谷川俊太郎という詩人が、もしいなかったら──若松英輔さんと読む、『谷川俊太郎詩集』【NHK100分de名著】
すべての人のなかにいる「眠れる詩人」を揺り動かす──『谷川俊太郎詩集』を、若松英輔さんが解説
2025年5月のNHK『100分de名著』では、批評家・随筆家・詩人の若松英輔さんが『谷川俊太郎詩集』を紹介します。
『二十億光年の孤独』での鮮烈なデビュー以来、70年以上にわたって多彩な作品を紡いだ詩人・谷川俊太郎。分かりやすい言葉で綴られながら哲学的でもある作品世界は、戦後日本の「詩の概念」を一変させたといわれています。
詩人だけが詩を生むのではなく、詩を生んだ人が詩人である──谷川俊太郎との出会いによって、そんな思いを強くした若松さん。番組テキストでは、若松さんとともに詩とは何か、言葉とは何かを考えながら、谷川俊太郎の詩の世界に入っていきます。
今回はテキストから、そのイントロダクションを公開します。
「わたし」に出会う旅
谷川俊太郎という詩人が、もしいなかったら──。そんなことをときどき考えます。彼がいなかったら、私たちと詩との関係は、ずいぶん違うものになっていたのではないかと思うからです。
彼以前の時代では、詩は詩人が書くものだと思われていました。詩は、世に詩人と称される特別な人が書くもので、市井の人が書いても、それは詩のようなもので、詩ではないというような雰囲気が、どこかにあったように感じられます。谷川俊太郎の出現は、この常識、詩をめぐる世界観を根底から変えました。
詩人だけが詩を生むのではありません。詩を生んだ人が詩人なのです。すべての人のなかに眠れる詩人がいる。谷川俊太郎の詩を読んでいるとそんな確信さえ湧いてきます。
詩を書くのに特別な経験は必要ない。日常に流れる詩情を感じ、それを自分が生きた言葉で書き記せばよい。詩は作るというより、生まれてくるものであることを、彼の作品は教えてくれます。
二〇二四年十一月に谷川さんは亡くなりました。そのとき、多くの人が、さまざまなかたちで谷川さんへのおもいを述べていました。その言葉が、哀悼の意を表現するにとどまらず、何らかの感謝の意とつながっていたのが印象的でした。
訃報を知って、私が真っ先に思い浮かべたのも深謝の気持ちでした。谷川さんの詩と出会っていなければ、詩を書くようにはなっておらず、詩に出会うことがなければ、私の人生はまったく異なるものになっていたと強く感じているからです。私は今も、詩から生きるちからを得て、毎日を生きているように思います。
じつは、今回の番組を谷川さんは、とても楽しみにしてくださっていました。テレビ出演もご一緒できたら、と番組関係者と話してもいたのです。それはかなわなくなりましたが、ひと月にわたって皆さんと、谷川俊太郎の世界を経験し、深まっていくであろう認識を彼への贈り物にしたいと思います。
ある詩人を読んでいると、意中の作品と呼びたくなるものが、作の群れから浮上してきます。その詩によって詩人といっそう深くつながる、そんな一篇です。それはいわゆる代表作とは限りません。そうである必要もまた、ないのです。私たちの心に残る言葉も、金言、名言の場合もありますが、素朴な小さな言葉であることが少なくないのに似ています。私にとって谷川俊太郎を象徴する作品は、今回の番組で取り上げる『自選 谷川俊太郎詩集』には収められていない「ことば」と題するものです。
ことば
問われて答えたのではなかった
そのことばは涙のように
私からこぼれた
辞書から択んだのではなかった
そのことばは笑いのように
私からはじけた
知らせるためではなかった
呼ぶためではなかった
歌うためでもなかった
ほんとうにこの私だったろうか
それをあなたに云ったのは
あの秋の道で
思いがけなく ただ一度
もうとりかえすすべもなく
(『谷川俊太郎詩選集1』集英社文庫、二〇〇五)
この詩には、言葉と谷川さんの関係がとてもよく表れています。
〈そのことばは涙のように/私からこぼれた〉、そして〈辞書から択んだのではなかった〉。それはときに誰も気が付かないところで世に生まれ出るものであり、知識に類するものとは性質を異にする。それは頭から出るのではなく、心というより魂からほとばしり出るようなもの、それが自分にとっての「ことば」の本当の姿だというのです。
さらに谷川さんは、〈ほんとうにこの私だったろうか/それをあなたに云ったのは/あの秋の道で/思いがけなく ただ一度/もうとりかえすすべもなく〉とも書いています。自分にとって言葉は、「私の言葉」として現れるだけではない。「私」を超えた場所からやってくることも珍しくない、というのです。
詩とは何かを考える。それは言葉とは何かを問うことにもなります。しかし、それは同時に真の意味における「わたし」、日ごろ「私」だと感じている存在に留まらない、「わたし」と呼びたくなる何かと出会い直すことでもあるのです。
この詩への思いを語り、谷川さんの前で朗読したことがあります。あのときの少しはにかんだ、しかし、とても喜んでいた姿は今も鮮明によみがえってきます。
さあ、谷川俊太郎の詩を明かりにしながら、「わたし」に出会う旅に出かけましょう。
「100分de名著」テキストでは、「詩人の誕生」「「生活」と「人生」のはざまで」「ひらがなの響き、ことばの不思議」「こころとからだにひそむ宇宙」という全4回のテーマで本書を読み解き、さらにもう一冊の名著として岩崎航『点滴ポール 生き抜くという旗印』を紹介しています。
講師
若松英輔(わかまつ・えいすけ)
批評家、随筆家、詩人
1968年、新潟県生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。2007年「越知保夫とその時代──求道の文学」にて第十四回三田文学新人賞評論部門当選、2016年『叡智の詩学──小林秀雄と井筒俊彦』(慶應義塾大学出版会)にて第二回西脇順三郎学術賞受賞、2018年『詩集 見えない涙』(亜紀書房)にて第三十三回詩歌文学館賞詩部門受賞、『小林秀雄──美しい花』(文藝春秋)にて第十六回角川財団学芸賞、2019年第十六回蓮如賞受賞。その他の著書に『悲しみの秘義』(文春文庫)、『種まく人』『詩集 美しいとき』『詩集 ことばのきせき』(亜紀書房)、『学びのきほん はじめての利他学』『学びのきほん 考える教室──大人のための哲学入門』『14歳の教室──どう読みどう生きるか』(NHK出版)など。
※刊行時の情報です
◆「NHK100分de名著 『谷川俊太郎詩集』2025年5月」より
◆テキストに掲載の脚注、図版、写真、ルビ、凡例などは記事から割愛している場合があります。
※本書における「谷川俊太郎詩集」の引用は、『自選 谷川俊太郎詩集』(岩波文庫、2013年)に拠ります。
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