没後20年!本田美奈子. を語る上で忘れてはいけない “ロックシンガー” としての顔
没後20年、11月6日が本田美奈子.の命日
もう20年経つんだ…… と、つい驚いてしまったのは、それだけ彼女の歌が今もなお頻繁に流れているからだろう。2005年11月6日、急性骨髄性白血病のため、38歳の若さで逝った本田美奈子.の命日が今年もやって来た。
本田美奈子.(亡くなるちょうど1年前・2004年11月から姓名判断で名前に《 . 》を付記)は1985年にアイドル歌手としてデビュー。1980年代はアイドル離れした歌唱力で注目され、1990年代はミュージカルに軸足を移して活躍。2000年代にはクラシック曲に日本語詞を乗せて歌うなど、意欲的な活動を見せた。まさに “さあこれから” という時に届いた突然の訃報。元気であれば今は58歳。円熟味を増し、世界的な歌手になっていたかも、とも思う。本当に惜しい。
今年(2025年)は没後20年ということで、生前の彼女の活動を回顧する記事もよく見かけた。ほとんどがアイドル時代か、ミュージカル女優としての功績に触れたものだったが、歌手・本田美奈子を語る上で、もう1つ忘れてはいけない顔がある。それは “ロックシンガー・本田美奈子” だ。
ゲイリー・ムーアが手掛けた「the Cross -愛の十字架-」
あどけない顔つきなのに、デビュー曲「殺意のバカンス」からして結構アダルトな雰囲気でデビューした本田。当時の洋楽シーンはマドンナが世界を席巻しており、所属事務所・ボンド企画は本田に “マドンナフォロワー路線” を歩ませた。セカンドアルバム『LIPS』のジャケットを見れば一目瞭然。ヘソ出しルックで激しく腰を振りながら歌った5thシングル「1986年のマリリン」(オリコン最高3位)もそうだ。
その後も「Sosotte」(オリコン最高3位)→「HELP」(同2位)と秋元康&筒美京平コンビによるアダルト路線の曲が続きヒットを重ねたが、“おっ” と思ったのは、次作である8thシングル「the Cross -愛の十字架-」である。この曲の作詞・作曲を、なんとギターヒーロー、ゲイリー・ムーアが手掛けたのだ(日本語詞は秋元康)。しかも、演奏はいかにもゲイリーのプレイ。前作「HELP」もハードロック風だったけれど、こちらは正真正銘の “純ロック” で度肝を抜かれた。ど、ど、どういうこと?
そして、この曲と同じ1986年9月にサードアルバム『CANCEL』が発売になった。このアルバムはロンドンでレコーディングされ、ゲイリーはギタリストとして全面参加。曲はカジャグーグーのリマールとニック・ベッグス、クイーンのベーシスト、ジョン・ディーコンらが提供。また、ダイアー・ストレイツのメンバーだったガイ・フレッチャーが全10曲中6曲でアレンジを担当している。当時は円高でジャパンマネーも強かったとはいえ、日本からやって来たデビュー2年目の歌手のために、なぜこれだけの名のあるメンバーが参加してくれたのか? これには伏線がある。
武道館ソロコンサートのオープニングは「I Was Born To Love You」
本田はデビュー年の1985年12月に早くも日本武道館でソロコンサートを行い、その模様は、翌1986年3月発売の『ザ・ヴァージン・コンサート IN BUDOKANライヴ』に収録された。驚くのは、そのオープニング曲が自分の持ち歌ではなく、クイーンの「I Was Born To Love You」なのだ。つまり本田は熱烈なクイーンファンだった。
そして本田は、所属レコード会社がクイーンと同じ東芝EMIという縁を生かして思い切った行動に出る。自身の武道館ライブ盤とデビューアルバムを、担当者を介してクイーンのギタリスト、ブライアン・メイに送り “私に曲を書いてください” と依頼したのだ。ダメ元とはいえ、なかなかできることではない。そしてこれが吉と出る。なんとブライアンからOKの返事が来たのだ。引き受けた理由は “可愛くて歌がうまい” 。ブライアンに実力を認めさせた本田も凄いが、ちゃんとレコードを聴いて依頼に応えたブライアンもまた素晴らしい。
ということで1986年6月、本田はブライアンとの打ち合わせのためロンドンへ飛び、約1ヵ月滞在。その間に先述のアルバム『CANCEL』をレコーディングした、とまあそんな経緯だ。このとき本田はブライアンに招待されて、同月にドイツのマンハイムで行われたクイーンのスタジアムライブを観ている。フレディ・マーキュリーの鬼気迫るステージを生で観た本田は “鳥肌が立った” と述懐している。このライブ体験は、その後の “ロックアーティスト・本田美奈子” のパフォーマンスに大きく寄与したはずだ。
ブライアン・メイ全面プロデュースの「CRAZY NIGHTS / GOLDEN DAYS」
そして翌1987年4月、ついに本田の夢が実現する。ブライアン・メイ全面プロデュースの両A面シングル「CRAZY NIGHTS / GOLDEN DAYS」がリリース。2曲とも作詞・作曲・編曲をブライアンが手掛け(日本語詞は秋元康)、さらにはギターやコーラスも担当。いかにブライアンが本田美奈子に惚れ込んでいたかがわかる。
「CRAZY NIGHTS」はいかにも1980年代のクイーン風で、対する「GOLDEN DAYS」は聴かせるバラード。もちろん本田はどちらもしっかり歌い上げ、ブライアンを大満足させた。このシングルは、オリコン最高10位のヒットを記録。好きなアーティストに曲を書いてもらおうと直談判した本田の “ロックな熱意” が実を結んだのだ。
こうして、上からのお仕着せではなく、自ら望む形で “ロック路線” を突き進んでいった本田。4作目のアルバム『OVERSEA』(1987年6月)はロスでレコーディングが行われ、マイケル・ジャクソンのスタッフがプロデュースを担当した。本田は渡米した際、ロスにあるマイケルの自宅にも招待されており、やはりブライアン・メイが認めたという実績は大きかったと思う。
もっと評価されていいバンドMINAKO with WILD CATS
こういった経験がベースとなって、1988年、本田はガールズバンド “MINAKO with WILD CATS” を結成。これも本田自身の発案で、メンバーもオーディションで選考。7月発売の第1弾シングルは、作詞は松本隆、作曲が忌野清志郎の「あなたと、熱帯」(オリコン最高10位)だった。
私の名前は 密林の女王
百獣の王 ライオンも
子猫のようにひざまずく
こうシャウトする本田は、アイドルの域を超え、完全にロックシンガーと化していた。MINAKO with WILD CATSは翌1989年に解散。商業的には成功しなかったが、もっと評価されていいバンドである。
デビューして間もない時期に海外の一流ミュージシャンたちと渡り合い、実力を認めさせた本田美奈子。この “ロック期” があったことで、彼女のボーカリストとしての才能はさらに磨かれ、その後のミュージカルや、クラシックとのクロスオーバーにつながっていったことを忘れてはならない。