主人公のモデルは、吉本興業の創業者・吉本せい『花のれん』 著 : 山崎豊子
『花のれん』 著 : 山崎豊子
表題の花のれんは商家の魂であり演芸の象徴でもある。
本書のヒロインである河島多加が営む寄席に飾った、吉本の家紋である花菱紋を描いたのれん。それを表現する一節は特に印象的だ。「買い取った金沢亭を花菱亭と改め、表木戸から客席へと通る間口六尺の入口には、藍地に四季の花々を朧染にし、中央に匂うような白さで『花菱亭』と染め抜いた花のれんを掲げた。多加の女商人としての、厳しい商いごころを籠めたのれんであった。」
多加のモデルは、吉本興業を創業した吉本せい。
呉服問屋の二代目に嫁いだ多加だったが、夫は絵にかいたような放蕩息子。困った多加は夫が飽きずに通う寄席を生業にすれば仕事にも身が入るのではとの祈りを込めて小さな寄席小屋を買取り、寄席事業を始める。この令和の時代においても世間を賑わせる吉本興業の祖業がここから始まるとは知らなかった。そんなきっかけで始めた商売ではあるが、先述の放蕩夫が急死することで状況は一変する。残されたのは多額の借金と七歳になったばかりの息子。覚悟の表れである白い喪服を纏い、霊柩車の後ろをゆっくりと歩きながら夫を見送る多加。そこから彼女は取りつかれたように商いに邁進していく。「女にはいろんな一生の賭け方がある。夫に賭ける女、子供に賭ける女、情夫に賭ける女。多加は、商いに賭けた。」
彼女の覚悟の一端が垣間見えるシーンがある。河島家に長く仕える女中お梅との帰り道。「暗い人気のない問屋筋を、四、五丁歩いて行った時、突然多加が立ち止まった。『へぇ、毎度ご贔屓に有難うさんで―』びっくりするような大きな声で、二つ折れになって道の真ン中で挨拶した。よく眼を凝らすと、一間ほど先に郵便ポストが立っている。『なんやポストかいな、わていうたら、どないかしてるわ―』多加は体を仰反らして暗い道の真ン中で笑いこけた。お梅は一緒になって笑えなかった。道端のポストの黒い影までが、客の姿に見える多加の商い心が、蒸し暑い夜気の中で、お梅の背筋を寒くするほど恐ろしかった。」
愛息子と過ごす時間ですら明日からの商売に思いを巡らし、大阪商人顔負けの度胸と智謀により少しずつ商売は上向いていく。当初は落語の大御所を招くことができず、色物とよばれる落語以外の芸を混ぜ込みながらなんとか興行を続けていくが、そんな色物のなかから多様な芸が確立されていき、やがてそれは漫才へと昇華していく。落語から漫才へ、そしてその流れは関西演芸界を席巻し、やがては関東大震災を発端にして、演芸の場は大阪から東京へと、苦心しながらもその輪は広がっていく。
著者である山崎豊子が大阪船場の出身ということもあり、当時の商人文化や気質までもまるでその場にいるかのように生々しく感じることができる。彼女の代名詞である小説でありながらノンフィクションのような性質を合わせ持つその作品性は、本作を通じて彼女の代表作である「白い巨塔」「沈まぬ太陽」へとつながっていく。
著者:プロフィール
山崎豊子
(1924-2013)大阪市生れ。京都女子大学国文科卒業。毎日新聞大阪本社学芸部に勤務。その傍ら小説を書き始め、1957(昭和32)年に『暖簾』を刊行。翌年、『花のれん』により直木賞を受賞。新聞社を退社して作家生活に入る。『白い巨塔』『不毛地帯』『二つの祖国』『大地の子』『沈まぬ太陽』など著作はすべてベストセラーとなる。1991(平成3)年、菊池寛賞受賞。2009年『運命の人』を刊行。同書は毎日出版文化賞特別賞受賞。大作『約束の海』を遺作として 2013(平成 25)年に逝去。
花のれん
[著者]山崎豊子
[出版社]新潮文庫
[価格]¥693(税込)
この記事の著者について
[テキスト/佐藤弘庸]
1987年札幌生まれ。2009年日本出版販売への就職を機に上京。入社後は紀伊國屋書店を担当。
2011年にリブロプラス出向。2016年より日販グループ書店の営業担当マネージャー。
2022年より文喫事業チームマネージャー兼 文喫福岡天神店 店長。