を子孫に伝えるための秘伝書『風姿花伝』の執筆を開始します。『風姿花伝』は、今では広く読まれる古典の一つとなっていますが、世阿弥が書いた時には多くの人に読んでもらおうという意図はなく、あくまで自分の子供や身内に、能楽師として生き抜いていくための戦略を伝えようというものでした。

 そもそも、風姿花伝の条々、おほかた、外見のはばかり、子孫の庭訓(ていきん)のため注(しる)すといへども、ただ望む所の本意とは、当世、この道のともがらを見るに、芸のたしなみはおろそかにて、非道のみ行じ、たまたま当芸に至る時も、ただ、一夕の戯笑(けせう)、一旦の名利に染みて、源を忘れて流れを失ふ事、道すでにすたる時節かと、これを嘆くのみなり。

 しかれば、道をたしなみ、芸を重んずる所、私(わたくし)なくば、などかその徳を得ざらん。ことさら、この芸、その風を継ぐといへども、自力より出づる振舞あれば、語にも及びがたし。その風を得て、心より心に伝ふる花なれば、風姿花伝と名づく。

(『風姿花伝』奥義)

 大意を言えば、次のようになります。

『風姿花伝』は、広く人々に見せるものではなく、子孫への教えとして書いた。嘆かわしいのは、最近の能役者たちが、稽古もいいかげんで、勝手なことをやり、その場かぎりの評価をとろうとやっきになっていることである。これでは、芸の道も廃る。稽古にはげみ芸を大事にすれば、その成果は必ずあるものだ。とは言え、伝統を継ぐだけでなく、自分自身で工夫したものもあるので、そこは言葉では言えない。言葉にならないものも、伝統を背景にして心より心に伝えようとするものであるので、『風姿花伝』と名づけたのだ。

『風姿花伝』執筆の動機を、世阿弥はこう記しています。

『風姿花伝』は「序」から始まり、第一~第七の七つのパートから成っています。その内容は、能役者の、子供から老人に至るまでの人生の各ステージの生き方や、芸能という不安定な世界に生きる者にとって何が必要かを説いた〝戦術〟の数々です。その言葉は決して難しくなく、そして驚くほど具体的です。だがそれは秘伝でした。『風姿花伝』の「第六 花修」という箇所の文末では「此(この)条々、心ざしの芸人より外は、一見(いつけん)をも許すべからず」と書いているのですから、秘伝の意識はきわめて強かったのでしょう。

 世阿弥は、『風姿花伝』のほとんどを三十七~四十四歳ころまでに書き、また五十歳代に入って書き足したとされています。今の感覚からすると、キャリアのかなり早い時期だと思われるかもしれません。しかし、二十二歳という若さで一座のリーダーとなった世阿弥は、この時期において、自分たちの芸がどういうものであるかということを、のちの世代に伝えていこうと決意するのです。この「伝える」というところがポイントです。世阿弥はさまざまな領域の芸能をコーディネートし、一種の総合芸術として能をつくり上げました。それをどうやって次の世代に伝えていくのか。その時世阿弥は、父・観阿弥の時代には言ってみれば勢いでやってきたことを、のちの世代も踏襲できるよう、きちんとシステムに落とし込むということを行ったのです。

著者

土屋惠一郎(つちや・けいいちろう)
明治大学法学部教授。専攻は法哲学。中村雄二郎のもとでハンス・ケルゼン、ジェレミ・ベンサムなどの研究をするかたわら、能を中心とした演劇研究・上演の「橋の会」を立ち上げ、身体論とりわけ能楽・ダンスについての評論でも知られる。1990年『能── 現在の芸術のために』(岩波現代文庫)で芸術選奨新人賞受賞。芸術選奨選考委員(古典芸能部門)、芸術祭審査委員(演劇部門)を歴任した。北京大学日本文化研究所顧問。主な著書に『正義論/自由論── 寛容の時代へ』『世阿弥の言葉── 心の糧、創造の糧』(以上、岩波現代文庫)、『幻視の座── 能楽師・宝生閑聞き書き』(岩波書店)、『能、ドラマが立ち現れるとき』(角川選書)など。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。

■「100分de名著ブックス 世阿弥~風姿花伝」(土屋惠一郎著)第1章より抜粋
■書籍に掲載の脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛しております。

*本書における『風姿花伝』の引用は世阿弥『風姿花伝・三道』(竹本幹夫訳注、角川ソフィア文庫)、『花鏡』の引用は世阿弥『風姿花伝・花鏡』(小西甚一編訳、タチバナ教養文庫)、『至花道』は『日本古典文学大系 第65』(久松潜一・西尾実校注、岩波書店)を底本にしています。
*本書は、「NHK100分de名著」において、2014年1月に放送された「風姿花伝」のテキストを底本として一部加筆・修正し、新たにブックス特別章「能を見に行く」などを収載したものです。

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