『大河ドラマ豊臣兄弟!』秀吉ゆかりの京都東山・豊国神社と豊国廟を歩いてみた
現在放送中のNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」から一転、 来年度の大河ドラマは、2年ぶりに戦国時代をテーマとした『豊臣兄弟!』に決定しました。
豊臣兄弟とは、兄の豊臣秀吉(演:池松壮亮)と、異父弟の秀長(演:仲野太賀)を指しますが、どうも主人公は弟の秀長のようです。
秀長は、歴史の教科書にはほとんど登場しない人物ですが、秀吉を側面からサポートし、その天下統一に欠かせなかった人物と、高い評価が与えられています。
とはいえ、やはり歴史上のインパクトでは兄・秀吉に軍配が上がるでしょう。
今回は、少々気が早いですが、『豊臣兄弟!』に思いを馳せ、京都東山に赴き、太閤秀吉が眠る豊国廟と彼を祀る豊国神社界隈の史跡をめぐってきました。
このマップの①~⑨まで、順番にご紹介いたします。
謎に満ちた秀吉の墳墓「豊国廟」
太閤ゆかりの史跡めぐりのスタートは、600段近い急な階段を上った頂上にある豊臣秀吉の墓所(五輪塔)である「①豊国廟」から。
1598(慶長3)年、63歳の生涯を閉じた秀吉は、この阿弥陀ヶ嶽の山頂に葬られ、中腹には豊国神社が建立されました。
しかし豊臣家が滅亡すると、徳川家康の命により豊国神社の社殿は徹底的に破壊されます。
家康は、秀吉の廟も破壊しようと企てますが、それは秀吉正室・北政所(ねね)の懇願で許され、明治まで朽ちるにまかせたのです。
このような非情ともいえる家康の仕打ちには、それなりの事情がありました。
1600(慶長5)年、関ケ原の戦いで西軍を破った家康は、その3年後に征夷大将軍となり、江戸幕府を開きます。
しかし、その時点においては、大坂城に秀吉の子・秀頼が健在で、朝廷や公家は秀頼を武家の代表として認めていたのです。
この状況に家康は、豊臣家を滅ぼさなければ江戸幕府には安泰が訪れないと考え、1614(慶長19)年の大阪冬の陣、翌年の大坂夏の陣で秀頼とその母・淀殿を自害に追い込み、ついに豊臣家を葬り去ります。
そうした中、家康が次に狙ったのが、すでに亡くなっている秀吉でした。
なぜ家康は亡くなった秀吉に狙いを定めたのか。その理由は死してなお、彼の人気が衰えていなかったからです。
秀吉は死後、豊国大明神として神格化され、京都阿弥陀峰の山頂に葬られ、山腹には彼を祀る豊国神社が創建されました。
毎年8月18日の秀吉の年忌には盛大な豊国祭が行われ、彼を慕って公家・大名はもとより、庶民までが押し寄せたといわれています。
このような状況を家康が見逃すはずがなく、豊国神社の破却と豊国廟の破壊を企てたと伝えられています。
しかし、江戸幕府が終わり明治維新を迎えると、明治天皇の勅で秀吉の人権も復活します。
そして、1897(明治30)年に豊国廟の整備が行われました。
その時、秀吉の遺骸が異常な形で発見されたのです。遺骸は柩ではなく、粗末な瓶に押し込められるように葬られていました。
朽ちるに任せられた状態で260年ほど放置されたので、それが盗掘によるものなのか、はたまた幕府など何者かの手によるものなのか判然としていません。
さらに、発見後なぜか遺骸と瓶が紛失してしまい、今ではその行方さえも不明となっております。
秀吉側なのか敵なのか判然としない「新日吉神宮」
続いては、「豊国廟」の参道を西にまっすぐ進み、「②新日吉神宮(いまひえじんぐう)」に向かいましょう。
同社は、平安時代末期に後白河法皇が創建し、朝廷からも大いに崇敬されていたとされます。
しかし大坂の陣で豊臣家が滅び、豊国廟と豊国神社が破壊されると、江戸幕の命でその参道上に遷座させられました。
これは、一説によると豊国廟への道を塞ぐためといわれています。
しかし、それとは全く逆な考え方、すなわち「豊国廟」を守護、もしくは来るべき復活の日のために、わざわざ参道上に鎮座したとの説もあり、その真意は判然としません。
1897(明治30年)、豊国廟の再興時に参道上から南西の現在地に移転しました。
ちなみに本殿脇には、狛猿が金網で囲まれていますが、これは「猿」が夜中に動き回るのを防ぐためだと伝わります。
「猿」といえば秀吉。何か関係があるのでしょうか。
豊国廟を取り巻く謎を秘める「智積院」
さて、「新日吉神宮」かた、女坂を北へ下ると「③智積院」の総門があります。
「智積院」は、秀吉が愛児・棄丸(1591年没)を弔った祥雲寺跡に建つ、真言宗智山派の総本山です。
同寺は、家康により再興されましたが、池泉観賞式庭園は祥雲寺当時の面影を残し、さらに長谷川等伯一門による絢爛たる障壁画も祥雲寺の遺構として知られています。
