海と太陽、不条理と反抗の文学――中条省平さんが読む、カミュ『ペスト 』#1【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
中条省平さんによる、カミュ『ペスト 』読み解き
終わりなき災厄に見舞われたとき、人はそれにどう向き合うのか――。
治療法のない疫病に突如襲われ、封鎖されたアルジェリアの都市オラン。そこに生きるひとびとの苦闘と連帯を描いた、ノーベル賞作家カミュの代表作『ペスト』。
『NHK「100分de名著」ブックス カミュ ペスト』では、当時の時代背景やカミュ自身の体験、さらにカミュの高い先見性に触れながら、『ペスト』に描かれる普遍的で哲学的なテーマについて、「コロナ後の世界」から検証・再考します。
今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第1回/全5回)
海と太陽、不条理と反抗の文学(はじめに)
『ペスト』(一九四七)の作者アルベール・カミュ(一九一三~六〇)の文学には、どんなに不条理で悲惨な状況を描いても、海と太陽が救いになるような、「向(こう)日(じつ)性(せい)」の魅力があります。そうした感覚は、カミュが当時フランスの植民地だったアルジェリアの、地中海沿岸の町で生まれ育った事実と切り離すことはできないでしょう。
カミュの作品はしばしば「実存主義」の名で呼ばれ、文学・思想史的に、実存主義の指導者サルトルとひと括りにされてしまうことがあります。しかし、カミュの小説とサルトルの小説は、感覚的印象がまったく異なっています。たとえばサルトルの長篇小説『嘔(おう)吐(と)』(一九三八)で、主人公ロカンタンは、灰色の曇り空の下、寒々しい港町でひたすら図書館に通い、物を書いたり調べたり思索したりするような日々を送っており、小説全体が閉鎖的・内向的な印象をもたらします。また、サルトルの短篇小説の代表作『水いらず』(同)では、主人公の女と男が閉ざされた空間のなかで肉体を接して向かいあい、出口のない関係を生きています。しかし、カミュは、そうした閉鎖的・内向的な生き方を描くようなタイプの作家ではありません。
カミュの場合、たしかに人間は複雑な状況に直面して苦悩することもあるし、痛みを感じることもありますが、海や太陽といった無条件のエネルギーの巨大な源泉のようなものに出会ったときに、そこへ〝自分を開いていく〟ような感性があるのです。そうした未知のものに自分を開いていく感性の柔軟さや開放性が、カミュの小説がサルトルのそれよりも普遍的な広がりや包容力をもつと感じられる所以(ゆえん)ではないでしょうか。
実存主義という、人間の悲惨な条件を直視する哲学的傾向のなかにあっても、カミュの場合は、どこかにそうした世界の未知なる多様性がもたらす救いのようなものがあることを、まず押さえておいたほうがいいかもしれません。そこには、われわれ日本人の自然観にも通じあうものがあるのではないかと思うのです。
ただし、一口に自然のもたらす救いの感覚といっても、海と太陽とでは、カミュにとって若干ニュアンスが異なります。小説『異邦人』(一九四二)で、主人公ムルソーが不条理な殺人の動機を「太陽のせいだ」という有名な場面がありますが、太陽は、明るい光をもたらすと同時に、人殺しにまで至らせてしまうような激しさももっており、ときとして人間の攻撃的な情念を高揚させます。かたや海のほうは、むしろそれを鎮めてくれる場所です。砂漠で灼熱の太陽と向きあえば、人間は渇いて死ぬしかありませんが、海のなかに入れば、生が解放されるような感覚を得ることができます。『異邦人』にも、またこの『ペスト』にも、印象的な海水浴の場面が出てきて、われわれ読者に救いの感覚をもたらします。
こうしたカミュのいわば「地中海性」は、哲学的にはキリスト教以前のギリシャ哲学に遡(さかのぼ)ることができますし、カミュという作家の知性と身体の両面における重要な要素です。古代ギリシャ人の、自然と調和した汎神論的な世界観への共感と憧れは、地中海人カミュの精神と肉体の根底に息づくもののような気がします。
私がカミュの小説と出会ったのは中学一年生のときで、代表作『異邦人』を読み、強い衝撃を受けました。世界は不条理なのだという認識とともに、ちょうど純粋な反抗心にあふれた年頃でしたから、ムルソーの世間への反抗にはカッコよさを感じました。ただし、あの有名な「きょう、ママンが死んだ」(窪田啓作訳)という書き出しには面食らって、「ママン」とはいったい誰なんだろうと一瞬考えこんだものです。「ママン」とはごく普通にフランス人が自分の母親に呼びかける呼称で、日本語で「ママン」と書いたときに感じる甘ったれたおしゃれな語感はありません。中村光夫の訳語では「ママ」ですし、普通に「お母さん」とか「かあさん」などと訳してもよいと思うのですが、それぞれでニュアンスが大きく変わってきます。つくづく翻訳とは難しいものです。
