#4 支援者との強い絆――小川洋子さんが読む『アンネの日記』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
作家・小川洋子さんによる『アンネの日記』読み解き #4
苦難の日々を支えたのは、自らが紡いだ「言葉」だった――。
第二次世界大戦下の一九四二年、十三歳の誕生日に父親から贈られた日記帳に、思春期の揺れる心情と「隠れ家」での困窮生活の実情を彩り豊かに綴った、アンネ・フランクによる『アンネの日記』。
『NHK「100分de名著」ブックス アンネの日記』では、『アンネの日記』に記された「文学」と呼ぶにふさわしい表現と言葉と、それらがコロナ禍に見舞われ、戦争を目の当たりにした私たちに与えてくれる静かな勇気と確かな希望について、小川洋子さんが解説します。
今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第4回/全6回)
支援者との強い絆
オランダでのユダヤ人迫害が広まるにつれ、オットーは隠れ家への避難準備を着々と進めていました。事業を信頼できる人に任せ、経営する会社の建物の奥に、身を潜めるための部屋を整えていったのです。
一九四二年七月五日、姉のマルゴーに出頭命令が下されました。マルゴーはこのときまだ十六歳。ユダヤ移民センターからの表向きの招集理由は、勤労奉仕を命じるものでしたが、応じれば収容所送りになることは間違いありません。当初、召喚状はオットー宛てと思われました。それがマルゴー宛てであるとわかったとき、母のエーディトはきっぱりと「マルゴーを行かせたりはしません」と言ったと、日記にはあります。
当時エーディトは、四十二歳のまだ若いお母さんでした。しかもこの年の一月に、同居していた実母、つまりアンネの祖母を病で亡くしています。言葉もよく通じない、先の見通しもない、頼る身寄りもないオランダで、娘にこんな恐ろしい命令が下ってしまった。そうした過酷な状況で発せられた「マルゴーを行かせたりはしません」という言葉は、胸に迫る響きを持っています。
大人になって読み返してはじめて気づきましたが、この言葉には子どもを全力で守ろうとする母親の強い気持ちが表われています。親が抱く子への責任感は、政治家が国を動かす力よりも純粋で力強い。もちろん場合によればこの台詞は「アンネを行かせたりはしません」とも、置き換えることが可能です。
あとで詳しく読んでゆきますが、エーディトとアンネはかなり激しい「母─娘」のバトルを繰り広げます。しかし根本にエーディトが持っていた子どもたちへの愛情は揺るぎなく、ある意味では平凡でもあり、しかしだからこそ尊いものだったとわたしは思います。
さて、マルゴーに出頭命令が下されたことで、父オットーの予定に若干の狂いが生じます。一家の隠れ家への退避を前倒しにする必要が出てきたのです。一気に準備を加速する家族の傍で、詳しいことを知らされなかったアンネは「どこに隠れるんでしょう。町かしら、田舎かしら」と、戸惑いを隠せません。とにかく荷づくりをしなければいけない状況のなか、アンネが真っ先に大事なものとして通学鞄に詰めたのは、もちろん日記帳でした。
子どもたちにもさとられないように進められた隠れ家への退避準備。そのおもな協力者は、会社の経営を引き継いだヨハンネス・クレイマンと、オットーの右腕として会社を支えてきたヴィクトル・クーフレル、女性従業員のミープ・ヒースと事務員のベップ・フォスキュイルです。彼らの献身はたんなる事業主と被雇用者の関係を大きく超えるものでした。その信頼関係を示すくだりが、のちにミープ・ヒースが記した『思い出のアンネ・フランク』にあります。
オットーに、会社の裏の部屋に隠れようと思う、ついてはあなた方の支援がなければそれは不可能なのでよく考えてほしいと言われ、ミープは許諾を即答します。
一生に一度か二度、ふたりの人間のあいだに、言葉では言いあらわせないなにかがかようことがある。いま、わたしたちのあいだに、そのなにかがかよいあった。「ミープ、ユダヤ人を支援する罪は重いよ。投獄されることはおろか、ことによると──」
