斉藤由貴の魅力満載【ディレクター長岡和弘が語る】① 80-90年代の映像作品集が発売!
過去の映像作品をデジタルレストアした「斉藤由貴 40th Anniversary Blu-ray BOX〈 デジタルレストア版 〉」がリリース
斉藤由貴は2025年2月21日にデビュー40周年を迎える。これを記念し、ポニーキャニオンより過去にリリースされた映像作品11タイトルが最新技術でデジタルレストアされ『斉藤由貴 40th Anniversary Blu-ray BOX』として完全数量限定で発売される。デビュー曲「卒業」のミュージックビデオや、最新の本人コメントを収録した特典映像を含むBlu-ray3枚組はファン必携の豪華な内容だ。
今回は、デビュー当初から楽曲制作に携わり、このBlu-ray BOXも監修した元ポニーキャニオンのディレクター・長岡和弘に、斉藤由貴のボーカリストとしての歩みについてもじっくりと話を聞いた。まずは前編として「卒業」でのデビューから、1988年までのヒストリーをたどる。
どこか文学的で知的な雰囲気、「ミスマガジン」に選ばれた斉藤由貴
── 長岡さんと斉藤さんとの最初の接点はどのようなものでしたか?
長岡和弘(以下:長岡):1984年のあるとき、あるアーティストのジャケット撮影の合間に、フォトグラファーの野村誠一さんが “こんなコがいるんだよ” と『少年マガジン』を見せてくれました。そこにはミスマガジンに選ばれた斉藤さんの写真が掲載されていたんですね。野村さんいわく “声がいいから歌もいけそうなんだよ” とのこと。写真を見ると、どこか文学的で知的な雰囲気がある。“これは面白そうだな” と思いながら会社に戻りました。すると、当時の制作部長に呼び出されました。部長も野村さんと同じ『少年マガジン』を手にして “このコ、知ってるか?” と聞いてきたんです。
── 制作部長も長岡さんと同じタイミングで斉藤由貴という原石に注目していたのですね。
長岡:そうなんです。それで、すぐにアプローチしました。あとから聞いた話では、斉藤さんにはすでに9社ほどからオファーがあったそうで、中には分厚い企画書を出したところもあったようです。我々が提出したのはA4の紙2枚だけでしたが、最終的に契約が決まりました。
── 斉藤さんはそれだけ注目度の高いアイドル候補生だったのですね。そこから「卒業」が生まれるまでに、どんなストーリーがあったのですか?
長岡:まず、彼女の歌声にどんな楽曲が合うのかを探る必要がありました。そこで、斉藤さんが挙げた中島みゆきさんの「悪女」と松田聖子さんの「SWEET MEMORIES」。そしてこちらが用意した聖子さんの「夏の扉」、あみんの「待つわ」、原田知世さんの「時をかける少女」の5曲を歌ってもらいました。デビュー曲の作家陣は松本隆さん(作詞)と筒美京平さん(作曲)に決めていたので、お2人に斉藤さんが5曲を歌ったデモテープを渡したんです。その結果 “「待つわ」のような路線が合う” という方向性が決まります。さらに、筒美さんが “松本くんは詞先にすると「木綿のハンカチーフ」のような素晴らしい詞を書くよ” と助言してくださったので、詞先で進めることになりました。
「卒業」にまつわる逸話、筒美京平のアイデアとは?
── 地方と都会で離れ離れになる恋人たちの物語という構造は、「卒業」と「木綿のハンカチーフ」で共通していますね。
長岡:そうですね。松本さんと相談し、まずタイトルを決めることにしました。“最初で最後のものがいい” という話になり、彼女が高校3年生だったことから「卒業」に決まりました。すると松本さんが “彼女が卒業するのはどんな高校? 普通高校? 商業高校? ミッション系? 私立? 公立?” と細かく質問してくるんです。詞を書く際にイメージをより明確にしたいということでした。だから僕は “地方の県庁所在地にある公立の進学校です。正門へ続く坂道には桜並木があり、門をくぐると左手に藤棚が見える。3階建ての校舎があり、グラウンドに風が吹くと土埃が舞う。放課後にはブラスバンドの練習音が聞こえる── そんな風景を思い浮かべて書いてください” と伝えました。実は、これは僕が卒業した長崎県の高校の風景でした。
── それはリスナーが思い描く「卒業」の世界と重なるかもしれませんね。
長岡:詞が完成して、次に考えたのが、アレンジを誰に依頼するかでした。当時はシングルごとにアレンジャーを変えるのが一般的でしたが、それを避けたかったんです。最低でもアルバム7枚は同じ人にお願いしたいと考えていました。僕はディレクターとして石川ひとみさんも担当していたので、「まちぶせ」で一緒に仕事をした松任谷正隆さんの顔がまず浮かびました。
── 松任谷さんは「卒業」のカップリング曲「青春」の編曲のみを担当していますね。
長岡:そうですね。松任谷さんはユーミンの仕事で忙しそうで、長期的にお願いするのが難しかったんですよ。そんな頃、当時偶然耳にして “このアレンジ、いいな” と思った2曲の編曲者がどちらも武部聡志という人だったので “この人に頼みたい” と思って会いに行きました。そして “売れても売れなくても、最低7枚のアルバムを一緒に作る意思はありますか?” と尋ねたところ、武部さんは “喜んで。是非やりたいです” と即答してくれました。
── 武部聡志さんは松任谷正隆さんともつながりが強い方ですが、そのルートということではないのですね?
