ゴッホはなぜ巨匠になったのか?特別展『ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢』から読み解く謎【取材レポート】
《ひまわり》で広く知られる画家、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)。世界中の誰もが知る巨匠です。
しかし、存命中に売れた絵はわずか数枚だったそう。そのまま歴史に埋もれてしまう可能性もありました。
そんな画家がなぜか、西洋美術を代表する巨匠にまで上り詰めることに。どうしてファン・ゴッホは、世界中から愛される画家になったのか? その背景には、彼の名誉のために尽くした家族の物語がありました。
名画を鑑賞しながらファン・ゴッホ家の物語を学べる特別展『ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢』が、大阪市立美術館にて8月31日(日)まで開催されています。本展はその後、東京と名古屋に巡回予定です。
本展には、オランダ・アムステルダムにあるファン・ゴッホ美術館が全面協力。同館からは30点以上ものファン・ゴッホ作品が来日し、さらに日本初公開となる4通の手紙も展示されます。直筆の手紙は、彼の芸術観を知るための手がかりとして欠かせません。
この記事では、大阪展を取材した筆者が展覧会の見どころからお土産情報まで紹介します。
なぜ巨匠に?ファン・ゴッホと家族の物語
ファン・ゴッホによる絵画がおおむね年代順に展示される本展では、ダイナミックに変化したファン・ゴッホ芸術を余すところなく堪能できます。そして、没後の評価の確立に欠かせなかった家族のストーリーも学べる構成です。
ここでは、展覧会の主なポイントを以下の3点として捉え直してみましょう。
・弟テオが支えた10年の画業
・画家の名声を高めた義妹ヨーの活動
・甥フィンセントが尽力した美術館の開館
これらの見どころを、詳しく紹介していきます。
弟と手を取り合った10年の画業
フィンセント・ファン・ゴッホが画家になることを決意したのは、27歳のとき。37歳で亡くなるまで絵を描き続けましたが、画業はたった10年です。
その前は画商として働いたり、聖職者を目指して勉強したりしていました。しかし、気難しい性格ゆえか対人トラブルが起こり、いずれも挫折。画家を志してからも、同様にトラブルを繰り返す……のですが、ある人の支えのおかげで、なんとか制作を続けることができました。
その人こそが、弟のテオ(テオドルス・ファン・ゴッホ、1857-1891)です。精神的にも経済的にも兄を支えた彼なくして、ファン・ゴッホ芸術はあり得ません。
自身も画商として働いていたテオは、ファン・ゴッホの生活費や画材の代金を負担。必ず評価される日が来るはずだと、兄の画才を信じて応援し続けました。
ファン・ゴッホ芸術の大きな特徴は、わずか10年という短い期間で数百の絵画を生み、しかも画風も大きく変化したことです。ファン・ゴッホがこれほど絵に集中できたのも、テオの功績が大きいでしょう。
画業の初期にあたるオランダ時代の絵画は重厚感のある暗い画面が特徴ですが、1886年にフランスのパリへ移住してからは一気に色彩が豊かに。当時、美術界を席巻していた画家、モンティセリや印象派の影響を受けたとされ、彼らの作品も本展で展示されます。
その後、パリを離れて芸術家のコミュニティを作ろうとしたファン・ゴッホは、アルルでゴーギャンとの共同生活を開始(2人の生活費はやはりテオが持ったようです)。有名な《ひまわり》の連作のいくつかは、ファン・ゴッホがゴーギャンを喜ばせるためにここで描かれました。
はじめは精力的に制作していた2人ですが、徐々に意見がすれ違い、2か月後にはゴーギャンが出ていく事態に。このときに起きたのが、ファン・ゴッホが自身の耳を切り落としたという「耳切り事件」です。テオもアルルへ駆けつけました。
以降、発作に苦しみながらも医師のもとで療養し、絵にも向き合います。絵の具を厚塗りした力強くうねるような画風を確立し、《星月夜》や《糸杉》、《オリーブ園》などの代表作が続々と誕生。本展でも、いきいきと力のみなぎるファン・ゴッホならではの筆致をじっくりと鑑賞できます。
