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田沼意次ゆかりの地・静岡県牧之原市相良で、幕府の財政を好転させた名君の足跡をたどる。大河ドラマ『べらぼう』ゆかりの地を歩く【其の六】

さんたつ

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ひと昔前の教科書では、田沼意次(たぬまおきつぐ)は“賄賂政治”という言葉と対になって記述されていた。だが大河ドラマ『べらぼう』では、近年見直されてきた改革者としての田沼像に寄せていると思われる。しかも演じているのが渡辺謙なので、切れ者感が半端ない。田沼意次は16歳の時、のちに九代将軍となる徳川家重の小姓となり、父の遺跡600石を継いでいる。家重が将軍職に就くと、意次も江戸城本丸に仕えるようになった。それとともに順次加増され、宝暦8年(1758)には1万石を拝領、大名に取り立てられる。家重が逝去した後も、十代将軍徳川家治から厚く信頼され、出世街道を歩み続けている。そして明和4年(1767)、側近としては最高職の側用人へと出世を遂げた。加えて2万石が加増され相良(さがら)城主となり、さらに安永元年(1772)になると、遠州相良藩5万7000石を拝領し藩主となった。そして幕政を担う老中にまで昇進したのだ。わずか600石の小身旗本が5万7000石の大名になり、しかも側用人から老中になった、初めての人物だ。そんな意次の足跡が残る相良を歩いてみた。

【今回のコース】改革者・田沼意次の足跡が残る静岡県相良を歩く

今回のコースは以下の通り。

東海道本線静岡駅からバス→(60分)→相良本通バス停→(10分)→相良城本丸跡(牧之原市史料館)→(5分)→仙台河岸→(2分)→田沼街道起点→(10分)→田沼意次のご当地マンホール→(3分)→扇子家→(3分)→浄心寺→(10分)→大澤寺→(2分)→百花稲荷→(45分)→般若寺→(50分)→相良サンビーチ→(15分)→根上がりの松→(15分)→陣代山→(10分)→相良港→(30分)→平田寺→(30分)→相良本通バス停→(60分)→東海道本線静岡駅

意次の事績がわかる史料館に大河ドラマ館が併設

『牧之原市史料館』の前に建立された相良城跡の石碑と田沼意次の銅像。

今回は『べらぼう』のメイン舞台である江戸市中(東京)から少し足を延ばし、田沼意次が治めた遠州相良藩(静岡県牧之原市相良)を訪ねた。相良を含む牧之原は、海岸線から続く丘陵地帯に茶畑が広がり、とてものどかな風景が目を楽しませてくれる。

相良の町へのアクセスは東海道本線の静岡駅、島田駅、金谷駅のいずれかでバスに乗り換え、1時間前後の乗車で「相良本通」バス停に到着する。ここから最初に向かいたいのが、牧之原市役所相良庁舎に隣接する『牧之原市史料館』だ。これは相良城の本丸跡に立っていて、史料館には田沼意次や相良城に関する史料、牧之原市の文化財などが展示されている。さらに現在(~2026年1月12日)は『大河ドラマべらぼう館』も併設されているので、まずはここで相良に関する情報を入手しておきたい。

相良城本丸跡には『牧之原市史料館』が立っている。入館料220円(18歳未満110円)。9〜16時、月休(祝の場合は翌休)。☏0548-53-2625。
1階は田沼意次や相良城、町に関する史料や文化財を展示。
現在、2階は大河ドラマ館が併設されている。こちらは入館無料。

次に史料館から萩間川方面に向かい、大きな通りにぶつかる手前の小道を左に入るとすぐ、小さな橋が見える。その下を流れる水路が、かつて仙台河岸と呼ばれた船着場だった場所だ。相良城を築城する際、仙台藩主の伊達重村から寄進された石材で石垣を築いたことからこの名がつけられた。現在も片側に当時の石垣が残されている。

史料館からすぐの場所に残る仙田河岸の石垣。

そこから萩間川に沿って港橋方向へ向かい、橋を渡らず右に向かうとすぐ、大和神社(おおわじんじゃ)が見える。その角に田沼意次が整備したため「田沼街道」と呼ばれる道の起点碑がある。この道は東海道の藤枝宿と相良を結んだ街道で、相良藩の発展に大きく寄与していた。

