多摩エリアの「古街道」をゆく
今週のゲストは、「多摩エリアの古街道」に詳しい、古街道研究家の宮田太郎さん。以前、「たましん(多摩信用金庫)」の方からメールで情報提供がありお招きしました。多摩の古街道のマニアックなお話、お楽しみに!
多摩エリアの「古街道」をゆく
「古街道」とは!?
土屋:さっそくゲストのご紹介です、古街道)研究家の宮田太郎さんです。よろしくお願いします。
宮田さん:はい、よろしくお願い致します!
土屋:旧街道はイメージがつくんですけど、古街道・・・。
宮田さん:あまり聞かないですよね。
土屋:まずは、宮田さんのプロフィールのご紹介です。つる子さん、お願いします。
つる子:はい。宮田太郎さんは、古街道研究家以外にも、歴史ルポライター、総務省のアドバイザーとして「道」を活かしたまちづくりの推進やアドバイスなどをされています。とにかくキーワードは道で、宮田さんは「道ism(ミチズム)」と名付けて紹介されています。
土屋:なるほど。僕も道は興味があって。地形を活かしていかないと先代の方たちもそんないろいろと作っていけないと思うから。道にはヒントがあると思う。ただ、古街道って何なんですか!? そこから教えて下さい!
宮田さん:旧街道というと、簡単に言うと江戸時代と、それ以降の明治大正時代の道のことなんですね。
土屋:江戸に向かう道ですよね。
宮田さん:そうですね。江戸に幕府が出来て、江戸に向かう道が関東には有名な道がありますよね。そこから全国にも伸びていますけど、これは旧街道の世界なんです。
つる子:はい。
宮田さん:しかし、徳川家康から前は、それは旧街道ではなくて古街道と呼ぶんですよ。
土屋:へえ! “東海道”のような名前は江戸時代に出来たということですか?
宮田さん:そうです。「府中市」に「大国魂神社」があって、武蔵野国府というところがあって。そこは、「府中」から道が伸びていた。なぜかというと、国府と国府を結ぶのが東海道だったんですよ。
土屋:なるほど、なるほど。
宮田さん:だから、江戸時代は品川とか藤沢などは通らないんです。
つる子:ああ。
土屋:そういうことか。
宮田さん:神奈川県の国府というのは、海老名とか平塚とか大磯にあったので。そこから「府中」に向かうとすると、江戸はあまり関係無いんですよ。同じ東海道でも、時代背景が違うと、全然違う東海道になるんです。
土屋:そうか。“旧街道の東海道”と“古街道の東海道”では、ゴールが違う、と。
宮田さん:そういうことです。
つる子:なるほど。
土屋:ということは、いつ作られた道のことを古街道というんですか?
宮田さん:これは誰が定義したとかではないんですよ。
土屋:宮田さんの中ではどう定義されたんですか?
宮田さん:僕は考古学が好きで、道を掘るという変わってきたことをやってきたので。道を見つけてそこに痕跡を探すということで、地層から道を見たりするので。まず、構造が違うことがわかったんですよ。
つる子:はい。
宮田さん:その構造は、家康から前は古街道の世界。家康は古街道の世界の人で、古街道を知っていたということがわかってきたんですよ。道の作り方の、伝統的な技術が全然違うんですよ。
つる子:へえ!
宮田さん:穴太衆といって伝統的な石造りの人たちがいるんですけど、それと同じように道にもたぶん、古墳時代からずっと同じように伝統の技法があった、というのが段々とわかってきたんですよ。そのやり方をやっているのが、家康まで。徳川二代将軍の秀忠以降はピタッとなくなるんです。
つる子:ええ!?
土屋:古街道と旧街道、作り方のどういうところが違うんですか?
宮田さん:掘って出てくることも多いんですけど。箱根に行くと、三島方面に下りて行くものすごく大きな古道があるんですよ。それは昔の東海道であり、平安時代は鎌倉街道と言ったり。その道の床面に洗面器のような穴がずっと続くんですよ。
つる子:ええ!?
宮田さん:一体これは何だろうって思って色々と調べたら、日本中、吉野ヶ里遺跡周辺や大阪、九州からも出るし。一番多いのが東京の「町田」なんですよ。「町田」の「野津田公園」から1000カ所も穴が出てきたんです。
つる子:ええ!!
宮田さん:段々とわかってきたのは、4つか5つくらいの類似点があって。まず、雨がいっぱい降ると道路の舗装剤が流れてしまうんですね。洗面器で穴をかませていくことで土が流れにくくなるということですね。
土屋:はあ~!
宮田さん:それからテコの応用で、例えば戦でチャンバラで先に合戦が終わると折れた刀や食料の補給が必要になって、荷車隊が追いつかないと負けてしまうので。
土屋:なるほどね。
宮田さん:関東ローム層は滑りやすいので、その関東ローム層の「町田」あたりに洗面器状の穴をずっと作って、そこにアプト式鉄道のように荷車がかむようになるんです。
つる子:ええ!!!
