新国立劇場『ザ・ヒューマンズ─人間たち』広田敦郎(翻訳)、桑原裕子(演出)のコメントが公開
2025年6月、新国立劇場 小劇場にて上演される、シリーズ「光景─ここから先へと─」Vol.2 『ザ・ヒューマンズ─人間たち』の広田敦郎(翻訳)、桑原裕子(演出)のコメントが公開された。
家族が織り成す様々な風景から、今日の社会の姿を照らし出し、未来を見つめるシリーズ「光景─ここから先へと─」の第2弾は、劇作家・脚本家として活躍するスティーヴン・キャラムのヒット作、『ザ・ヒューマンズ─人間たち』。
マンハッタンの老朽化したアパートを舞台に、感謝祭を祝うために集まったある家族の会話から、貧困、老い、病気、愛の喪失への不安、宗教をめぐる対立などが浮かびあがる一夜の物語です。だんだんと吐露されていく彼らが感じている様々な不安。人間の抱える人生の大きな不安を描くこの物語の世界は、現在のアメリカの縮図であり、それは私たち日本の現在とも重なる。
今回、演出に、22年に上演した『ロビー・ヒーロー』の記憶も新しい、劇団KAKUTA 主宰の桑原裕子を再び迎え、新国立劇場にて日本初演する。
キャスティングには、観客が自分自身を重ねることができる当事者性を重要視したという桑原。ブレイク家の長女で、ガールフレンドと別れたばかりの弁護士エイミーには山崎静代。作曲家を目指す次女のブリジットには、オーディションを経て出演が決定した青山美郷、その恋人・リチャードには細川 岳、認知症により車椅子生活をおくる祖母モモには稲川実代子、母ディアドラには増子倭文江、そして悪夢にうなされ不眠が続く父エリックを平田 満という多彩なキャストが揃った。
家族ドラマというジャンルに、気味悪さ、恐怖という予想外の要素を混ぜ込んだ異色作。「こういう展開、こういう作品だろう」という、観客の予想を超え続ける緊張感のある展開に加え、家族間の一筋縄ではいかない関係性、ユーモア、そして深い愛が描かれる。
翻訳 広田敦郎からのメッセージ
とても定義しがたい作品です。一見サイエンス・フィクションかと思わせるタイトルでもあるようですが、どんなお芝居かは想像しにくいでしょう。
一家が集まる感謝祭のディナー、夜更けとともに浮かび上がる不都合な真実、と、いかにも〈アメリカの家族劇〉らしくまとめることもできますが、それではあまりにも新しくないし……何も特別なところのない、ごく普通の家族の営みにほっこりしながら、そこはかとない不安にさいなまれ、「いま何を見せられたの?」と若干もやっとしながら劇場を後にする感じの、怪談じみたお芝居、でしょうか。
『ハミルトン』がトニー賞ベスト・ミュージカルとピュリッツァー賞に選ばれた2016年、トニー賞ベスト・プレイに選ばれ、ピュリッツァー賞ファイナリストまで残ったお芝居です。バラク・オバマ政権が終わりに近づくころ、そしてまもなくドナルド・トランプが大統領に選ばれることを大勢が予想していなかった(あるいは予想していたでしょうか?)ころ、初演されたお芝居です。
19世紀から20世紀の変わり目、チェーホフの新作劇を観た人々と同じような気持ちを味わえるお芝居、かもしれません。
ニューヨーク、マンハッタンの片隅で感謝祭のディナーに集まった家族の抱える不安は、ポストコロナ時代の日本で生活するわたしたちにとっても他人事ではありません。劇場でひとよの不安を分かち合い、他者との緩やかな繋がりを感じることが、この酷い時代、酷い世界を生き抜くための支えになればと思っています。
演出 桑原裕子からのメッセージ
人が、不安を抱くのはどんなときだろう、と考えていました。
幼い頃は、そこにないはずの物がある、見えない者が見える、聞こえてはいけない音が……という、いわばゴーストのような未知なる存在に恐れ、何もない暗闇の奥に目をこらしていたものです。
けれどいつからか、不安はその逆にある、と感じるようになりました。
あるはずのものがない。見えていたことを見失う。信じていたものが失われてゆく。それは、信頼であるとか関係だとか絆だとか記憶だとか愛だとか、自分自身であるとか。あるいは文化だとか、社会だとか。私たちの暮らしている世界は、永遠に進化していくものだと思い込んでいたけれど、そうではなかったのだなと、ここ10年ほどの間で急速に感じるようにもなりました。以来ずっと、足下に不安が漂っています。
失われていく予感こそが、不安の正体なのかもしれません。
『ザ・ヒューマンズ―人間たち』は、ひとつの家族の、ほんの僅かな時間を切り取った作品です。あなたも私もよく知るような……けれど、我々が平気な顔をして日々を営みながらひた隠しにしてきた恐ろしい何か、が、不気味な軋みをあげて満ちてゆく恐怖劇でもあります。家族という小さな社会で蠢く人間たちを、私も足をすくませながら見届けます。