#4 マーケットで勝つための「花」 土屋惠一郎さんが読む、世阿弥『風姿花伝』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
土屋惠一郎さんによる、世阿弥『風姿花伝』読み解き
新しきが「花」である――。
室町時代、芸能の厳しい競争社会を生き抜いて能を大成した世阿弥の言葉は、戦略的人生論や創造的精神に満ちています。
『NHK「100分de名著」ブックス 世阿弥 風姿花伝』では、土屋惠一郎さんの解説で、「秘すれば花」「初心忘るべからず」など、世阿弥の代表的金言を読み解きながら、試練に打ち勝ち、自己を更新しつづける奥義を学びます。
今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第4回/全4回)
メディア芸術という先進性
この複式夢幻能によって生み出された、想像力を喚起する方法論の一つに、「名所教え」というものがあります。これは、物語の前半、里の者が旅の僧にその土地の風景や名所を次々に説明するという形で、何もない能舞台の上に、想像上の土地の風景を出現させるというものです。例えば「融(とおる)」という能では、旅の僧が里の老人に、「ここに見えている山々はいずれも名所でしょうか、教えてください」と聞きます。すると老人が、「あそこに見えるのは音羽山(おとわやま)、あれは和歌にも歌われた清閑寺(せいかんじ)、今熊野というところもあります」と、京都の山々を次々に紹介していきます。そうすることで、京都を知らない人にとっても、そこにヴァーチャルなパノラマとして京都の風景が立ち現れます。そして、たいていそこには月がかかっています。月と山々の風景を描き示すことで、観客の視線を舞台上からそらし、遠く離れたところに世界が見えてくるようにする。これを世阿弥は「遠見(えんけん)」と言い、前半に入れるべき重要な要素だとしています。これにより、観客もヴァーチャルなパノラマにすっぽりと包まれるようになるからです。
世阿弥が名所教えを発案したことで、能には、いわゆる観光旅行的な楽しみも加わることになりました。
複式夢幻能でもう一つ注目すべき点は、やはり「夢」という装置を作品に導入したことでしょう。世阿弥が活躍した中世は、夢に対する関心が非常に高まった時代です。しかしその場合の夢とは、自分たちにどういう運命が降りかかってくるのかを予見する、いわゆる夢占いが中心でした。世阿弥の夢は違います。世阿弥は、物語を映し出すスクリーンとして、夢を活用したのです。
われわれ誰もが見る夢をスクリーンに見立て、そこに映し出されるストーリーを、能舞台の上に再現してみせた。これは、現代の私たちが映画やテレビといったメディアを通して物語を楽しむこととまさに同じだと言ってよいでしょう。世阿弥はそのような技術がまったくない時代に、夢というメディアを使って物語を視覚化してみせた。単に物語をそこでやってみせるのではなく、スクリーンを通して見せようとしたわけです。そこが普通の演劇とは違うところです。
世阿弥にとって夢は、過去の物語をよみがえらせるためのメディアでした。そこでは自由に物語をよみがえらせることができ、組み替えることもできます。夢という自在なスクリーンを使った能のシステムは、六百年以上を経た現在まで残っています。それは、夢がいずれ廃れる機械的なテクノロジーではなく、人間誰もが常に持っているシステムであり、物語を自由に映し、かつ編集したりもできる装置だからです。世阿弥による夢の発見の意義は、いくら強調してもしきれないでしょう。
古典文学を視覚化するヴィジュアル革命
世阿弥のもう一つのイノベーションは、これまでも少し触れていますが、文学作品を初めて舞台上に視覚化したということです。これは現在、漫画や小説がテレビドラマになったり映画化されたりするのと同じだと言えます。意外に思われるかもしれませんが、能には創作劇というものがほとんどありません。世阿弥にもオリジナルの創作は少なく、多くの作品は、『源氏物語』や『平家物語』など世に知られた文学や和歌に典拠を持っています。これらのもともとの物語を世阿弥は「本説(ほんせつ)」と言っていますが、言い換えれば能とは、本説をもう一度語りなおすための「装置」なのです。