1890年、拳銃による怪我でファン・ゴッホは帰らぬ人となります(諸説ありますが、本展ではピストルで自らを撃ったとしています)。37年という短い生涯の幕を閉じますが、亡くなるまで画業に専念できたのは、テオが経済的に支えていたからでもありました。
一方のテオは兄の死を悲しみ、ひどく衰弱。ファン・ゴッホが亡くなった半年後、あとを追うように他界しました。1889年に結婚して1890年に第一子を授かるという、幸せの最中のことでした。
現在、フランスのオーヴェール=シュル=オワーズに兄弟の墓石が並び、2人はともに眠っています。これはテオの妻ヨーの計らいで、家族から見てもファン・ゴッホとテオは分かち難い関係にあったのだろうと思われます。
ファン・ゴッホの評価が没後に高まった理由
さて、「ファン・ゴッホは存命中に数枚しか絵が売れなかった」という話が独り歩きしていますが、単なる「売れない画家」とは少々違います。画家仲間とは絵を交換していましたし、展覧会への出品を求められることもありました。「ちょうど評価を得られ始めていたところで亡くなった」と言ったほうが事実に則しているようです。
ファン・ゴッホ芸術にようやく光が当たり始めたのに、画家本人もテオもいない。そんな中、小さな灯火を消してはならないと立ち上がったのが、テオの妻でファン・ゴッホの義妹、ヨー(ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル、1862-1925)です。
テオの死後、わずかな財産と数百点にのぼるファン・ゴッホが描いた絵、彼からテオに届いた膨大な手紙を相続したヨー。彼女は息子の相続分もまとめて管理し、作品を展覧会に貸し出したり、ときに売却したりしました。
1891年4月から1925年9月までに約250点のファン・ゴッホ作品が売却されましたが、主な目的は画家の評価を高めることでした。市場にファン・ゴッホの作品が出回りすぎないよう、ヨーは賢く立ち回ったそう。
本展ではテオとヨーが記入していた会計簿が展示され、売却記録の一部を知ることができます。展示されているページには、本展で鑑賞できる《モンマルトルの菜園》の売却記録が書かれています。「12000」という数字は売却価格で、単位はフランではないかと思われます。
こうした戦略的な売却や展覧会への貸出によって、ファン・ゴッホの人気は徐々に高まっていきます。そして1924年、ヨーはロンドン・ナショナル・ギャラリーに《ひまわり》を売却しました。
《ひまわり》は家族のコレクションとしてヨーと息子が特に大切にしていた作品ですが、相手は世界に知られる著名な美術館。「フィンセントの栄光のための犠牲」として、売却することに決めました。こうしてファン・ゴッホの名声は確かなものとなります。
また、ヨーはファン・ゴッホがテオに宛てた膨大な手紙をまとめ、書簡集を発表しました。ファン・ゴッホは生前、制作状況や芸術観を日記のように手紙に記し、しょっちゅうテオに送っていました。それをテオがほとんど全部保管していたようなのです。
書簡集の出版も、ファン・ゴッホ芸術の人気に大きく貢献しました。彼について知りたい人にとって、画家が自身の言葉で綴ったプライベートな手紙は最高の資料です。現在もファン・ゴッホ研究に欠かせない資料となっています。
本展では、ファン・ゴッホが先輩画家アントン・ファン・ラッパルトに宛てた4通の手紙が展示されます。日本初公開となるこれらの手紙は長らく所在が不明で、2006年に発見されました。
なお、ファン・ゴッホの手紙には質の悪い紙が使われていることが多く、インクも色褪せしやすいため、繊細な取り扱いを要します。実物が展示される機会は少ないので、ぜひ本展でじっくり鑑賞してください。
ファン・ゴッホ美術館、誕生
画家フィンセントの名前を継いだ、テオとヨーの息子、フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ(1890-1978)。ファン・ゴッホも甥の誕生を喜び、《花咲くアーモンドの木の枝》を贈りました。
1925年にヨーが亡くなり、絵画や手紙を相続したフィンセント・ウィレムは、コレクションの散逸を防ぐため、作品の売却をほぼ全面的に停止します。1960年にはフィンセント・ファン・ゴッホ財団を設立し、コレクションの大部分の所有権を譲渡。さらにオランダ政府に働きかけ、国立フィンセント・ファン・ゴッホ美術館(現ファン・ゴッホ美術館)の開館を実現します。