港橋の上から望む仙台河岸とつながっている萩間川。
萩間川にかかる湊橋(現・港橋)が起点だった相良と藤枝を結ぶ田沼街道。

町の人に愛されていることが足元からも伝わる

再びバス通りの県道69号に戻り、相良本通バス停方面へ。しばらく進むと左手に静岡銀行があり、その先の交差点を越えた左手歩道に、田沼意次の姿が真ん中に描かれたマンホールがある。意次にゆかりのある大江八幡宮の御船神事や陣太鼓、さらに牧之原の大茶園、牧之原市の花である紫陽花が、色鮮やかに描かれ、通行人の目を楽しませている。

相良の目抜通りである県道69号をたどる。
静岡銀行の近くに設置されている田沼意次のご当地マンホール。

暑い季節の散歩は体力勝負の面があるのは否めない。そんな散歩の疲れを癒やしてくれるのが、相良で100年以上の歴史を誇る和洋菓子の名店『扇子家(おうぎや)』だ。昔ながらの雰囲気に包まれた店内に入ると、さまざまな和洋菓子や焼き菓子に目を引かれる。その中で、田沼意次散歩を楽しんでいる人におすすめなのが「陣太鼓最中」だ。

現在、般若寺に収められている意次ゆかりの陣太鼓を模した名菓。良質な大納言小豆を高級な砂糖で炊いた餡は、口に含んだ瞬間に小豆の旨味が広がり、それでいてくどくないしっとりとした後味がくせになる。1個180円と値段も手頃なので、散歩途中のエネルギー補給だけでなく、土産にも最適。

静岡銀行がある交差点から少し海方面に歩いた場所にある『扇子家』。8時30分〜18時30分、水・第3火休。☎0548-52-0218。
絶妙で上品な甘さがクセになる「陣太鼓最中」。皮の香ばしさも特徴。

田沼家と縁の深い古刹を巡り、偉大な功績の一端に触れる

田沼政治と聞くと、いまだに賄賂政治の親玉と、眉をしかめる人も少なくない。しかし最近の研究では、株仲間の奨励や外国貿易の拡大、さらには貨幣の統一など、それまでの米一辺倒だった幕府の政策を改めた重商政策を行い、幕府の財政を回復させた功労者の面に脚光が当たるようになってきた。

相良藩主になると、港や街道といったインフラの整備、製塩や養蚕などの殖産興業などを盛んに行い、領内の産業の発展や流通の活性化に尽力。領内の人口は増加し、人々の暮らしも向上したことから、今も名君として高く評価されているのだ。安永9年(1780)に相良城が完成し、見分のためにお国入りをした際には、領民たちの熱烈な歓迎を受けたと伝えられている。

田沼家の祈願所として雨乞いなども行われた浄心寺。☎0548-52-4415。
地元の画家・寺田洞仙(どうせん)によって寛政元年(1789)に作られた山門の龍。

そんな田沼家が祈祷所としていたのが、『扇子家』からすぐの場所にある浄心寺(じょうしんじ)だ。ここでは雨乞いの祈祷が行われていて、田沼家が寄進した御曼荼羅(非公開)が寺宝となっている。寛永元年(1624)、京都伏見の出で、相良港で廻船業を営んでいた西尾源兵衛が先祖の菩提を弔うため出家し、開創。山門の龍は寛政元年(1789)の作。

町中には古い家屋や商店も見ることができる。

浄心寺山門前の道を少し南西に向かうと、牧之原市を代表する寺院建築の本堂を有する大澤寺(だいたくじ)がある。寛政3年(1791)に完成した本堂は、その3年前に破壊撤去された相良城の木材が、床下の材に再利用して建てられている。

格調ある寺院の雰囲気を漂わせる大澤寺(☎0548-52-0657)の山門。

大澤寺は安永3年(1774)、火災により焼失し、再建のための整地が終わった時と、相良城破却のタイミングが合ったのがその理由と、住職の今井一光さんが教えてくれた。当時、老中となった松平定信は相良城の破却材を留め置くことを禁じたが、本堂の床下に使うことに関しては、お目こぼしになったのでは、と伝えられている。本堂の脇に回り込めば、梁や柱に使われた痕跡のある床下の構造物を見学することができる。