長岡:そうなんです。当時、武部さんの名前はキャニオン内ではほぼ知られていませんでした(笑)。筒美京平さんも “誰それ?” と不安がっていました。僕は “大丈夫です” と答えましたが。
──「卒業」にまつわる逸話として “当初、「♪ああ」という歌詞はなかった” というがありますが、それは本当ですか?
長岡:はい、そうなんです。「♪卒業式で泣かないと」の前に入っている「♪ああ」は、レコーディングの際の筒美さんのアイデアです。あれは入れて正解でしたね。
春になると自然と歌われる曲を作りたい
── 1985年、同時期にたまたま「卒業」というタイトルの曲がいくつもリリースされるなかで、2月21日に発売された斉藤由貴さんの「卒業」は、オリコンの週間シングルチャートで最高6位と堂々のヒットとなりました。この結果についてはどんな思いでしたか?
長岡:僕自身はシングルのヒットをそこまで意識していなかったんです。もともと、「なごり雪」のように、春になると自然と歌われる曲を作りたいと思っていましたから。だから一番嬉しかったのはね、ある晩、道端で酔っ払いが「♪ああ 卒業式で泣かないと」… “テカァ〜” とヨロヨロしながら歌っていたことです(笑)。もう嬉しくて嬉しくて。
── 曲が人々の生活の中に浸透したということですよね。その「卒業」に続くセカンドシングル「白い炎」は異なるイメージの曲でしたね。
長岡:通常はデビュー曲の反応を見て次を決めるものですが、「白い炎」は「卒業」を制作している段階で、すでにレコーディングが終わっていました。僕は最初からアルバムを作るつもりで、とにかく名曲を生み出そうと、さまざまな曲を録っていたんです。その中から、どれをシングルにするかを、マネージャーと宣伝マンと3人で決めました。
── デビュー1年目の曲のなかで「白い炎」だけが玉置浩二さんの作曲ですね。
長岡:僕は、来生たかおさんに石川ひとみさんの曲をお願いしたくて、コンタクトを取ったことがあるんです。来生さんが多忙で曲を作ってもらうことはできなかったんですが、来生さんが所属していたキティのマネージャーの方に “素晴らしいメロディメーカーがいるんですよ” と紹介されたのが安全地帯の玉置浩二さんでした。「ワインレッドの心」がヒットする前で、まだ玉置さんは他のアーティストに楽曲を提供したことがなかった頃ですね。何曲か書いてもらい、そのなかのひとつが「白い炎」でした。結局、石川さんの楽曲としてはリリースされることはなく、何年か後に斉藤さんに歌ってもらったんです。
森雪之丞さんと相談しながら歌詞を作った「悲しみよこんにちは」
── ちょっと待ってください。「白い炎」は『スケバン刑事』(フジテレビ系)のエンディング曲でしたが、もともと麻宮サキを意識して作ったわけではなかったんですか!作品のイメージにとても合っていましたが…。
長岡:あれは合っていましたよね。でも、それは偶然の産物でした。僕は基本的にタイアップのために曲を作ることはやらなかったですね。作った曲のストックがあって、“これを持っていってください。お好きに使ってください” というスタンスなんです。「悲しみよこんにちは」も同じでした。
──「悲しみよこんにちは」は超強力なダブルタイアップ曲で、アニメ『めぞん一刻』(フジテレビ系)の主題歌としても、資生堂の「モーニングフレッシュ」のCMソングとしても使われましたが、どちらにも見事にマッチしていましたよね。歌詞も『めぞん一刻』の物語と重なる部分がありましたが。
長岡:それも偶然でしょうね(笑)。僕は『めぞん一刻』の原作を読んだことがなかったですから。「悲しみよこんにちは」の歌詞は、森雪之丞さんと相談しながら作りました。タイトルはフランソワーズ・サガンの小説と同じですが、内容はまったく関係ありません。実はヒントになったのは、サイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」でした。あの曲の歌い出しにある「♪Hello darkness, my old friend」というフレーズを聞いたとき、「悲しみよこんにちは」というタイトルが浮かびました。ただし、暗い曲ではなく、ポジティブな歌詞にしようと考えました。
── となると、相米慎二監督の映画『雪の断章 -情熱-』の主題歌「情熱」が作品にハマっていたのも偶然の産物だったということなのですね?