7月4日(金)に行われた本展の記者発表会には、フィンセント・ファン・ゴッホ財団の代表であり、テオのひ孫にあたるウィレム・ファン・ゴッホ氏も登壇。誇らしげな微笑みを浮かべながら、ファン・ゴッホ作品のコレクションについて「今後も売却することはありません」と断言しました。
同館は1973年の開館以来、5000万人もの来場者を迎えたそうです。私も2019年に訪れたのですが、空港で著名人の到着を待ち構えるファンの気分になるくらい盛況でした。ファン・ゴッホ芸術を一目見ようと、世界中から多くの人が同館に足を運んでいます。
また、美術館として発展していくなかで、ファン・ゴッホに関係のある画家などの作品も積極的に収集してきました。印象派やポスト印象派、バルビゾン派やハーグ派の作品、同時代のパリを彩ったポスターなどの所蔵品も来日しています。
ファン・ゴッホの名声を支えた家族の物語は、別の記事でも紹介しました。もっと知りたい人は、こちらもご覧ください。
音声ガイドナビゲーターは松下洸平さん、中島亜梨沙さん
展覧会をよりおもしろく、わかりやすく鑑賞するために必須なのが、音声ガイド。本展では、展覧会サポーターを務める俳優・アーティストの松下洸平さんと、俳優の中島亜梨沙さんが、音声ガイドのナビゲーターを担当します。
本展の音声ガイドは、手紙の一部の朗読を挟みつつ、作品を解説する内容でした。感情がこもったお二人の朗読には、思わずうるっと来てしまうところも。
松下さんは、7月4日(金)に行われた記者内覧会に登壇。本展について、
「ゴッホの作品とゴッホを支えた家族の物語を感じていただける展覧会になっています。作品だけでなく家族の絆を感じていただくことで、ご来場いただいた皆さまのご家族であったりご友人であったり、自分の生活のことも考える、そういうきっかけになる展覧会になると思いますので、ぜひ十分に堪能していただきたいです」
とコメントしました。
ファン・ゴッホ芸術を体験する仕掛けが盛りだくさん
本展では、幅14メートルを超えるイマーシブ・コーナーが実現。ゴッホの作品を再解釈した映像が、没入感のある大きなスクリーンで感情できます。
ファン・ゴッホ美術館の代表作が高精細画像で投影されるほか、3Dスキャンを行ってCGにした《ひまわり》(SOMPO美術館蔵)の映像も。たっぷり塗られた絵の具の厚みを、アトラクションのように体験できる映像でした。
ファン・ゴッホは「100年後を生きる人々にも自分の絵を観てもらいたい」と願っていたそう。作品そのものはもちろん、イマーシブのような新たな形も興味深く楽しみました。
展覧会を見終わったら、ミュージアムショップにも。すみっコぐらしコラボをはじめ、魅力あふれるグッズがたくさん登場しています。
なかでも私が気になったのが、青山デカーボの新作『ひまわり缶』です。展覧会会場限定で販売される商品で、クッキーは優しい甘さのかぼちゃ風味。サクサクと軽い食感で、展覧会の思い出に浸りながらあっという間に完食してしまいました。
『ひまわり缶』は別の記事で詳しく紹介されているので、こちらもぜひお読みください。
ファン・ゴッホと家族の物語に触れる本展を鑑賞しているとき、松下洸平さんも言っていたように、自分の家族や身近な人のことを自然と思い浮かべました。作品だけでなく、会場を満たすどこかあたたかな空気も味わっていただけたらと思います。
展覧会情報
大阪・関西万博開催記念 大阪市立美術館リニューアル記念特別展「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」
会期:2025年7月5日(土)〜8月31日(日)
※土日祝は日時指定予約優先制。平日は日時指定予約不要
会場:大阪市立美術館(天王寺公園内)
開館時間:9:30-17:00、 毎週土曜日は19:00まで (入館は閉館の30分前まで)
休館日:毎週月曜日、 7月22日(火)
※ただし、7月21日(月・祝)、8月11日(月・祝)、8月12日(火)は開館
展覧会公式ウェブサイト:大阪市立美術館リニューアル記念特別展「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」