本堂の床下に残されている相良城の建材。本堂の脇に回れば見ることができる。

そして大澤寺のすぐ近くにある「百花(ひゃっか)稲荷」には、相良城に使われていた石垣が保存されている。表面には城普請を担った家臣の名がうっすら残されている。

大澤寺のすぐ近くにある百花稲荷に残る相良城石垣(左の柵の中)。

意次ゆかりの品を見ることができるのが、町の中心部から少し離れた丘陵地に立つ「般若寺(はんにゃじ)」だ。この寺には明和4年(1767)、側用人に就任し、相良に築城を命ぜられた際に意次が、江戸のお太鼓師に作らせた陣太鼓が納められている。その音色は重厚で素晴らしく、海賊襲来時にこの陣太鼓を打ち鳴らし撃退した、と伝わる。大正時代、太鼓の中に田沼の金塊が隠されていると信じた盗賊が、張り皮を切り裂いた。

もうひとつが本堂の杉戸だ。夏の間は外されているので見ることができなかったが、相良城の御殿大書院にあった襖戸で、徳川将軍家に重用された狩野派の筆による虎と竹の絵が描かれている。

江戸時代末期に建てられた本堂が自然に溶け込んでいる般若寺。☎0548-52-1602。
盗賊は金塊が隠されていると信じて陣太鼓の皮を破いてみたが、何も出てこなかった。

風光明媚な海や山の風景も相良ならではの魅力

牧之原市は駿河湾に面した、約15kmもの海岸線を有するマリンスポーツの聖地。夏の海水浴やキャンプだけでなく、遠浅の地形によるビーチブレイクポイントが知られていて、季節を問わず全国のサーフィンやボディボード愛好家たちが集まってくる。相良の町中に戻ったら、まずはそんな海岸線まで足を延ばしたい。江戸市中では見ることができない、雄大な風景に心が洗われる。

美しい砂浜が続く「さがらサンビーチ」。

海岸線から少し内陸に入った場所に、根が地面から浮き上がっている珍しい松の木がある。「根上りマツ」と呼ばれていて、このような姿になった理由は諸説ある。その中で有力なのが、宝永4年(1707)の大地震で発生した津波により、根本の土が洗い流されてしまい、このような姿になったというもの。静岡県の天然記念物に指定されている。

推定樹齢は250年とされている根上りのマツ。木の周囲を回ることができる。

現在の相良中心部は萩間川が運んだ土砂と、海流により堆積した砂礫によって形成されていたため、水害が多かったうえに地盤が弱く、江戸時代初期まではほとんど人が住んでいなかった。それが野生動物には格好の環境であったため、鷹狩りを好んだ徳川家康が「相良御殿」を建て、それを世話する人々の集落があった程度であった。

宝永3年(1706)、本多忠晴が相良藩を成立し町並みを整えたが、本格的な町が形成されたのは田沼時代になってから。海岸線に沿って連なっていた丘陵を利用して地盤を改良、町を大きく発展させた。その丘陵の一部が今も残されている。「陣代山」と呼ばれ、標高は約15m。相良港に海賊がやってきた際、この山に陣を築いて太鼓を打ち鳴らし、追い払ったという言い伝えがある。現在は防災公園としての機能も果たしている。

高い建物がないので、標高15mの陣代山からでも町を一望できる。

最後に遠州地方でもっとも古い歴史を持つ古刹を訪ねる

萩間川の河口に隣接する相良港には、田沼意次にまつわるさまざまな壁画が描かれている。こうした様子を見ても、地元では今も名君として親しまれていることがわかる。

相良港の壁面には田沼意次関連のさまざまな絵が描かれている。

最後に訪れたのは、弘安6年(1283)に開創した、遠州地方でもっとも古い禅寺(臨済宗)のひとつ、平田寺(へいでんじ)。相良地域の有力寺院として今川氏、武田氏、徳川氏など数々の武将から尊崇された。田沼意次が相良藩主に就任すると、田沼家の御位牌を祀る香華寺として厚い庇護を受けた。現在の本堂(市指定文化財)は、天明6年(1786)に再建されたもので、田沼家専用の玄関が備えられている。

畑と丘陵の緑が目に鮮やかな道をたどり平田寺(☎0548-52-0492)へ。
本堂手前にある鐘楼は天保2年(1831)建立。
天明6年(1786)建立の本堂。正面左手の玄関は田沼家専用と言われている。

次回は再び江戸市中に戻り、主人公の蔦屋重三郎ゆかりの地を訪れたいと思う。

取材・文・撮影=野田伊豆守

野田伊豆守(のだいずのかみ)
フリーライター・編集者
1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など。最新刊は『蒸気機関車大図鑑』(小学館)。

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