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第23回【私を映画に連れてって!】ヴァンゲリス、サザンオールスターズ、PINK、久石譲、中山美穂、ロンドン交響楽団など、日本映画と音楽の幸福な関係

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第23回【私を映画に連れてって!】ヴァンゲリス、サザンオールスターズ、PINK、久石譲、中山美穂、ロンドン交響楽団など、日本映画と音楽の幸福な関係

1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。

 これまで映画製作とともに毎回、音楽とも向き合ってきた。
 最初の頃は、自分の好みの音楽を主題歌にしたいとか、全体像をあまり考えずに接してきたことが多かった。
 それでも、音楽の神様がいたのか、良い形の場所へ導いてくれたように思う。

『炎のランナー』(1981公開)が第54回アカデミー賞(1982年3月29日)で作品賞・衣装デザイン賞・脚本賞・作曲賞を受賞した年は、ぼくがフジテレビに入社して、いきなり『南極物語』(1983)の製作に関わることになった年でもあった。

 土曜夜9時からの「ゴールデン洋画劇場」枠でアカデミー賞の放送を行っており、ぼくもそれに参加できることになった。約1週間後れ(?)で、正味4時間以上の授賞式を1時間半ぐらいのダイジェスト版で放送、編集やら吹替え作業をやった。そこで見たのが作曲賞に輝いたヴァンゲリスであり、一度聴いたら忘れられない『炎のランナー』の映画音楽である。

『南極物語』の撮影は始まっていたが、音楽は決まっておらず、蔵原惟繕監督や貝山知弘プロデューサーらと、ヴァンゲリスの話題で大いに盛り上がる。続く『ブレードランナー』(1982)の音楽も手掛け、世界的に活躍する。そんなヴァンゲリスに『南極物語』の音楽をやってもらおう! との話になり、正直、この「邦画」に参加してもらうのはハードルが高すぎる相手と勝手に思っていた。

 ギリシャ人であるヴァンゲリスはその頃はパリを拠点に活動していて、蔵原監督と貝山プロデューサーは「ラッシュプリント(撮影済)を持ってパリのスタジオに直談判に行こう!」となり、現地でどんな会話がなされたのかは定かではないが承諾を得て帰国した。『南極物語』はスケールの大きい作品だが、ヴァンゲリスの参加が決まり、よりパワーアップして「大作」になった。メインテーマを聴いた時の最初の感動は忘れられない。『炎のランナー』のアカデミー賞の放送から1年位しか経っていなかった。今はこの3人は鬼籍に入られた。

▲ギリシャのシンセサイザー奏者で作曲家であるヴァンゲリス。1981年公開でアカデミー賞作品賞に輝いた『炎のランナー』の音楽を担当しオスカーを受賞した。作品もすばらしかったが、オープニングで流れるテーマ曲と画像の美しさで一気にスクリーンに引き込まれた。あのメロディは今も鮮やかに記憶に刻まれている。『南極物語』は、ヴァンゲリスが初めて日本映画の音楽を手がけた作品として日本映画史にも記される。

 この英断というか、怖いもの知らず? というか、「アイデア

行動」は自分には大いに刺激になった。

 すぐに行動に出たのが『チ・ン・ピ・ラ』(1984)だ。『南極物語』の翌年で、制作費は桁が違う7500万円。川島透監督とは気が合い、好きな音楽も近いところがあり、自分がアーティストとの交渉などを行うことになった。『竜二』(1983)でデビューした川島監督もフジテレビとどう付き合うかは手探り状態だったと思う。クランクインは決まったが、主題歌は未定のままだった。

「サザンオールスターズで行きましょう!」と、監督との話になり、所属のアミューズ会長(後にぼくもそこで3年間お世話になりますが)に直接会ってアタック。即断の「NO!」で討ち死に……。学生時代、サザンのファンだった自分をアピールしてもダメか……と思ったり、川島監督も『竜二』1本しか実績がなく『チ・ン・ピ・ラ』もどれほどの映画になるかは、正直、ぼくにもよくわからなかった。『竜二』が大好きで『チ・ン・ピ・ラ』をやることになったが、冷静に考えれば、サザンのバリューとは大きな隔たりがあった。

 撮影間近になり、次の候補で決めたい! との思いは強く、RCサクセッションの忌野清志郎さんに溜池の東芝EMI(当時)で会うことになった。「スローバラード」や「トランジスタ・ラジオ」とか大好きだった。担当の石坂敬一さん(後にユニバーサルミュージック社長等)には前向きに考えてもらっていて、清志郎さんが「うん」と言えばOKとのこと。事前に企画書やシナリオは渡してあった。

 1階のラウンジのような場所で会ったのだが、スッピン? だったので、本物の清志郎さんなのか一瞬ではわからなかった。当時33歳。ちなみにぼくは25歳。

「いかがでしょうか?」「映画は面白そう……だと思います」「ありがとうございます」「では主題歌を創ってもらえますでしょうか?」「もし、ぼくが創った曲が映画と合わなかったりしたらどうしたらいいでしょうか?」「映画は総合芸術とも言われていて多くの関わる方の集大成でもありますので……」「でもぼくのせいで映画が台無しになったりしたら……」