土屋:よく雪とか滑りやすい所に輪っかみたいなのが付いている坂がありますけど・・・
宮田さん:似てますね。荷車の中から担ぎ棒を引っ張り出して、荷車の後ろに差し込んだテコの支点の穴にして押し上げて行くという。そういうことがわかってきたんです。
つる子:へえ!
土屋:そして、戦が無くなった江戸時代になって、急ぐ必要が無くなったことによって道を作る技法が変わった、という捉え方で合っていますか?
宮田さん:そういうこともあるかもしれないですね。そこはまだ謎の部分なんですけど。江戸時代になると戦が無くなってゆっくりになりましたよね。たしかに、戦国時代までは大軍勢での移動が多かったので。そういう意味では、そういう技法が必要だったという可能性がありますね。
土屋:でも、時代でいうと江戸時代より先の方が進化しているはずだから、道路の作り方も進化している感じがするんですけど?
宮田さん:そうですね。そういうところで、道路の技法を伝える人がいらなくなった、不要になった。江戸幕府の制度に合わなくなった気はしているんですけど。なぜ、東京の「町田」に一番多いのか。「町田」に多いというのは、「多摩」「府中」、「国分寺」にも繋がっていくわけなので。で、「国分寺」からこの洗面器の穴が出ているんですよ。
つる子:へえ!
宮田さん:「西国分寺駅」前の「鉄道学園」の跡地の東山道武蔵路にある洗面器状の穴を、屋根をつけて見られるようにしているんですよ。
土屋:僕、見ました。新しい「国分寺市役所」の横の所ですよね。何だろうと思っていたけど、そういうことか。
「古街道」の魅力
土屋:そもそも宮田さんが道の魅力に気付いたのはいつ頃ですか?
宮田さん:もともと私は「多摩市の聖蹟桜ヶ丘」の出身なんですよ。“多摩村”の最後の出身者で。当時は「聖蹟桜ヶ丘駅前」は田んぼだらけなんですよ。そのあと、昭和39年のオリンピックの年に「多摩ニュータウン」の計画が発表されまして。小学校の頃に考古学クラブを作って「多摩丘陵」で土器や石器を拾って歩いていたのが、「多摩センター」とか「永山」だったんですね。
つる子:はい。
宮田さん:そこを、ブルドーザーがどんどん壊して行くんですよ。いっぱい土器や石器が無くなるとか、源義経の伝説がある所なのに無くなっていく・・・涙が止まらなくなる時代ですね。
つる子:ええ~
宮田さん:それがきっかけで、森の中で出会ったおじいさんと高校生と研究会を作って。
つる子:え? 森の中で出会った!?
土屋:同じような趣味の方で!?
宮田さん:変人が3人集まったんです(笑)。それで「第1回 多摩丘陵古街道探索会」というのを20年くらい前にやったんです。それから2回、3回と続いていくと、そのうち山城を発見するんですよ。それが「百草園」。茶室があって、その後ろが堀のように山が窪んでいて。これがお城では!?ということで、探索会を開催したら「京王電鉄」がびっくりして。それから発掘が行われて認められて「百草城」という名前が出来たんですよ。
つる子:あら! すごいですね!!
土屋:そういうお城などの跡地に興味がある人は多いかもしれないですけど、宮田さんは道に注目したわけじゃないですか。その理由は?
宮田さん:道って点じゃなくて、“線”なんですよね。だからそこにストーリーがあるんですよ。なぜそこにこういうものがあるのか。それは遺跡を発掘した人も歴史を紹介する人たちもすぐ、(次は寺院に行きましょう!)となるんですけど、そうじゃなくて。その間にストーリーがあるんですよ。それと、そこに暮らしている人たちにとっての、橋を作ったり道を作ったりした隠れた偉人っているじゃないですか。そういう人たちがそこに住んでいるわけですよ。非常に人間味を感じるんですよね。
土屋:ああ~、鉄道好きと同じ発想! そうなんですよ、ルートに意味があるんですよね。
多摩エリアの「古街道」
つる子:多摩エリアの古街道についても伺いたいです! どれくらいあると考えられているんですか?
宮田さん:古街道の数は数えたことは無いです。というのは、道は行政の枠を超えて繋がっているわけですよ。それを1本と数えるか2本と数えるか。それでも多摩エリアには古街道が大体50本くらいありますね。
つる子:おお!
宮田さん:それは大きな街道で。その他、たくさん小さな道があるんですよ。僕はそれを古街道と言わないで、古道と言っているんですよ。
土屋:なるほど。
宮田さん:たとえば、農家さんが裏山に大根を作りに行っている道が古くなったのが古道。地方と地方を結ぶような往還性があるもの、物を売っていたり、政治の道、軍事の道、宗教の道などいっぱいありますが、そういうものは古街道と付きますね。その大きな街道が50本くらい。小さな道を入れたらもっと多いですよ。
土屋:その古街道は江戸時代より前だから、「府中」を中心に広がっていったのですか?
