村上春樹が示唆する「空っぽであること」の危うさ【読めない人のための村上春樹入門】
村上文学の魅力をシンプルな視点で解説した『読めない人のための村上春樹入門』が発売直後から大きな反響を呼び、増刷が決定しました。村上作品の愛読者からも好評を得ている本書より、ベストセラーになった長編『海辺のカフカ』から「自分を否定することの危険性」を読み解いた章を抜粋して公開します。
自分を否定することの危険性 『海辺のカフカ』(ナカタさん編)
「ナカタは頭の悪い人間です」
村上作品の中でも『海辺のカフカ』は一つの分岐点です。それまで二十代から三十代の主人公が登場することがほとんどでしたが、この小説の主人公は十五歳の少年です。父親と二人暮らしの少年が家出を決意するところから物語は始まります。
この作品にはもう一人ナカタさんという中心的人物がいます。ナカタさんは初老の男性で、少年時代の事故がきっかけで読み書き能力を失い、代わりに猫と会話ができるという特殊な力を得ます。
ナカタさんは知的障がい者という理由で都から補助を受け取り、それに頼って一人で生活しています。猫と会話できるという特殊能力は普段隠していますが、猫探しの名人として噂が立ち、いなくなった猫を探してほしいという依頼が定期的に近所の人から来ます。
ナカタさんは誰かに会うたびに「ナカタは頭の悪い人間です」という表現を枕詞のように使います。相手が人間であろうと猫であろうとです。これは言ってみれば「言い訳」であって、この言い訳のおかげで、相手から難しい話を持ちかけられたり、相手が深くかかわりを持とうとするのを避けたりすることができます。自分が社会的弱者であることが伝われば、相手がナカタさんを気遣い、必要以上に干渉されなくなるからです。しかし小説を読めばわかる通り、ナカタさんは独特の話し方をするものの、一人で生活を整え、近所付き合いもできて、他人(猫も含め)への配慮まで充分にできる人物です。ナカタさんはあえて自分を「頭の悪い人間」に見せようとしているとも言えます。
ゴマという雄猫を探してほしいと依頼されると、ナカタさんは毎日公園に行き、野良猫たちに聞き込み調査をします。そこでオオツカさんという野良猫(ナカタさんがのちに勝手に名付けます)に遭遇します。いつものように自分の頭が悪いことを説明しながら話していると、オオツカさんから次のように言われます。
オレが言いたいのはね、あんたの問題点は、頭の悪いことにあるんじゃないってことなんだよ。〔中略〕あんたの問題点はだね、オレは思うんだけど、あんた……ちょっと影が薄いんじゃないかな。最初に見たときから思ってたんだけど、地面に落ちている影が普通の人の半分くらいの濃さしかない。〔中略〕だからあんたもどっかの迷子の猫を探すよりは、ほんとは自分の影の残り半分を真剣に探した方がいいんじゃないかと思うけどね。
『海辺のカフカ』上巻105―106頁
ナカタさんは、自分の影の薄さには気づいているが、このままでいいと言います。「ナカタはもう歳をとっておりますし、もうしばらくすれば死ぬでしょう。〔中略〕ですからナカタは今のままでじゅうぶんではないでしょうか」(同107頁)。これがナカタさんの考えです。
ナカタさんは他人に対し、自分を「頭の悪い人間」と〈宣言〉することで、そのようなあり方を望んでいるかのようです。その自己否定的な態度が、影が半分という比喩で表現されていると読み取れます。
ナカタさんが影の半分を失ったきっかけは少年期の事件にあります。ナカタ少年は学校の成績もよく、性格も穏やかないわゆる優等生でしたが、父親から日常的に暴力を受けていました。戦時中、少年は山梨県に疎開します。そこで担任になった先生もナカタ少年が時折見せる怯えた表情から、家庭内暴力の影に気づいていました。
ある日クラスの児童を連れて山にきのこ取りに行ったところ、先生は突然生理の出血が始まったことに気づきます。動揺しながらも茂みの中で応急処置をしていると、ナカタ少年に血のついた布を発見され、パニックになった先生は思わず少年を力一杯叩いてしまいます。その後、ナカタ少年は昏睡状態に陥り、意識を回復した時には記憶と読み書きの能力を失っていました。
ナカタ少年の記憶喪失は、ある種の防衛反応とも言えます。あまりに強い外傷的体験や精神的ストレスに晒されたときに、一時的な防衛反応として脳がその出来事の記憶を切り離すことがあります。ナカタ少年も家庭内暴力に加え、信頼を寄せ始めていた担任の先生からも予想外の暴力を受けることで、ある種のスイッチを切ってしまったのです。その後のナカタさんが頭が悪いことを挨拶がわりに話す様子は、他者に同等に扱われることを望んでこなかったこと、また他者との深いかかわりを避けて生きてきたことを示唆します。影が半分足りないナカタさんは自分の「半分」を手放すことで、二度と他人に期待して裏切られることのない人生を選んだと言えるのです。それは自分への信頼も他者への期待も放棄した生き方でした。