長岡:そうですね。タイアップとは関係なく、ひたすら名曲を作ることに集中していましたから。
斉藤由貴の世界がすでに完成していた「初戀」
── そうでしたか…。話を戻します。「白い炎」に続くサードシングル「初戀」は、島崎藤村の詩のタイトルを彷彿させるものでした。旧字体の “戀” には “糸” “糸” “言” “心” という漢字で構成されていることから “いとしいとしと言う心” という解釈もあるようですね。そのあたりは、3曲目にして斉藤由貴の世界がすでに完成していた印象があります。
長岡:まさか松本さんがあの字を使うとは思いませんでした。斉藤さんは体育会系ではなく、文化系というイメージでしたからね。「卒業」「初戀」「情熱」と漢字2文字のタイトルで統一するのも松本さんのアイデアでした。
── 1985年11月には、今回のBlu-ray BOXに収録されている『微・少女』というイメージビデオがリリースされました。これも文芸路線といえるものでした。
長岡:マネージャーの市村朝一さんが映画好きで、映像作品を作りたいという思いが強かったんです。『微・少女』は、その後映画のプロデューサーになった小滝祥平さんが手がけた作品ですね。当時はミュージックビデオが一般的でなく、アイドルのビデオといえば水着姿でプールサイドを走るような映像が主流でした。しかし、『微・少女』はまったく違う方向性だったので、社内ではなかなか理解してもらえませんでした。
── デビュー1年目の斉藤さんは『AXIA』というアルバムをリリースします。当初からアルバム制作にも力を入れていた印象がありますが、そのコンセプトワークはどのように進めていたのですか?
長岡:実は “斉藤由貴のアルバム用に1曲お願いします” という頼み方をしたことはありません。谷山浩子さんやMAYUMIさんなど知り合いの作家たちに “出来がいいと思った曲があったら持ってきて” と声をかけていました。そうやって集まった曲のデモテープを大量に預かり、場合によっては10年近く寝かせることもありました。そんなやり方をしているディレクターは当時ほとんどいなかったと思います。アルバムから12インチシングルとしてカットされた「土曜日のタマネギ」も長らく預かっていた曲なんですよ。作曲者の亀井登志夫さんが “これ、俺が作ったんだっけ?” と言っていたぐらいで(笑)
1986年、“地獄の忙しさ”のなかでの名曲作り
── 1986年は斉藤さんがNHKの連続テレビ小説『はね駒』に主演するなど、超多忙な年でしたね。
長岡:まさに地獄のような忙しさでしたね(笑)。当初は市ヶ谷の一口坂スタジオでレコーディングしていましたが、途中でNHKから4時間だけ呼ばれて、また戻ってきて再開する、そんなスケジュールでしたから。そこで、マネージャーに頼んで、河口湖のスタジオに籠もってレコーディングしましたが、それでも合間に仕事がどんどん入って来ましたから。
──『はね駒』の撮影中にリリースされたセカンドアルバム『ガラスの鼓動』では、斉藤さんが作詞家デビューを果たしました。それも3曲と、クリエイターとしての才能がいきなり開花しましたね。
長岡:デビューした頃、あるインタビューで “斉藤さんは歌と演技、自分の中ではどちらが好きですか?” と聞かれて、彼女がこう答えたんです。“歌手の仕事はショートケーキみたいなイメージですかね。演技の仕事はおにぎりみたいな感じがします。私はどっちも好きですね。” それを聞いて、“このコは絶対に詞が書ける” と確信し、ずっと “作詞しませんか?” とプッシュしていました。
── 斉藤さんの場合は、詞を先に作るスタイルだったのですか?