 また、討ち死にしてしまった。それでも清志郎さんのことは会う前より好きになった。

 もうすぐ撮影がスタートする。何とかそれまでに……。監督とも話し、大沢誉志幸さんに頼んでみよう! とのことに。

 丸山茂雄さん(エピック・ソニー創始者/後のソニー・ミュージックエンタテインメント社長)と一緒に、大沢さんと会った。シナリオも読み込んでもらっていて中味の話にも及んで「イケるかな」と思った時だった。「このシーンがどうしても引っ掛かります」と。「そこがなければ……」云々の話になり、「ちょっとそれは厳しいかも……」と答えざるを得ない状況。すでに撮影は始まってしまっていた。

 またまた……。丸山さんも気遣ってくれ、「大沢誉志幸のバックバンドもやっていてPINKというのがいて、この前、デヴューしたばかりなんだけど会ってみる?」

 川島監督も存在を知っており、独特の声の感じも良く、即決になった。撮影中にレコーディングを行ったが、監督も来てくれ、良い主題歌が出来たと思う。

 大沢誉志幸さんは、会って数か月後に出した「そして僕は途方に暮れる」(1984年9月)が大ヒットして、我らの主題歌PINKの「PRIVATE STORY」(1984/10)より遥かにメジャーになった。でも、主題歌は映画にマッチしていて、これで良かったと思う。丸山さんはじめ、素晴らしい方々との出会いもあった。PINKの担当ディレクターだった福岡智彦さんは偶然にも、大阪の南河内郡の小学生時代の近所の先輩だったりした。主題歌を制作時に太田裕美さんとの婚約発表をされ、現在もご夫婦である。

 サザンオールスターズのアミューズ会長は『チ・ン・ピ・ラ』を観てくれて「面白かった!」と言ってもらった。『私をスキーに連れてって』(1987)を観たあとには「今度の映画はサザンOKだぜ!」となり、『彼女が水着にきがえたら』(1989)では既成楽曲を何曲も使わせてもらい、映画の主題歌(「さよならベイビー」/サザンとしては初のオリコン1位)も桑田佳祐さんに会って、創ってもらえた。その後、2002年には「アミューズで映画創ろう!」とお誘いを受け(形としては出向)、映画『Jam Films』『荒神』『2LDK』『力道山』、ドラマの「スカイハイ」などの製作をやらせてもらった。

〝縁〟という出会い、そして時間は巡るという〝巡り合わせの日々〟だった。

▲1984年公開の柴田恭兵&ジョニー大倉主演、川島透監督映画『チ・ン・ピ・ラ』の主題歌「PRIVATE STORY」を手がけたのは、83年結成のロックバンドPINK。「無国籍サウンド」と形容され、86年には音楽雑誌「ADLIB」で、「‘85年ベスト・レコード 日本ポップ・ソング部門」の第1位に輝いたバンドだった。レコーディングには、布袋寅泰や吉田美奈子らも参加している。サザンオールスターズのアルバムで、デジタルなサウンドをいかした84年リリースの『人気者で行こう』に収録された「開きっ放しのマシュルーム」は、PINKのサウンドを聴いて強く感動した桑田佳祐がPINKをリスペクトして作った曲と伝わる。ボズ・スキャッグスやクリストファー・クロスのような大人向けのロックテイストの楽曲でありながらもグルーヴィなサウンドが魅力的だった。

 フジパシフィック音楽出版の朝妻一郎社長(当時)には、新入社員の頃より権利のことや、アーティストの紹介、レコード会社との交渉など、あらゆる面でお世話になった。おそらく朝妻社長のお陰で20曲以上の主題歌や、イメージソング、劇伴が生まれたと思う。

 何といっても久石譲さんとの出会いは印象深い。当時、ぼくは取材を受けるたびに好きな映画は『E.T』、一緒に仕事をしたい人は「久石譲」と言っていた。大好きな『となりのトトロ』などの影響が大きかった気がするが、『E.T』のような映画を創り、久石譲さんに音楽を創ってもらうことが目標になっていたような気がする。

 1989年だと記憶しているが、久石譲さんと会えることになった。『病院へ行こう』(1990/滝田洋二郎監督)の製作中で、次回作『タスマニア物語』(1990/降旗康男監督)の企画を自分で書き、来夏の東宝(邦画系)での公開が決まっていた。シナリオが出来る前に、久石譲さんとの初の仕事が出来るよう、本人とも会い、企画の話を語った。

 製作費も高い映画だったので「ロンドンフィルでテーマ曲を創ろう!」など、普段では出来ないことを色々提案してもらった。あの『スターウォーズ』もロンドンフィルだと言われ、気持ちも大きくなった。音楽に関しては最初から最後のダビング(MIX)まで参加させてもらった。何度も久石さんのスタジオに行った。プライベートでも会うようになり、この人の才能は留まることを知らない! とか、どうしてこんなに新たなメロディが次から次へと誕生するのか驚きの体験だった。