さて、『異邦人』に続いて、高校生の頃に『ペスト』を読んで感動し、さらに、澁澤龍彥の本で知った革命家サンジュストのことが書かれた哲学エッセー『反抗的人間』(一九五一)の文章にもしびれました。同時に『存在と無』(一九四三)などサルトルの哲学にも惹(ひ)かれた私は、カミュとサルトルに代表される実存主義の思想に傾倒しました。
実存主義が一世を風(ふう)靡(び)してから半世紀以上が経ち、いまではその衝撃力は伝わりにくいかもしれませんが、「実存は本質に先立つ」(サルトル)という思想的転換は、神や魂といった本質を人間に先行させるキリスト教的な世界観と、デカルト的な近代哲学の理性中心主義的な世界観の両方を否定する、哲学史上における途方もない革命だったのです。
ちなみにカミュとサルトルはやがて思想的に対立し、論争の末に絶交してしまいます。当時は文学的なカミュよりも、政治的なサルトルのほうに分があるように見えました。しかしいまになってみれば、スターリンの恐怖政治へと至るマルクス主義のイデオロギーや革命による暴力や殺人を批判するカミュのほうが正しく、きわめて真っ当な感覚を有していたといえます。たとえ革命という大義のためであっても、人殺しは絶対に認めないというカミュは、左派の知識人がマルクス主義や革命を金(きん)科(か)玉(ぎよく)条(じよう)とする時代にあって、どんなに周りから反動だと叩かれ、孤立することになっても、暴力や殺人に「否(ノン)」といい続けました。そこは人間として本当に信用できるところだと思います。
いまあらためて『ペスト』を読み直してみると、遠いアルジェリアの町で起きた疫病の話というだけではなく、やはり震災と原発事故以降の恐怖と不安の記憶、不愉快な閉塞感の持続という現代日本の問題が重なって、その予言的なリアリティが身に迫ってきます。
とくに二〇二〇年春、新型コロナウイルスが世界中で猛威をふるい、日本でも緊急事態宣言が出され、東京オリンピックが延期に追いこまれました。そのとき、期せずして世界中の人々が、七十年以上前に書かれたカミュの『ペスト』を読もうと手に取り、世界各国でベストセラーになるという驚くべき現象が起こりました。そして、ひとりの作家がまったくの想像で書きあげた、疫病の流行下で閉塞し呻吟する世界の姿が、いままさに現実となり、そこに描かれた人間生活の細部が、コロナ禍でのリアルな出来事になっていたのです。カミュは自分の考える〈不条理〉という世界の条件をペストという災厄に象徴させたのですが、この小説に描かれるペストは、ただの象徴ではなく、まことに生々しい現実でした。これこそが、本物の小説のもつ喚起力というべきでしょう。
時代が変わっても、その時代ごとにふさわしい読みを許容する幅の広さが、優れた文学作品の条件だと思います。人間が不幸とどう闘うかというこの物語は、戦争の只中で書かれ、ペストという災厄が戦争という現実と重ねて描かれていますが、それを地震のような天災や、目に見えない放射能の恐怖に置き換えて読むことも可能なのです。また災厄によって招来される社会状況の変化は、いまの政治や社会の気味悪さ、生きにくさとも深く関わるように思われます。
経済偏重の現代社会を襲う災厄のなかで、人間はどのように生きるべきなのか。この作品を通じて、そうした思考や対話のきっかけを提供することができれば、と思います。私たちは世界と人間の不条理にどう反抗し、どう乗りこえていくことができるのか──。それは、いまこそ真正面から向きあうべき大切なテーマなのではないでしょうか。
著者
中条省平(ちゅうじょう・しょうへい)
学習院大学文学部フランス語圏文化学科教授。フランス文学はもとより、映画や音楽、日本の漫画など、幅広い領域で活躍。『フランス映画史の誘惑』(集英社新書)、『ただしいジャズ入門』(春風社)など著書多数。ほかに、ラディゲやマンディアルグ、バタイユ、コクトー、プルースト、ロブグリエなどの翻訳も手がけている。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。
■「100分de名著ブックス アルベール・カミュ ペスト~果てしなき不条理との闘い」(中条省平著)より抜粋
■書籍に掲載の脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛しております。
*本書における『ペスト』の引用の日本語訳は、著者によるものです。
*本書は、2018年6月に放送された「NHK100分de名著」の番組テキストを底本として一部を加筆・修正し、新たにブックス特別章、読書案内などを収載したものです。
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