世阿弥をはじめ、能の作者たちがもっとも好んだ本説の一つが『源氏物語』です。おもしろいことに、世阿弥は『源氏物語』そのものは読んでいないと言われています。『源氏物語』の本文を一度も引用したことがないからです。今では、『源氏物語』を読まなくてもおよその内容がわかるダイジェスト本が出ていますが、当時も『源氏大綱(げんじたいこう)』など似たような本があり、世阿弥もそれは読んでいたようです。
もう一つ読んでいたであろう重要な本が、『源氏寄合(よりあい)』と呼ばれる連歌のための辞書です。連歌とは、和歌を上句と下句に分け、何人かで交互に句を詠(よ)み連ねていく一種の歌遊びです。その時に使う辞書に、例えば『源氏物語』賢木(さかき)の巻の「野宮(ののみや)」という言葉が連歌で出てきた場合は、「黒木の鳥居」「小柴垣(こしばがき)」「秋の草」「虫の音」といった言葉を用いて続きの句をつくるようにと書いてある。世阿弥の女婿金春禅竹作といわれる、光源氏の愛人六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の恋の悲嘆を描いた「野宮」という能がありますが、そこにはまさに、『源氏寄合』で示されている言葉が出てきます。
つまり、世阿弥やその周辺の能作者は『源氏物語』を取り上げていると言っても、『源氏物語』そのものを能にしているわけではないのです。『源氏物語』について、人々がこういうところがおもしろいと感じていることや、『源氏物語』について語られたさまざまな言葉の集積からうまく要素を持ってきて、それらを組み合わせて作品をつくっている。『源氏物語』を直接引用するのではなく、連歌といった当時の文学的イベントの中で受け入れられ、濾過されてきたものを受け止めて、能をつくっているわけです。
これが意味するところは、観客と作者との関係性の存在です。世阿弥や金春禅竹が『源氏物語』そのものではなく、連歌の世界へと広がった『源氏寄合』をもとに能をつくったならば、それは、『源氏物語』だけではなく、『源氏物語』を受容している多くの人たちの感覚とイメージの領域を含んだ能だと言えるでしょう。つまり、『源氏物語』を題材にして能をつくったとしてもそれは世阿弥や金春禅竹一人の創造力ではなく、人々の感覚の共同の場所をとおしてつくられたと言えるのです。そこには、常に観客(マーケット)を意識していた世阿弥の姿勢が表れていると言えるでしょう。
新しいものこそおもしろい
ここまで、世阿弥が能の世界にもたらした革新の数々を見てきましたが、最後に、世阿弥の革新を象徴する概念として、「花」という言葉を紹介します。
「花」は、世阿弥が能楽論で使った言葉の中で、現在でももっともよく使われている言葉です。「あの役者は花がある」などという言い方を、みなさんも聞いたことがあると思います。世阿弥は、能にとってもっとも大切なものを、「花」という言葉で象徴しました。それは何かというと、ずばり、「新しいこと」「珍しいこと」です。世阿弥はそう言い切っています。
そもそも、花といふに、万木千草において、四季折節に咲くものなれば、その時を得てめづらしきゆゑに、もてあそぶなり。申楽(さるがく)も、人の心にめづらしきと知る所、すなはち面白き心なり。花と、面白きと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり。
(第七 別紙口伝)
花と言えば、四季折々の花がある。季節が変わって咲く花であるからこそ、その花は珍しいものとなり、人々も喜ぶ。能も同じである。人にとって珍しく新しいものであるからこそ、おもしろいと感じる。つまり、「花」と「おもしろい」と「珍しさ」は同じことなのだ。
これは、人気に左右される芸能の世界で勝つために、世阿弥が至った核心です。常に新しいもの、珍しいものをつくり出していくことが大切だということです。例えば、毎回同じ演目を演じていては、観客に飽きられてしまいます。観客は今まで見たことがないものを見たいわけですから、もっとも大きな珍しさに値するのは新作です。ですから世阿弥は、自ら作品をつくることが大事だと繰り返し説きました。また、世阿弥がつくり上げた複式夢幻能というパターンも、新しいものの創造に大きく役立っています。パターンがあるとマンネリ化に陥る危険はあるのですが、同時に、新しいものを効率よく生み出す装置としては、非常に有効です。パターンの中に違う物語や題材を当てはめていけば、次から次に新しいものをつくることができるからです。