わたしはさえぎった。「『もちろんです』と申しました。迷いはありません」
(ミープ・ヒース、アリスン・レスリー・ゴールド著『思い出のアンネ・フランク』深町眞理子訳、文春文庫)
この時点でオットーとミープはすでにかなり強い絆で結ばれていたことがわかります。並みの頼まれごとではない、命を賭した支援──。政治的な信条とは別の、自分の親しい人が目の前で困っている現実があり、それを理屈抜きで助けたい、という愛に根差した行動でした。組織立って抵抗運動をしていた人々からの援助ではなく、友人たちの善意による支援だったのです。
なぜ、それができたのか──。これはわたしが一九九四年にミープさんと面会したときにもっともぶつけてみたい質問でした。でも、確たる答えは得られなかった。ただ彼女は「それは人間だからだ」という意味の言葉を口にしただけです。人間として当然のことをしただけだ、と。
『アンネの日記』は、ユダヤ人が弾圧された時代、大勢の非ユダヤ人がなにかしら自分にできることをしようと努めた事実を証明しています。もちろん、わずかばかりのお金のためにユダヤ人狩りに協力する密告者も、同時に存在しました。もしも自分がこの時代に生きていたらどういう行動を取るだろうか──。そうした問いを、日記は私たちに突きつけてきます。道義的にふるまいたいと思っても、時代の流れや恐怖心から誤った行動を取らないとは限らない。わたし自身、人間として間違いを犯さない自信などどこにもありません。
しかしミープ・ヒースは、最後までフランク一家を支えました。配給制が敷かれ、オランダ人でさえ食料がなかなか手に入らないなか、アンネたちのために偽造の配給切符を取得し、遠い店まで足を運び、長い列に並んで食料を調達してくる。どれほどの疲労を伴うことだったかと想像しますが、彼女にそう尋ねると、一番辛かったのはそうした肉体的な問題ではなく、秘密をずっと抱えたままでいなければならなかったことだと答えました。命に関わる秘密を守り続ける日々は、確かに精神的な重荷だったでしょう。ミープ・ヒースは黙って耐えました。それは見返りを求めない、真の献身だったのです。
ミープ・ヒースがとても行動的で、勇気ある女性であるのは間違いありません。アンネたちが連行されたあとも、なんとかお金で解決できないかとゲシュタポの本部まで直談判に出かけていったほどの勇敢さを持っています。しかし、彼女が特別な才能や、特権的な地位を持っていたわけでもない、名もなき一市民であったのもまた事実です。彼女と同じく、自らの命を賭して勇気ある行動をした無名の人々は、他にも大勢存在していました。
著者
小川洋子(おがわ・ようこ)
作家。1962年、岡山県生まれ。早稲田大学第一文学部文芸科卒業。88年「揚羽蝶が壊れる時」で海燕新人文学賞を受賞し、デビュー。91年「妊娠カレンダー」で芥川賞を受賞。2004年『博士の愛した数式』で読売文学賞、本屋大賞、『ブラフマンの埋葬』で泉鏡花文学賞、06年『ミーナの行進』で谷崎潤一郎賞、13年『ことり』で芸術選奨文部科学大臣賞、20年『小箱』で野間文芸賞、21年菊池寛賞を受賞、同年紫綬褒章を受章。その他、小説作品多数。エッセイに『アンネ・フランクの記憶』、『遠慮深いうたた寝』などがある。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。
■『NHK「100分de名著」ブックス アンネの日記 言葉はどのようにして人を救うのか』(小川洋子著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
*本書における『アンネの日記』の引用は、アンネ・フランク著、深町眞理子訳『アンネの日記増補新訂版』(文春文庫)を底本にしています。また、小川洋子著『アンネ・フランクの記憶』(角川文庫)を参考にしました。
*本書は、「NHK100分de名著」において、2014年8月および2015年3月に放送された「アンネの日記」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「言葉はどのようにして人間を救うのか」、読書案内などを収載したものです。