紫式部の娘・大弐三位(賢子)って、どんな人? 恋愛関係と恋の歌からひも解く!
紫式部が一児の母であったことはあまり知られていない。紫式部の娘は、大弐三位(だいにのさんみ=本名が賢子)として知られており、和歌の名手として後世に名が残っているのだ。今回は、紫式部の娘を紹介してみよう。
母・紫式部よりも出世した?
実は賢子もまた、年頃になると、紫式部とともに彰子のもとに女房として出仕していたことが分かっている。母娘二代にわたり、彰子のお世話を宮中でしていたということだ。
そしてなんと、彰子の孫である親仁親王(のちの後冷泉天皇)の乳母に選ばれるのだ! 現代の感覚では分かりづらいかもしれないが、これはかなり名誉なこと。親王の乳母というのは、親王の育ての母であるも同然。しかも親仁親王はのちに天皇になるわけだから、「天皇の乳母(=天皇を育てた女房)」という、当時の女房としては最も位の高い位置に就く。
賢子の実家は、平安時代にあっては中流以下の家庭だった。大河ドラマ『光る君へ』でも、紫式部や賢子の実家が貧乏である……という描写はしばしば挿入される。しかしそんな賢子が、なんと宮中に上がった後、大出世を遂げるのである。もちろんその背景には彰子や道長による紫式部への信頼があったのではないかと思われるが、それにしたって賢子自身が女房として優秀でなければそんなことは起きない。正直、賢子は母・紫式部よりも出世したと言えるだろう。運命はわからない。
『小倉百人一首』にも選ばれた恋の歌
さてそんなふうに女房としては母よりも大出世を遂げた賢子。母と異なる点は、まだあった。それは……何人もの男性貴族と、恋の歌を残しているところである。なんと藤原道長の息子や藤原公任の息子との恋愛の和歌が残っているのである。さらに源倫子の異母兄・源時中の息子である源朝任とも恋愛していたらしい。一説には藤原斉信の養子・公信と夫婦関係にあったともいわれている(これは藤原道兼の息子・兼隆ではないかという説もあるため、はっきりしない※)。
まあそんなわけで産んだ子の父が誰であるか情報が錯綜するほど、賢子は宮中で浮名を流していたということである。それにしても、紫式部の娘と道長の息子が恋愛関係にあったのかと思うと、史実ってすごい、と驚いてしまうのだが……。
しかし賢子はそのような恋愛関係のなかで生まれた和歌が、大いに評価されている。紫式部よりも賢子のほうが和歌は称賛されているくらいである。たとえば、『小倉百人一首』に選ばれたこの歌。
有馬山ゐなのささ原風吹けばいでそよ人を忘れやはする
(現代語訳:有馬山のふもとにある猪名〈いな〉の笹原に風が吹くと、笹の葉がそよそよと鳴る……ねえ、そうよ、なんで私があなたのことを忘れられるの)
最近会ってない男性から「心変わりしてない?」と言われたので、返した歌である。風が吹いたときのように、あなたが来てくれたら、必ず私は音を鳴らす=応答するんだけどなあ……という皮肉を感じる。けっこう上手だ。
あるいは公任の息子・定頼にはこんな和歌を返している。
春ごとに心を占むる花の柄にたがなほざりの袖かふれつる
(現代語訳:春が来るたび好きになるあの梅の枝……いい加減な気持ちで袖に触れて残り香をうつしていくの、やめてくれない⁉)
要は、恋人である定頼に「久しぶりにやってきて、いい加減な感じで口説くのやめてくれない⁉ チャラい残り香が嫌なんですけど!」と言う和歌である。
なんとも公任の息子らしいエピソードだと笑ってしまう。
仕事も恋も楽しんだその生涯
そんなわけで、恋愛上手で和歌上手、そしてキャリアも万々歳な人生を歩んでいく賢子。彼女は紫式部の娘という七光りに負けず、母よりもある意味人生を謳歌していたのかもしれない、なんて残っている和歌を読むと思う。宮中ライフを満喫し、仕事も恋愛も楽しんだ新人類の娘だったのである。
ちなみに賢子も紫式部と同じ、現・蘆山寺のあたりで生まれ育ったらしい。蘆山寺の境内には賢子の歌碑もちゃんとある。ぜひ行った際は、賢子の歌碑も見つけてみてほしい。
文=三宅香帆 写真=PhotoAC
※公信との交際説は、萩谷朴『紫式部日記全注釈 上巻』(KADOKAWA)による。兼隆との交際説は、上原作和『紫式部伝——平安王朝百年を見つめた生涯』(勉誠社)による。
三宅香帆
書評家・作家
書評家、作家。1994年生まれ。高知県出身。京都大学大学院卒。著書に『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』『(萌えすぎて)絶対忘れない! 妄想古文』『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』『娘が母を殺すには?』『30日de源氏物語』他多数。「スマホを持ってる紫式部」Xアカウントのライティングを担当。