大倉精神文化研究所 日誌が語る惨禍 横浜大空襲から80年
1945年5月29日、アメリカ軍による焼夷弾投下で市街地を中心に甚大な被害を受けた横浜大空襲から80年。港北区内では当日、家屋全焼や死傷者が出るなど大倉山周辺の被害が大きかった。大倉精神文化研究所には、その日の様子を記した日誌が残されている。
太平洋戦争末期、航空機による都市の空爆が始まり、日本本土が初めて空襲を受けたのは42年4月。東京、大阪などとともに横浜も被害を受けた。横浜の空襲を記録する会の冊子『伝えたい街が燃えた日々を』によると港北区内での空襲は44年12月、樽・南綱島町(当時)を皮切りに翌45年7月まで断続的に続き、日吉や大倉山、菊名など東急線沿線が主に被害に遭っている。
「敵機六百機、横浜市ニ来襲」
5月29日は午前9時20分頃にB29が横浜上空に到達、10時半頃までの約1時間で43万個もの焼夷弾を投下。中区、西区、神奈川区などの中心市街地が猛火に包まれた。「午前十時過ヨリ敵機六百機、横浜市ニ来襲。研究所ニモ焼夷弾命中シタルモ全部消火。垜一棟焼失シタルノミニテ、他ニ大ナル損傷ナシ。太尾町六十余戸焼失。横浜市大部分灰燼ニ帰ス」――。大倉精神文化研究所では設立準備段階の1925年から所員が日誌をつけており、研究所の日々の記録に加え戦争関連の記載も残る。戦況の悪化につれ防空壕を掘ったことや灯火管制、「敵艦上機来襲」など空襲に関する文言も頻出するようになる。29日当日は「焼夷弾が研究所に命中して書庫に火が出かけたが消火できた。端が焦げた本もあったと聞いている」と同所の平井誠二所長。
当時、研究所には海軍の気象部が入り、アメリカやソ連の電波を傍受し暗号化された気象情報の解読を行っていた。「そのために狙われたと思っている人もいるが、実際のところはわからない。証言と調査、両方を知ることが大切」。大倉山駅周辺の太尾町では、住民の聞き取りなどによると300戸余りの住宅のうち60〜70戸ほどが焼失したとされ、焼死者ややけどによる重傷者もいた。
横浜大空襲では、直後の公式発表によると死者3650人、重軽傷者1万198人、行方不明309人、罹災者31万1218人とされる。区内での被災だけでなく、通勤や通学のため市街地にいて、帰れず巻き込まれた人も多くいたという。区内の歴史研究を続ける平井所長は「終戦、という区切りだけでは片がつかない。ずっと背負って生きている人がいて、戦後は今も続いている。過去の積み重ねを知ることから始め、将来を担う人たちにも一緒に考えてほしい」と話している。