長岡:いえ、まず “詞を書けそうなのある?” と何曲かのデモテープを聴かせました。すると彼女が “私、これなら書けそう” と自分で選んだんです。3日後ぐらいに “こんなんでどうですか?” と詞を持ってきました。それが「お引越し・忘れもの」です。“これも書ける?” と別の曲も渡して、「月野原」「千の風音」を書いてもらいました。出来上がった詞はほとんど手直しが必要なかったですね。“この1行はこうした方がいいかな?” と僕が提案したことはありましたが、97%以上は斉藤さんが書いた詞です。
── 同年のアルバム『チャイム』で斉藤さんの作詞曲は4曲に増え、なかでも「予感」は名曲としてファンの人気が高いですね。
長岡:『チャイム』はじっくりレコーディングできるようにハワイのスタジオで撮りました。でも、「予感」はそれ以前、かなり早い段階でレコーディングしていて、『ガラスの鼓動』の時にはすでに収録曲の候補に挙がっていたように思います。
── 1986年は「青空のかけら」で初の1位を獲得し、続く「MAY」は映画『恋する女たち』の主題歌となるなど、話題が続きましたね。
長岡:でも、「MAY」は普通ならシングルにはしないタイプの曲ですよね。僕はいかにもヒットを狙った曲ではなく、純粋にメロディと歌詞で気に入ってもらえる曲を出したくて、いつも戦っていました。「MAY」は武部さんもすごくこだわったんです。“これがいい。これをシングルにしないと僕はやめる” とまで言っていましたからね。
── 1986年にはさらに市川準監督による『漂流姫』という映像作品も発表されています。これもかなりの実験作でしたね。
長岡:そうですね。セリフが一言しかないという異色の作品でした。市川さんはもともとCM監督で、斉藤さんが出ていたカセットテープ「AXIA」のCMも手掛けていました。映画を撮りたいと考えていた市川さんに、マネージャーの市村さんが “じゃあ映画を撮ろうよ” と焚きつけたんです。そこから “まずはこういう形で映像作品を作ろう” ということになり、『漂流姫』が生まれました。
1987年、歌手活動にプラスとなった映画でのキャリア
── 1987年最初のシングル「砂の城」は森雪之丞さんの歌詞ですが、これもどこか文学的な内容ですね。
長岡:あれは、僕が自分の手で砂をすくったときに、指の間からこぼれ落ちていく様子を見てイメージが湧いたんです。それで、森雪之丞さんに “こんなの書けない?” と依頼しました。
── 1987年には飯島真理さん、原由子さんといった新たな作家との出会いもあり、コツコツと名曲作りが続いていきましたね。『風夢』というアルバムに入った飯島さん作曲の「眠り姫」は近年、再評価の対象になっています。
長岡:飯島さんには『Midori』という名盤を聴いて曲作りを頼みに行きました。何曲か書いてくれて、斉藤さんが “これが好き、私が詞を書きます” と言って生まれたのが「眠り姫」です。原由子さんにはご自宅に伺って曲作りをお願いしました。斉藤さんが出演していたニッポン放送のラジオ番組のスタッフの方が、サザンオールスターズとつながりがあったんですね。そのルートを頼りました。原さんが作ってくれたシングルの「さよなら」だけでなく、「少女時代」という曲も斉藤さんにぴったり合っていました。個人的にも大好きな曲です。
── その頃の斉藤さんは、年に2本ペースで映画に主演し、テレビドラマにも頻繁に出演していました。演技者として成長期にあったと思いますが、それは歌にも影響していましたか?
長岡:それはありましたね。『風夢』の頃から変化が出てきました。当初の彼女はどちらかというと、声を張り上げて歌っていたんです。でも、次第に吐息を漏らすように歌うスタイルが増えてきた。まるで、息がまとわりつくような感じですね。僕はその表現に説得力を感じて、すごく魅力的だと思いました。
日本のエンタテインメント界の第一線でキャリアを重ねた斉藤由貴は、表現者として成長することで、唯一無二の存在へと進化していくのである。後編では、来生たかおとのデュエット曲「ORACIÓN -祈り-」の誕生秘話、そして最大のヒット曲「夢の中へ」がどのようにして生まれたのか、さらに90年代以降の活動や近年の音楽制作について、長岡が語る。
Information
斉藤由貴「斉藤由貴40th Anniversary Blu-ray-BOX(デジタルレストア版)」
▶︎ 収録内容
・DISC1「MUSIC & STORIES」語る・演じる斉藤由貴の魅力
・DISC2「CONCERTS」歌う・踊る斉藤由貴の魅力
・DISC3「VARIETY」飾らない素顔の斉藤由貴の魅力
▶︎ 特典映像を加えたBlu-ray3枚組
▶︎ 発売日:2025年2月21日
▶︎ 価格:44,000円(消費税込)