とかく私たちは、「能は伝統芸能だから、いつも同じことをやっているのだろう」と思いがちです。ところが、世阿弥の時代はそれをやっていたら勝てませんでした。実は、同じことは今でも言えるのです。現在の能でも、演じる側が常に「珍しきが花」という気持ちを持っていなければ、人々におもしろいと思ってもらえるものにはなりません。たとえ繰り返し演じられる演目でも、「今日は違うな」と思わせるものがないといけない。それは何かを考えることが、能楽師の役割だと思います。同じ「井筒」をやるにしても、今回は装束を変えてみようとか、演出を変えてみようとか。本当に優れた能楽師なら、常に「珍しきが花」「新しきが花」ということを考えているはずです。それが、世阿弥以来の能の精神です。
これは、ドラッカーが提唱するイノベーションとまったく同じものだと言えます。一からの創造だけでなく、物事の新しい切り口やとらえ方を創造することが革新なのです。これまでよかったからと言ってそこに安住していると、結局何の進歩もない。どんなによくても、それをいかに壊して、超えていくかということを考えなかったら、人気や景気という不安定なものが支配するマーケットでは勝てないのです。
最初に紹介したように、世阿弥が天女舞などの芸能を取り入れた理由は、シンプルにマーケットで勝つためです。人気のある芸能を遠ざけるのではなくむしろ取り入れて、自分なりにアレンジして、新しい形に仕立てて打ち出していく。シュンペーターの言う「新結合」です。
オリジナリティにこだわる前に、今あるものをいかに新しくするか。イノベーションが起きにくいと言われる今の日本は、その精神を少し忘れかけているのかもしれません。
一方、能がなぜ六百年も続いてきたのかを考えれば、それは世阿弥が言い当てた「珍しきが花」という核心を脈々と受け継ぎ、止まることなく創造を続けてきたからだと言えるでしょう。
第二章以降は、本書『NHK「100分de名著」ブックス 世阿弥 風姿花伝』でお楽しみください。
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著者
土屋惠一郎(つちや・けいいちろう)
明治大学法学部教授。専攻は法哲学。中村雄二郎のもとでハンス・ケルゼン、ジェレミ・ベンサムなどの研究をするかたわら、能を中心とした演劇研究・上演の「橋の会」を立ち上げ、身体論とりわけ能楽・ダンスについての評論でも知られる。1990年『能── 現在の芸術のために』(岩波現代文庫)で芸術選奨新人賞受賞。芸術選奨選考委員(古典芸能部門)、芸術祭審査委員(演劇部門)を歴任した。北京大学日本文化研究所顧問。主な著書に『正義論/自由論── 寛容の時代へ』『世阿弥の言葉── 心の糧、創造の糧』(以上、岩波現代文庫)、『幻視の座── 能楽師・宝生閑聞き書き』(岩波書店)、『能、ドラマが立ち現れるとき』(角川選書)など。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。
■「100分de名著ブックス 世阿弥~風姿花伝」(土屋惠一郎著)より抜粋
■書籍に掲載の脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛しております。
*本書における『風姿花伝』の引用は世阿弥『風姿花伝・三道』(竹本幹夫訳注、角川ソフィア文庫)、『花鏡』の引用は世阿弥『風姿花伝・花鏡』(小西甚一編訳、タチバナ教養文庫)、『至花道』は『日本古典文学大系 第65』(久松潜一・西尾実校注、岩波書店)を底本にしています。
*本書は、「NHK100分de名著」において、2014年1月に放送された「風姿花伝」のテキストを底本として一部加筆・修正し、新たにブックス特別章「能を見に行く」などを収載したものです。