秀吉ゆかりの寺院跡に家康が伽藍を再建したのは、新日吉神宮同様の狙いがあったのか、これも豊国廟を取り巻く謎として興味がつきません。
淀殿の父浅井長政を追善する「養源院」
「智積院」からは、右手に妙法寺門跡をみながら七条通を北に、「④養源院」へ向かいましょう。
妙法寺門跡は、青蓮院・三千院とともに天台宗三門跡と称される格式のある寺院で、豊臣秀頼が江戸幕府に滅ぼされた後には、方広寺・蓮華王院(三十三間堂)、新日吉神宮を兼帯する大寺院となりました。
秀吉と関係の深い寺院でありながら、幕府が実行した豊国神社・豊国廟破却に積極的に協力したという、豊臣側から見る何やら納得のいかない行いをしています。
そこまでしなければならないほど、徳川幕府の圧力があったのかもしれません。
それはさておき「養源院」に話を戻しましょう。
同寺は、秀吉側室で秀頼の母・淀殿ゆかりの寺院です。
彼女の願いを受けて、秀吉が浅井長政(淀殿の父)の追善のために、1594(文禄3)年に建立しました。
本堂廊下の天井には、秀吉が築城した伏見城の血天井が供養のために貼られていますが、これは同城が関ケ原の戦いで落城した際に、城将で家康重臣の鳥居元忠らが自尽した痕跡とされます。
秀吉を神格化した豊国之大明神を祀る「豊国神社」
「養源院」からは「耳塚」を経由して、「豊国神社」「方広寺」へ向かいます。
その途中、蓮華王院(三十三間堂)を回り込むようにして歩くと、「⑤三十三間堂太閤塀」が現れます。
この土塀は、方広寺創建の際に秀吉が蓮華王院に寄進したもので「太閤塀」と呼ばれ、国の重要文化財に指定されています。
軒丸瓦には、秀吉家紋の五七ノ桐があしらわれているので見逃さないようにしましょう。
そのまま大和大路通を北へ進み、七条通を渡ると京都国立博物館があります。
その大和大路通沿いに残る巨大な石を積み重ねた石垣が、「⑥方広寺石垣」です。
この石垣は、秀吉が諸将に命じて築かせたもので、博物館の敷地も方広寺の一部でした。
さて、博物館の北端に見える鳥居が「⑧豊国神社」の大鳥居です。
その向かいにある円墳を思わせる塚が「⑦耳塚」で、1592(文禄2)年の朝鮮出兵(文禄の役)の際に、首替わりに持ち帰った敵方の耳や鼻を埋葬した塚と伝わり、2万もの耳や鼻が埋められているとされます。
「耳塚」を見学したら、いよいよ「豊国神社」「方広寺」エリアに入ります。
「豊国神社」は、豊臣秀吉を祀る神社です。
1599(慶長4)年4月、朝廷は秀吉に「豊国之大明神」の神号を与え、吉田神道の吉田家により秀吉が眠る阿弥陀ヶ峰の中腹に遷宮が行われました。
毎年8月18日の秀吉忌には「豊国祭」が盛大に催され、特に秀吉七回忌に行われた豊国祭には、公家や武家にあわせ多くの町衆も参加したといわれ、秀吉の京都での人気の高さを証明しました。
しかし、豊臣家が滅亡すると、家康の命により豊国大明神の神号は剥奪され、神社は破壊されてしまいます。
その後、江戸時代を通じて再興されることはなく、明治維新を迎え、明治天皇の沙汰により再興されたのです。
現在の社殿は1875(明治8)年に方広寺大仏殿跡地に建てられたもので、国宝の唐門は南禅寺塔頭の金地院から移された伏見城の遺構と伝わります。
歴史散策のフィニッシュは大仏を安置した「方広寺」
さて、秀吉ゆかりの東山の史跡をめぐる歴史散策は「⑨方広寺」で締めくくりましょう。
同寺は、東大寺大仏に代わる大仏の造立を発願した秀吉が、1588(天正16)年から7年の歳月を費やして建立した寺院です。
その敷地は、妙法院・三十三間堂・豊国神社・京都国立博物館を含む広大なものでした。
この時に造立された大仏は、東大寺大仏を凌ぐ高さ19mという巨大なものでしたが、1596(文禄5)年の大地震により倒壊してしまいます。
大仏は秀頼の代に再興されますが、その開眼供養にあわされて造られた「梵鐘の銘文」が、豊臣滅亡のきっかけとなったことは余りにも有名です。※方広寺鐘銘事件
その大仏を安置した「大仏殿跡」は、豊国神社裏手に残っています。
発掘調査の後、遺構は地下に埋め戻されていますが、説明版の他、礎石などが置かれていますので、豊臣家の権威の象徴であった在りし日の「巨大な大仏」に思いを馳せてみるのもよいでしょう。
さて、今回の歴史散策の所要時間は、史跡見学を含めて約2時間30分ほどです。
歩き疲れたら、蓮華王院近くに店を構える京菓子司 七條甘春堂 甘味処「且坐喫茶」での休憩をおすすめします。
ここは、創業150年の老舗和菓子店併設の甘味処です。
真心こめて作られた和菓子と抹茶のセットで、ほっこり寛ぎましょう。
※参考文献
京都歴史文化研究会著 『京都歴史探訪ガイド』メイツユニバーサルコンテンツ刊
文:写真/高野晃彰 校正/草の実堂編集部