翻訳家が読み解く海外文学の名作 ~ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』
新しい小説の文体で、強く生きる女性を描いたヴァージニア・ウルフ
海外文学は、読み手によって読まれ方や印象が変わるのも一つの魅力。時代や文化など、その物語が描かれた背景を知るとさらに深みが増してきます。
今回は、海外文学の名作といわれる『灯台へ』(ヴァージニア・ウルフ著)を、新潮文庫版の訳者である鴻巣友季子さんと一緒に読み解いてみましょう。
時代を超えて、強く生きる女性たちが描かれているのも見どころです。
海外文学に挑戦してみたいけれど、なかなか手を出せていない方、もっと理解を深めたい方にもおすすめですよ。
鴻巣友季子(こうのす・ゆきこ)
1963年東京都生まれ。翻訳家、文芸評論家。主な訳書にマーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』(全5巻)、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』(新潮文庫)、マーガレット・アトウッド『誓願』『老いぼれを燃やせ』、J・M・クッツェー『恥辱』(早川書房)、アマンダ・ゴーマン『わたしたちの登る丘』『わたしたちの担うもの』(文藝春秋)など。主な著書に、『謎とき「風と共に去りぬ」』『文学は予言する』(新潮選書)、『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)、『翻訳、一期一会』(左右社)、『マーガレット・ミッチェル 風と共に去りぬ 世紀の大ベストセラーの誤解をとく』(NHK出版)など。共著に『みんなで読む源氏物語』(ハヤカワ新書)など。
※本記事は、NHKテキスト「ラジオ英会話」の連載(2021年4月号~2025年3月号)を加筆修正してまとめた1冊、『ギンガムチェックと塩漬けライム』(鴻巣友季子著・NHK出版)より、一部抜粋してお届けします。
『灯台へ』ヴァージニア・ウルフ
ヴァージニア・ウルフ(1882–1941)
英国ロンドン生まれ。プルーストやジョイスと並び、内面描出や意識の流れを重視した心理主義を追究し、モダニズム文学の旗手として評価される。フェミニズム文学の先駆者とされる。小説に『ダロウェイ夫人』『オーランドー』『波』など。
小説の語りを一変させた名作
ヴァージニア・ウルフは旧来の小説の技法に別れを告げ、新しい視点のあり方をとりいれた作家であり、その代表作『灯台へ』(1927)は斬新な文体と繊細な人物描写が特徴とされています。文体については後ほどお話しますが、ウルフが前世代の男性作家たちに放ったこんなコメントが残っています。
「いまの時代、彼らのもとに行って、『小説はいかに書くべきか』『どうすればリアルな作中人物を描きだせるか』と教えを乞うのは、靴職人のもとに行って腕時計の作り方を教わるようなものです」
なかなか辛辣ですね! 『灯台へ』は三部に分かれていますが、作中で実際に起きるできごとをまとめると、非常にシンプルなものになります。第一部「窓」では、スコットランド沖スカイ島の別荘を舞台に、そこに暮らすラムジー一家の夏の一日、正確には昼すぎから夜までが描かれます。
その間には、ラムジー夫人が駆け出しの学者タンズリーと町へ買い物に行ったり、若い画家の卵であるリリー・ブリスコウと四十代独身の植物学者ウィリアム・バンクスの友愛関係がスケッチされたり、リリーとラムジー夫人の親密なひとときが写しとられたり、素朴な青年ポール・レイリーと男性に人気のミンタ・ドイルが婚約したり……夜にはラムジー夫人の指揮のもとで晩餐会がひらかれて、登場人物が一堂に会します。
一家を切り盛りするラムジー夫人は古風な「家庭の天使」と目されますが、いま読むと、じつはいちばんモダンな存在かもしれません(これについても後述します)。
時間がほどけてしまう第二部「時はゆく」の美しさは、どう説明したらいいでしょう。「名著のなかの名文」と言えます。人びとの暮らしの移ろいを、まるで風が吹き抜けざまに語るような文体なのです。そして、第一部から十年後の第三部。その間には、第一次世界大戦をはさんでいますが、ある日の朝から昼頃までのラムジー家のできごとが語られます。
(中略)
新しい文体が生み出した語り
十九世紀の英文学に典型的な人物の描き方というと、日記や回想録をのぞけば、三人称文体で語り手がキャラクターの言動や気持ちを伝える形です。見た目や服装から、その人の属する階級をほのめかし、しゃべり方などから知的な階層を物語ることもあります。
こういう語り手は基本的に登場人物の心のなかを自由に覗くことができます(その特権を使わない作者もいます)。こんなふうに書きます。
「リチャードは窓辺に寄り、雨脚が強まったのを見て、今日はドレイク卿の園遊会は取りやめだろうと思い、がっかりした。しかし一家の可憐でたおやかなジェインのことを思うと諦めきれず、馬車の用意を怠らないよう馬丁に注意させた」
「がっかり」とか「諦めきれず」はリチャードの心情ですが、「可憐でたおやか」という表現にも彼の主観が滲みでているかもしれません。
一方、ウルフは外側から人物を描写したり気持ちを説明したりするだけでなく、リチャードの内面に入りこんで彼の目と声で語りだします。こんな感じです。
「リチャードは窓辺にもたれ、雨脚が強くなっているのに目を留めた。このぶんだとドレイク卿の園遊会は中止になりかねないな。ジェイン……。可憐でたおやかなあの人。やはり馬車の用意は怠らないようにと、馬丁に注意しておこう」
名作で描かれる、強く生きる女性たち
夫人を取り巻く人間関係
ラムジー夫人はなにしろ魅力的な女性です。八人の子を産んで五十代になりますが、絶世の美女らしく、夫のラムジー氏はつねに「な、なんて美しいんだ」と見とれ、なんなら卒倒しそうになっています。
夫人にめろめろなのは夫だけではありません。ラムジーの弟子筋の若手研究者タンズリーは男尊女卑の気があるのですが、何十歳も年上の夫人にときめいて平伏せんばかりです。また、妻を亡くして独身の学者バンクスも、密かに夫人を崇拝しています。彼女と電話をしながらそのむこうに、鼻筋のとおった碧眼の神々しいギリシア女性を思い浮かべていたり。夫人にとってもバンクスは別格の男友だちであり、とはいえ、聡明な彼に自分の弱い部分も見抜かれている自覚もあるので、ちょっと怖い存在でもあります。どうでしょう、大人の男女の微妙な親愛関係が繊細にとらえられていますね。今どきのドラマやアニメにもできそうです。
しかもこの古風に見える夫人は家庭の天使に甘んじず、「わたしって何者?」と悩み、子ども全員の手が離れたら、衛生的な牛乳を各戸に届けるためのビジネスや病院事業も手がけたいという野心すらあります。
結婚も子育てもして、恋愛感覚も忘れず、趣味も豊かで、キャリアも充実!という今どきの女性誌に出てきそうな女性ではないでしょうか。
(抜粋ここまで)
いかがでしたか。
知っているつもりだったあの名作にも、またひとつ新鮮な一面が見えたのではないでしょうか。
『ギンガムチェックと塩漬けライム』では『灯台へ』のほか、『あしながおじさん』『嵐が丘』『ライ麦畑でつかまえて』『1984年』などなど、数々の名作を鴻巣友季子さんが読み解きます。ぜひ、名著との旅を始めてみませんか。