重岡健司さん(92)に聞く 「国際交流は平和の礎」
今年で40周年を迎える茅ヶ崎市国際交流協会にただ一人、創立当時から会を支え続けている会員がいる。今年で92歳になる重岡健司さん(浜見平在住)だ。戦時中、現在の韓国で生まれ、終戦直後の混乱も経験。戦後は得意の英語を生かしてNHKの記者も務めた重岡さんに、国際交流や平和への思いを聞いた。
茅ヶ崎市国際交流協会で40年活動
重岡さんは1932年、日本の植民地だった現在の韓国慶尚北道大邱特別市で生をうけた。「本土と比べると豊かだったと思う」という生活は、1945年8月15日を境に一変する。
終戦を知った50人以上の朝鮮人が鉄砲や刃物を手に自宅に押し掛け、金や物を盗まれた。父は刃物で肩を切られて連れ去られ、一週間以上行方が分からなかった。
終戦から3カ月後、父の故郷の山口県光市に帰ったものの、手元に残ったのは1人千円の現金とリュックサック1つだけ。生活の苦しさから、父親に一家心中を持ち掛けられたこともあった。「ただただ悲しかった」という。
大学進学のために上京。学内で発行される英字新聞の編集長も務めた。こうした経験が英語力を高め、またジャーナリズムへの関心を高めることにつながった。
卒業後は自動車販売店を経て、60年に国際放送を再開させたNHKに転職。英語記者として、海外のニュースを翻訳したり、国内の話題を世界に発信した。
「市民が主役の時代」
そんな重岡さんが、国際交流協会の立ち上げに参加することになったのは1979年ごろ。当時全国的に市民運動が活発になり、政治や社会の問題に対して国民が声を上げ始めていた。
重岡さん自身もPTAや公民館を地域に開設する運動に参加。「戦後も『お上』と『下々』だった政府と市民の関係が変わり始めた」
そのころ政府の方針もあり、全国各地で「国際交流協会」が設立されており、茅ヶ崎でも検討が始まった。そこで白羽の矢が立ったのが浜見平の団地に居を構え、海外にも精通していた重岡さんだった。
「実はほかの地域では自治体が主導で協会ができることも多かった。『理事』に市長や議員がずらりと名を連ねていたりね。でも市民が主役でなくては意味がないと思った」。知人の外務省職員にも声をかけ、市民主導による同協会の設立に奔走した。
「都内にある50〜60カ国の大使館を訪れて協会をPRした。各国の観光ポスターを貰って中央公園の秋の祭りに並べたり、物産を売ったりしたことも。懐かしいね」と当時を振り返る。
現在、同協会の会員は189人。異文化の理解や国を超えた交流の場を増やす目的で活動している。「協会での活動は自分の人生の大事な一部」と笑顔を見せる。
平和への思い
いまも朝4時半に必ず海外のニュースをチェックするという重岡さん。ロシアのウクライナ侵攻やガザでの紛争に胸を痛める。「20世紀、2度も大きな犠牲を払ったのに、人間はまだ戦争をやめない」
だからこそ改めて国際交流の価値について考えている。「文化や歴史の違いをお互いに理解し、国境を越えて愛や友情を育むことが平和への第一歩。今こそ、国際交流が必要とされている」