空っぽであることの恐ろしさ
ナカタさんは影の薄い自分に不便を感じていませんでしたが、そのことがナカタさんを恐ろしい状況に巻き込んでしまいます。
ナカタさんが迷い猫のゴマを探していると、怖い顔をした大きな犬が近づいてきます。犬はテレパシーのような方法でナカタさんについて来るよう伝え、ナカタさんは言われるがままについて行きます。連れて行かれた屋敷には、ジョニー・ウォーカーと自称するウイスキーのラベルそっくりの人物が待っていて、ナカタさんに自分は猫殺しであると言います。そして猫が生きたまま入れられた大きな鞄を出すと、この中にゴマもいると伝え、猫たちを救う方法はたったひとつ、自分を殺すことだと言うのです。むしろジョニー・ウォーカーはナカタさんに殺されたがっているとも言います。
ナカタさんは、自分は誰も殺したことがないし、それをしなければならない理由も、どうやればいいのかもわからないと言います。するとジョニー・ウォーカーは鞄から猫を一匹ずつ取り出し、生きたままその腹を切り裂き、心臓を取り出して食べてしまいます。目の前の光景にナカタさんは言葉を失います。目を閉じて、頭を抱え込みますが、ジョニー・ウォーカーは次々と別の猫のお腹を切り裂いていきます。三匹目の猫はナカタさんが話したことのある猫で、同じ方法で処理されます。目を開けようとしないナカタさんにジョニー・ウォーカーは語ります。
「目を閉じちゃいけない。目を閉じても、ものごとはちっとも良くならない。目を閉じて何かが消えるわけじゃないんだ。それどころか、次に目を開けたときにはものごとはもっと悪くなっている。私たちはそういう世界に住んでいるんだよ、ナカタさん。しっかりと目を開けるんだ。目を閉じるのは弱虫のやることだ。現実から目をそらすのは卑怯もののやることだ。君が目を閉じ、耳をふさいでいるあいだにも時は刻まれているんだ。コツコツコツと」
『海辺のカフカ』上巻310頁
そしてジョニー・ウォーカーは次の猫を取り出します。それはナカタさんに以前親切にしてくれた雌猫でした。ナカタさんはついに立ち上がり、ジョニー・ウォーカーの胸をナイフで刺します。ジョニー・ウォーカーは笑い声をあげながら床に倒れ、大量の血を吐いて、ナカタさんにもその血がかかります。ジョニー・ウォーカーはこと切れ、気がつくとナカタさんは生き残った猫たちと一緒に草むらに寝そべっていました。ジョニー・ウォーカーの家も、ジョニー・ウォーカーも消えています。身体にべっとりついたはずの血も消えています。
こうしてナカタさんは無事にゴマを救出して飼い主のもとに届けますが、この事件後、ナカタさんは猫たちと会話する能力を失います。そして「四国に行く」という使命に気づくと、これまで長らく出たことのなかった中野区を出て、四国へ向かう旅に出るのです。
旅の目的の一つは、空っぽであった自分からの卒業です。ナカタさんはジョニー・ウォーカーを殺したくはありませんでしたが、何者かがナカタさんの身体を動かしてジョニー・ウォーカーにナイフを刺したと言います。ナカタさんの身体を動かしてジョニー・ウォーカーにナイフを突き立てさせたものは、ジョニー・ウォーカーの意識だったかもしれませんし、ナカタさんの内側にある無意識の一部だったかもしれません。いずれにせよ、ナカタさんは自分の意志に反した行動をしてしまったことで、自分の内側の空虚さに危機感を持ち、旅に出ます。これほど意志を強くして行動したことは、少年のときに記憶を失って以来、ナカタさんにとって初めてのことです。
ナカタさんを動かしたのは、空虚さへの危機感です。気が付かない間に、悪の行為に利用されてしまうことへの恐怖です。内側の空虚さのせいで自分が〈器〉となって悪意ある存在に操作され、不本意に誰かを傷つけてしまうことへの恐れです。
ここでの空虚さは、思考し判断する意志の放棄から来ています。ナカタさんは少年時代の事故以降、できるだけ〈自ら選択する人生〉を避けてきました。頭が悪いと自分を低評価し、他人にもそう宣言することで、自分自身と向き合うことや他人と深くかかわることで得られる主体的な生き方を捨ててきたとも言えます。謙虚で温厚で害のない人物として周囲にも好ましく受け入れられてきたナカタさんですが、主体性の放棄こそが悲劇を生むのです。