『タスマニア物語』は今にして思えば興行収入50億円弱、但し、これはフジテレビの電波を使った宣伝などをフル活動したせいでもある。それも自分でやっていたことだが。イメージソングに、チェッカーズにも「夜明けのブレス」を作ってもらった。TVスポットも「Aパターン」から始まり「Z」まで作って、また「A“」になったりで30パターンは作っただろうか。自分でも途中からどこが違うのか分からないくらいだった。映画自体は久石譲さんの音楽で十分なのだが、どうしても「ボーカル付のメジャーな歌」が欲しかったのであろう。公開後、何度も久石譲コンサートに招待してもらい、『タスマニア物語』の演奏が始まるととても嬉しかった。映画そのものは不完全燃焼と思うところが多かった。自分の責任ではあるが。

 それから暫くして、久石譲さんのコンサートに行くと、隣の席に大林宣彦監督がいらした。終了後、楽屋に行く。久石さんがニコニコしながら大林監督とぼくの手を取って「一緒に映画やりましょう!」と。大林監督の『ふたり』(1991)や『青春デンデケデケデケ』(1992)で久石さんは音楽監督だった。『転校生』(1982)等、ぼくが大林監督の作品が好きだったことを久石さんは知っていて、この場で会わせてくれたのであろう。俄然、やる気になり、大林宣彦&久石譲のカップリングで映画をやるべし! と思った。

▲大林宣彦監督1983年公開『水の旅人 侍KIDS』のサントラ。久石譲作曲のスペクタクル感のあるスコアが、ロンドン交響楽団の演奏によりスケールの大きい楽曲となった。山﨑努と共に水の精(一寸法師)を演じた六代目尾上丑之助は、その後五代目尾上菊之助を襲名し、本年六月大歌舞伎の『菅原伝授手習鑑 寺子屋』の松王丸、『連獅子』の狂言師右近で、八代目尾上菊五郎を襲名予定。

 

 そこに『水の旅人 侍KIDS』(1993/原案・原作は『雨の旅人』著:末谷真澄)の企画の話が舞い込む。『時をかける少女』(1983)の大林監督にはピッタリのファンタジー企画。久石さんも音楽監督を引き受けてくれた。これも東宝系の夏の大作。メインテーマは、まさにロンドンフィルでスターウォーズ並みのフルオーケストラだ。

 シナリオを創り、大林監督にオファーした。「やりましょう! ただ、脚本は自分が潤色しながらで……」この「潤色」の意味をあまり理解していなかった(自分が)ことが現場を混乱させ、大幅な撮影日数超過。映画の撮影、ポスプロが遅れてしまい、久石さんに大迷惑をかけてしまう。

 テレビドラマなら、メインテーマと幾つかの音楽を事前に作っておけば、編集しながらはめていける。久石さんはフィルムの1コマ1コマに合わせて音を創るので、編集が終わらないと作業が始められない。公開の直前まで監督が編集をやっていたせいもあり、久石さんの音楽制作の時間がほとんど無くなってしまうことに。今、考えれば、プロデューサーであるぼくの未熟さが露呈してしまったと言える。興行収入は約40億円の大ヒットになり、フジテレビ、東宝としては喜んでいたのだが……。

 ケガの功名ではないが、あまり主題歌に縁のない久石さんに「今回は是非!」とお願いし、中山美穂が歌う「あなたになら…」の作曲をしてもらった。これが無ければ後の『Love Letter』(1995)も誕生しなかったことを考えると、久石さんには感謝しかない。

▲『水の旅人 侍KIDS』の音楽のロンドンでのレコーディングの際の久石譲と中山美穂。主題歌「あなたになら…」は中山美穂27枚目のシングルとして93年にリリースされた。作詞を中山美穂が手がけ、久石譲の作・編曲。

 

 何十回も会い、長い間付き合ってもらった久石譲さんとは、この2作品しか映画の音楽をやってもらっていない。『病院へ行こう』(1990)を観たあとに「自分ならこういう感じの音楽にしたいね」などの様々な話をした記憶がある。その後、滝田洋二郎監督と久石譲さんは『壬生義士伝』(2002)、そして『おくりびと』(2008)で作品はアカデミー賞外国語映画賞のオスカーに輝く。

 大林宣彦監督ともう一度、と思っていたこともあったが亡くなられてしまい、今は、滝田洋二郎監督&久石譲音楽監督の映画を世界に向けて誕生させたいという希望はある。

 先日、『Love Letter』4K初号に立ち会った。公開から30年、中山美穂さんは亡くなってしまったが、4月から日比谷東宝シネマズほか全国で上映がスタートする。1995年3月公開時はシネスイッチの単館公開映画だったが、30年後に全国で再び上映が出来ることは幸せである。この映画も映像と音楽が見事にマッチしていた。

かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。

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