人生のコスパを語りたいなら、まず人生のベネフィットを語ってみせろ
私はコストパフォーマンスという考え方が半分好きで、半分嫌いだ。
少なくとも、この考えが適用しやすい分野と適用しにくい分野があると思っている。
勉強効率やガス代の節約といった分野ではコストパフォーマンスの発想はうまく機能する。
昔の人間にはコストパフォーマンスという発想自体が乏しかったそうで、現代の私たちがコストパフォーマンスを意識できるのは、近代資本主義の考え方に馴染んでいるから、いわばホモ・エコノミクスとして訓練されているからにほかならない。
あるいはタイパという、時間節約の発想にも慣れているからかもしれない。
ただし、コストパフォーマンスが適用しにくい分野もある。子育てや家族、友達関係といった分野でコストパフォーマンスを論じ始めると、とたんに具合が悪くなる。
具合が悪くならない人も稀にいるが、こうした人間関係の問題にコストパフォーマンスという着想を持ち込むと、多くの人がアレルギー反応を起こす。だからその組み合わせを釣り餌にし、インターネットで万バズを狙う人は後を絶たない。
しかし、あえて穿った見方をしてみるなら、人生を徹底的に経済的にとらえ、個人主義的なコストパフォーマンスを追求しようとするのは“ホモ・エコノミクス”としては潔い。
経済的成功を掴むための機会を最大化し、個人としての利得を最大化させることをよしとする individual として人生を貫くなら、この考え方こそ正解だ。
そういう人間ばかりが増え続ければ少子化は加速し、人類に未来はなくなるわけだけど、教条主義的なホモ・エコノミクスは人類の未来なんて考えるべきじゃないし、死ぬまで算盤を手放さず、何のためかはわからないけれども銭を増やし、快楽を積み上げるのが筋ってものでしょう。
「コストパフォーマンス万歳!」
「あなたのコスパ、何歳まで有効で、誰のためのものですか?」
ただ、実際に「○○するのはコスパが悪い」的な発想を人生に適用していくと、たちまち
「じゃあ、お前はなんのために生きているの? 死んだほうが効率良くね?」
的な問いに辿り着いて実存の危機を迎えるので、「○○するのはコスパが悪い」を連呼して喜んでいる人の内実は、深く考えているわけでもストイックな資本主義者でもなく、単に思考停止するために「○○するのはコスパが悪い」と“信じたがっている”可能性が高い。
たとえば「子ども」について深く考えるのを避けたくて「子育てはコストパフォーマンスが悪い」と信奉したがっている人は、それなり存在するよう見受けられる。
「○○するのはコスパが悪い」で、あれこれ切っていくと、最後に残るのはおのれの欲求充足と命ぐらいになってしまう。
ならば、そのおのれの欲求を充たすのは何故コストパフォーマンスが良いと言えるのか?
おのれの欲求とはコストをかけるに値するのか?
おのれの欲求も捨ててしまったほうがコスパ良くないですか?
自分の命の長さのコストパフォーマンスも考えなければなりませんよね?
長く生きるとは、必ずコストパフォーマンスの良いことなのか?
それとも自分の欲求充足が一定のラインに到達したら自ら死ぬのがコストパフォーマンスの良いことなのか?
等々。
「自分の欲求を充たす=コスパが良い、そうでない=コスパが悪い」という割り切りも一つの考え方ではある。
しかし、この考え方を突き詰めた場合も、「欲求の追求には上限が無い」「欲求や願望はエイジングや環境因子によって変化し得る」といった要素を考えに入れていないなら、じきにコスパの良くない境遇に至ってしまうだろう。
加齢にともなう欲求の変化を想定しない人間が人生のコストパフォーマンスを論じるのは、なんともおこがましい話である。
長い人生のコストパフォーマンスを計算しようとするなら、そういったエイジングによる欲求の変化可能性も視野に入れなければならない。自分自身の執着や欲求を、今の年齢だけでなく数十年先まで見越して考える未来予測力がなければコストパフォーマンスなど計算のしようがないだろう。
人生のコスパについて本気で考え始めると、恐ろしく複雑で奥深く、際限がない。
それでいて人間は未来予知能力も乏しいのだから、せいぜい、人生の先輩がたのお話や生きざまを参考書として、どんぶり勘定で予測するしかない。
なにより、「幸せとは何か。」「コストパフォーマンスの良い人生とは何か。」――こういった事をしっかり定義づけられなければ人生のコストパフォーマンスなどマトモに考えられるはずがない。
よしんば予測できたとしても、そうした予測に意識を奪われ過ぎるとそれはそれでストレスになってしまうと思う。私はおすすめしない。本来の人間は、そこまでホモ・エコノミクスな存在ではないし、賢い存在でもない。
人生のベネフィットを知らぬままコスパを語るとは笑止千万
他方、人生のコストパフォーマンスを語る人達のなかには、どうにも浅薄きわまりない一群がいるように思う。
コスパコスパと連呼しながら種々の可能性を放棄し、利口ぶっている人達の救いがたい点は「自分の考えているコストとベネフィットの方程式が、10年後も20年後も成立すると思い込んでいる」点、のみならず「自分の人生のコストとベネフィットを全知全能の神のように把握できていると錯覚している」点だ。
人間は間違える。欲求は年齢とともに変わっていく。「禍福はあざなえる縄のごとし」と言うように、ある時点でコストと思えたものが、次の時点ではベネフィットに思えたり、その逆が起こったりすることもある。
私は、人生コスパ論者が、そのあたりを慎重に考察しているところをみたことがない。人生のコストパフォーマンスを突き詰めて考えるなら、遠い未来の自分にとって何がベネフィットで何がコストなのか、または自分自身の浅はかさまで、ちゃんと想定に入れるべきだ。
そうとも。人生コスパ論者は、あれもコストこれもコストと叫ぶ前に、まず、何がベネフィットなのか、何がコストを費やすに値するものなのか、その定義をこそ研ぎ澄ませるべきではないのか。
それでいて、自分自身に対しても世界全体に対しても謙虚に構え、運命のなすがままな側面を認め、コスパ的な計算を適用しにくい分野ではコスパについて深く考えないのが好ましいのではないか。
ま、人生のコストパフォーマンスを、金銭的/時間的コストだけで算盤勘定してみせるのは、利口な振る舞いじゃないですよ(断言)。
それとも、貨幣制度の充実にあぐらをかいて、カネと時間の話だけすれば人生のコスパが語れると油断しているのでしょうか?
人生のコストについて考えるためには、まず、目的やベネフィットが定義されていなければならない。私は、"人生コスパ論"を見かけた時には、そういった目的やベネフィットについて考えた兆候がみられるのか必ずチェックするようにしている。
自分が何を欲しがっているのか・自分の人生をどのように生きて何を為したいのかもわからないまま、目先の皮算用にとらわれて「コストパフォーマンス最高!」って叫んでいるような人達は、なにもわかっていない。
あなたにとって、お金は何のために必要なのか? そのお金で何のために生きるのか? ただ、たくさんの快楽を積み上げ、ただ、たくさんクソをして、死によって無に還っていくことこそが「最高のコストパフォーマンス」なのか? そのあたりも、ちゃんと視野に入れて考えるべきである。
『シロクマの屑籠』セレクション(2015年9月14日投稿より
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』
Photo:Jordan Opel