ジョニー・ウォーカーの言葉は比喩的な示唆に満ちています。主体性を欠いて生きるナカタさんは「目を閉じて」生きてきた人間であり、「目を閉じちゃいけない。目を閉じても、ものごとはちっとも良くならない」「次に目を開けたときにはものごとはもっと悪くなっている」と警告されます。目を閉じる生き方が状況を悪化させると言われたも同然です。
ナカタさんは望まない殺傷に手を染めますが、彼を加害者にさせたのは、ジョニー・ウォーカーというより、ナカタさん自身の「目を閉じ」た生き方です。
自らの重要性を意識する
村上は『海辺のカフカ』でアドルフ・アイヒマンに言及し、「目を閉じて」生きることについてさらに読者に問いかけます。作中、十五歳のカフカ少年は山奥の小屋で過ごす間、アドルフ・アイヒマンに関する本を手に取ります。アイヒマンはユダヤ人を強制収容所へ移送する計画で指揮的役割を果たした人物です。その本には、戦後の裁判で自らの罪を理解できていないアイヒマンの姿が描かれています。
アイヒマンは上司の命令に忠実に従い、効率的な移送を追求していました。それは〈仕事〉であり、上司の期待に応えただけという認識だったのです。
『海辺のカフカ』では、想像力の欠如というテーマの中でアイヒマンが取り上げられています。ここで言う想像力は〈内側の軸〉とも言い換えられます。自分の内側に確かな〈軸〉があれば、外部からどんな情報が入ってきても、まずその軸に照らして信用できるかを判断し、行動に反映させることが可能です。
ナカタさんは自分の存在価値を低く見積もって生きてきました。自分の重要性を、自ら否定してきたのです。それは謙虚かもしれませんが、空虚さを伴います。自らの判断への信頼が低いため、周囲の声に流されやすく、他人の基準に従いがちなのです。その脆さは、ジョニー・ウォーカーという悪しき存在に身体を操られ、殺人を犯すという形で現れました。
ナカタさんは四国への旅の中で、「入り口の石を見つける」という自分の役割に気づき、自らの意志で行動を起こしていきます。字が読めず体力に限界があるナカタさんに代わって実際の行動を引き受けるのは、途中のヒッチハイクで乗せてくれたトラック運転手の星野青年ですが、ナカタさんの意識の変化と行動への強い意志が、星野青年を的確な場所に運び、ミッションを成功させます。
『海辺のカフカ』という小説は、〈なんとなく生きる〉というあり方が実は恐ろしい力に操作される可能性を孕み、多くの血を流す事態につながりうるということを、白日夢的な設定によって巧妙に描いています。ナカタさんの場合、被害者は数匹の猫でした。しかし、ナカタさんのような〈媒体〉(悪意あるものに操作されることを許す存在)となりうる人間が多数生きているとしたら、その社会ではどれだけの血が流されうるのでしょうか。
実際、そのような〈媒体〉予備軍は人口の少なくない部分を占めているかもしれません。なんとなく生きる人々は、自らの人生の〈責任〉、もっと言えば、自らの存在の重要性を認識するという〈責任〉に、気づきません。生きる上で必要なはずの選択を、別の誰かに任せているのです。自分では自らの意志にもとづいて選んでいるつもりでも、よく見れば、与えられた選択肢の中から、周囲に合わせたり、空気を読んだりして無難そうなものを選んでいるだけだとしたら? そして、その選択が他者に甚大な影響を与えているとしたら? 想像力が欠如したために〈器〉となり、悪の行為に邁進したアイヒマンと、自分の空虚さのせいで恐ろしい目に遭い、のちに自らの役割を見出していくナカタさんを、『海辺のカフカ』は対比的に描いているのです。
この小説は、私たちが日々の選択にどれほど自覚的であるべきかを問いかけています。その選択には、想像力を働かせるかどうかの選択も含まれます。さらには、自らの選択が周囲に及ぼす影響を理解し、その責任を引き受ける意欲を持つという生き方が、ナカタさんを通じて提案されていると読むことができるのではないでしょうか。
主体性にこだわらず、〈なんとなく生きる〉あり方は一見、楽かもしれません。しかしその生き方は自由と呼べるのか。作品は、想像力の〈諸刃の剣〉としての側面を描き出すことで、読者に自由とは何かを考えさせようとするのです。
仁平千香子
1985年、福島県生まれ。文筆家、フリースクール東京y’sBe学園実学講師。東京女子大学文理学部英米文学科卒業後、豪ウーロンゴン大学人文学部で修士号、シドニー大学人文学部で村上春樹研究の博士号を取得後、山口大学で8年間講師を務める。著書に、Haruki Murakami: Storytelling and Productive Distance(Routledge)、『故郷を忘れた日本人へ:なぜ私たちは「不安」で「生きにくい」のか』(啓文社書房)など。