「少年が見た死体の山」「目の前で撃たれた母子」語り継がれる記憶 『東京大空襲 CARPET BOMBING of Tokyo』
空襲を、戦争を語り継ぐ
1945年(昭和20年)の3月9日~10日、アメリカ空軍のB29型爆撃機が東京の下町を中心に焼夷弾を大量に投下した。この「東京大空襲」から80年目を迎えた今年、タイトルもずばりなドキュメンタリー映画『東京大空襲 CARPET BOMBING of Tokyo』が3月14日(金)より公開中だ。
31名の証言と膨大な資料が明らかにする戦争の真実
終戦から80年――。1945年3月10日、東京下町を襲った焼夷弾の嵐。戦争の終わりを急ぐアメリカ軍による無差別爆撃は、カーチス・ルメイ司令官のもと、2時間半で10 万人の命を奪った東京大空襲をはじめ、山の手空襲、八王子空襲、また日本各地で繰り広げられた。人間に向けての機銃掃射。そして広島・長崎への原爆投下へと繋がる。
戦災孤児となった子どもたちは社会から「浮浪児」として扱われた一方で、多くの孤児を引き取り育てた愛児の家の石綿貞代の活動は希望となった。また疎開中に空襲で家族を失った「うしろの正面だあれ」の作者、海老名香葉子の記憶も繋がれる。
一方、現代ではウクライナやイエメン、ガザなどで、市民が犠牲となる戦争や紛争が続いている。国境なき医師団の看護師・畑井が目撃した現実は、戦争がいまだ繰り返されていることを突きつける。
証言者31名のオーラルヒストリーと膨大な資料が、戦争の悲惨さを鮮やかに蘇らせる。音楽はMISIA「Everything」を作曲した松本俊明の新曲が彩る。
取材中にも2 名の方が亡くなり、時間的にも受け継ぐことの厳しさを目の当たりに。
終戦80 年目の節目に、戦争の記憶とその意味を問い直す渾身の記録映画。
防空壕は命を救ったか?
日本の戦火を知る祖父・祖母の世代は少なくなり、10万人の命を奪った<東京大空襲>の記憶も薄れつつある。本作は当時を知る31名の実体験を記録し伝えるドキュメンタリー映画であり、語られるエピソードがそのまま非常に貴重な資料にもなっている。
空襲については全国各地、様々な形で体験者の証言が紹介されることで、その実態への理解は少しづつではあるものの広まりつつあるようにも感じる。たとえば<防空壕>は、爆撃が終わるまでじっと身を隠す=命を守ることができる堅固なシェルターというぼんやりとしたイメージが覆された。爆撃の直撃を避けて即座に消火活動をするための一時的な避難所という実態。それは戦時中も同様で、爆撃を避けようと壕内に残ったために命を落とした人が大勢いたという。
“爆撃を避けつつ、壕から出て直ちに消火せよ”――防空法による強制力もあり、焼夷弾の直撃を避けられた人々が消火活動を行ったために逃げ遅れ命を落とした。もちろんまったく効果が無かったわけではないが、数十万人の被害者は竹槍と同レベルの無茶をまかり通した結果とも言えるだろう。
信州出身の童画家・武井武雄による「戦中・戦後気侭画帳」には、政府省庁お抱えのレストランだけは空襲直後でも豪勢な料理が出たと、詳細なスケッチとともに描き記してある。まさに“あるところにはある”の貴重な記録だが、空襲によって生死を彷徨い、すべてを焼かれ途方に暮れる人々が多くいた中、なぜ“我慢を強いた側”は豊かな暮らしを続けられたのか――。
“えらいひとたち”に言われるがまま黙って息を潜めるのか、異を唱え生きる道を模索するか。その構造自体は現代社会でも継続されている。戦争体験を語り継ぐことが、当時を知らない世代に教えてくれることはとても多い。
『東京大空襲 CARPET BOMBING of Tokyo』は3月14日(金)よりシネ・リーブル池袋ほか公開