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『妻や妾100人以上』好色だった漢の丞相が104歳まで生きた「驚きの長寿の秘密」とは

草の実堂

画像 : 張蒼の妻妾 イメージ 草の実堂作成(AI)

秦から漢へ生き延びた文官

古代中国では、医療や衛生の未発達もあり、人々の平均寿命はおよそ30歳前後にすぎなかった。
そんな時代に、104歳まで生き抜いた文官がいる。

その名は張蒼(ちょう そう)。

秦から前漢にかけて活躍し、最終的には漢王朝の丞相にまで登りつめた人物である。

画像 : 張蒼 イメージ 草の実堂作成(AI)

張蒼は、秦末から前漢初期にかけて活躍した文官で、現在の河南省原陽県南東部にあたる三川郡陽武県の出身である。

『史記』や『漢書』によれば、彼は幼い頃から書物と律令、暦法を好み、非常に博識であったという。

秦の時代、張蒼は宮中で文書を管理する御史(柱下史)に任命されていた。
しかし、ある罪を犯してしまい、秦の厳しい法律の追及を恐れて、故郷の陽武へ逃げ帰った。

時はまさに秦の末期、各地で反乱が相次ぎ、天下の情勢は混乱していた。

そんなある日、張蒼の故郷・陽武に、劉邦(りゅうほう)の軍勢が通りかかった。

画像 : 劉邦(りゅうほう) public domain

劉邦はもともと秦の末端役人にすぎなかったが、陳勝・呉広の乱をきっかけに郷里で挙兵し、項羽の麾下として諸侯軍の一翼を担っていた。

陽武に差しかかったのは、咸陽を目指して西へ進軍する途上のことである。

この機を逃すまいと考えた張蒼は、劉邦の軍に合流を申し出て、受け入れられたのだ。

当時、劉邦は漢中に向かう途上で、まずは南陽郡(現在の河南省南部)の制圧を目指していた。
張蒼はその進軍に参陣し、反乱軍の一兵卒として再出発を果たすことになる。

その後の彼の経歴は、まさに異例の出世街道であった。

戦場での働きや行政手腕を高く評価され、常山郡の太守、さらには趙国や代国の宰相に抜擢された。
最終的には、漢の文帝に仕えて丞相(最高位の官職)に任じられている。

軍律違反で斬首寸前、命を救った「美貌と奇縁」

そんな華やかに見える張蒼の生涯だが、実は命を落としかけた場面が二度ある。

一度目は、前章でも触れたように、秦の時代に罪を犯して故郷へ逃亡した件である。
秦は法による統治を徹底した国家であり、官吏が罪を犯せば、情状酌量の余地はほとんどなく、処罰は極めて苛烈だった。
張蒼は、逃げる以外に助かる道はなかったのだ。

そして二度目の危機は、劉邦の軍に加わった後に訪れた。
張蒼は南陽攻略に従軍していたが、軍律に背く行為を働いたとして、斬首を言い渡されてしまった。

違反の具体的内容は史書に記されていないものの、張蒼がかつて秦で罪を犯して逃亡した前歴を持っていたこと、また後の評判などから見て、素行不良や女色の問題を含む「品行に関わる違反」だった可能性が高いと考えられる。

劉邦も、張蒼の素行の悪さを知っていたようだ。
報告を受けると「またあいつか。もう殺してしまえ」と怒声を上げたという。

こうして張蒼は刑場に引き出され、衣を脱ぎ、刑具に伏せられた。
その姿は背が高く、白く肥えており、まるで美しい瓜のようだったという。

画像 : 刑場の張蒼 イメージ 草の実堂作成(AI)

ちょうどその場を通りかかったのが、将軍・王陵であった。

彼は張蒼の姿に目を奪われ、ただの罪人ではないと直感した。
すぐに劉邦に進言し、命を助けるよう願い出る。

最初は激怒していた劉邦も、王陵の顔を立てて処刑を取りやめ、張蒼はふたたび命を拾うことになった。

このときの恩義を、張蒼は生涯忘れなかった。

のちに丞相となってからも、毎朝欠かさず王陵の夫人を訪れて食事を捧げ、その後にようやく自宅へ帰るという習慣を守り続けたという。

妻妾100人超、驚異的な長寿

張蒼の生涯で特筆すべきなのは、その驚異的な長寿である。彼は前漢の丞相を務めたあと、なんと104歳まで生きた。

これは、記録に残る中国史上の宰相の中で最長寿とされる。

その背景には、現代の常識では考えられないような独自の生活習慣があった。

丞相職を退いたあとも、彼の周囲には驚くほど多くの女性たちがいた。
史書には「妻妾以百數」と記されており、張蒼は少なくとも百人を超える妻妾を抱えていたとされる。
さらに、それぞれの妾に侍女を5人ずつ付けていたとされ、側近の女性の数は合計で500人以上にのぼったと考えられる。

しかし晩年、張蒼は老齢により歯がすべて抜け、食物を噛むことができなくなった。
そこで特異な方法で栄養を補うようになる。

なんと母乳を日常的に飲み、栄養を補ったのだ。

画像 : 張蒼の妻妾 イメージ 草の実堂作成(AI)

蒼免相後,口中無齒,食乳,女子為乳母。

意訳:(張蒼は丞相を退いた後、老いて歯がなくなり、乳を飲んで暮らし、若い女性たちが乳母となって仕えた)

引用『漢書』巻四十二「張周趙任申屠伝」より

さらに後世の説によれば、張蒼は乳を出せる侍女に多くの報酬を与えていたため、進んで乳を差し出す者があとを絶たなかったと伝えられている。

現代では異様に感じられるかもしれないが、当時の中国では母乳は滋養があり、老化を防ぐと信じられていた。

張蒼のこの生活様式は、常識を超えた長寿の裏側にある、ある種の“養生術”でもあったのだ。

文治の礎を築いた異色の丞相

画像 : 劉邦が関中に入る場面(趙伯駒 12世紀作)public domain

張蒼は、その長寿や奇抜な生活ばかりが語られがちだが、実際には漢王朝の制度整備に大きく貢献した文官でもあった。

なかでも重要なのは、律令と暦法の整備である。

張蒼は、秦で使用されていた「顓頊暦(せんぎょくれき)」をそのまま漢に継承し、五行説に照らして漢王朝を「水徳」と位置づけた。
これにより、暦制や服色などの国家の象徴体系が確立され、漢王朝の正統性に理論的な裏づけが与えられた。

さらに、彼は音律や度量衡の調整にも関わり、実務面でも国家の骨組みを整えたとされる。
『漢書』には、陰陽や律暦に関する著作を十八篇あらわしたとも記されている。
その業績は、当時の知識体系と政治運営を深く結びつけた証といえるだろう。

それでいて、張蒼は単なる学者ではなかった。
秦から漢へと時代が大きく変わるなか、二度の死の危機をくぐり抜け、最終的には漢の丞相にまで上りつめた。

もっとも、張蒼の長寿が母乳だけによるものだとは断言はできない。
彼の驚異的な生命力の裏には、知を積み重ね、冷静に時代を見極めてきた者ならではの自己管理があったと考えられる。

張蒼はまさに、古代中国が生んだ異色の名丞相である。

参考 :
『史記』巻九十六《張丞相列傳》第三十六
『漢書』巻四十二《張周趙任申屠傳》第十二
文 / 草の実堂編集部

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