宮田さん:「多摩川」は横に広がっているじゃないですか。樹木を考えてもらって、地面があるとその上に枝葉が伸びて放射状になっていますよね。実は地面から下も同じ分量の根っこが放射状にあるわけですよ。それでバランスを取っているわけです。それと同じで、地面が「多摩川」だとすると、「府中」という武蔵国府を中心に放射状に関東中に枝葉が広がっているですよ。
つる子:はあ!
宮田さん:南側の「多摩川」を渡った、「多摩市の聖蹟桜ケ丘」のあたりから放射状に南に神奈川県に広がっているわけです。
つる子:はい。
宮田さん:それがわかって。それがお互いにX型に繋がっているわけで。東北に行ったり、京都や大阪に行くわけで。最終的にはメロンのネットのようになるわけですよ。
土屋:それは時代と共に中心が変わってくるんですか?
宮田さん:これはすごくて、「府中」は中心ですね。
土屋:我々が古街道を探してみようとしたら、どういう所から行けばわかりやすいですか?
宮田さん:古街道は住宅地の中でも簡単に見つける方法があるんですよ。例えば駅の改札口を降りて、住宅地図がありますよね。あれを見た瞬間に、“人の道”か“水の道”かわかるんですよ。
土屋:あー、なるほど!
宮田さん:まっすぐ綺麗に区画整理されているのは現代の道。好き勝手ウネウネしているのは“人の道”か“水の道”なんですよ。その中から慣れてくるとどんな人でも瞬間に、(あ、これは昔の道じゃないの?)というのがわかるんですよ。
つる子:ええ!?
宮田さん:だから、住宅地でもわかるんですね。
土屋:“川の道”は暗渠で何となくわかるんです、ブラタモリを見ている人間からすると(笑)。“人の道”はどうやってわかるんですか?
宮田さん:“人の道”と“水の道”は動き方が違うんですよ。
土屋:ここは古街道ってわかりやすい場所はあるんですか?
宮田さん:古いお寺や神社はだいぶ昔からあるので、そこに繋がる道は古街道なのではと参考になりますよね。
つる子:多摩で古街道を見たい!となるとどのあたりにありますか?
宮田さん:丘陵地ですね。「多摩丘陵」がいちばん古街道がよくわかるんですよ。目で見てわかる場合と、地下に埋まっている場合と2種類あるんです。目で見てわかるのは(ここ、窪んでいる! 草ボウボウだけど昔の道なのでは?)と発見する場合もあるし。もう一つは、崖がある所。崖を見ると当時の地層の中に道の跡ってはっきり出ているんですよ。コンクリートのように硬い。
土屋:そういうことか。地層も道路で形成されて硬いと。
宮田さん:そうです。しかも、洗面器状の穴がはっきり見えたりするわけですよ。それで、(これは鎌倉街道に違いない!)(古代の道に違いない!)と。
土屋:多摩の古街道で、宮田さんが一番好きな場所は?
宮田さん:「町田市」に「小野路」という所があって、ここには「新撰組の資料館」があって。「近藤勇」や「土方歳三」たちが剣術の出稽古に来ていたんです。「多摩センター」から「永山」に向かう途中に「多摩ニュータウン」が終わって、山の中に入るんですよ。その中に奇跡的に源頼朝たちが使った「鎌倉街道」が残っているんですよ。
土屋:それは、山の中に!?
宮田さん:はい。しかも、「多摩ニュータウン」から一歩、中に入った所に。目で見てわかる古街道が何十キロと延々と続いていて。「町田」の一番にぎやかな商店街にまで続くんですよ。
つる子:ええ!
土屋:(写真を見て)本当だ! ちゃんと道だ!
宮田さん:これはまだ誰も気が付いていない状態で。僕らがずっと口をつぐんでいるのは・・・ハイキングで行く人が増えてしまうと、農家の方が困ってしまうんですよ。立ち入り禁止になってしまうのも困るので。だから自分たちの中でしか共有しないんです。
土屋:今、ラジオで喋っちゃってますけど(笑)。
宮田さん:ピンポイントの場所は喋ってはいないので(笑)。
つる子:(笑)。
宮田さん:山の中にある道と「町田」の一番にぎやかな商店街にある道が、同じ道なんですよ。その違いがおもしろいですね。
土屋:教えてもらうのではなくて、自分で(ここかも!?)って発見したいね! そういう喜びやおもしろみがありますよね。多摩にはいっぱい古街道があるというのがわかりました。今日はお時間になってしまいました。ぜひ、またお越しいただきたいですね! おそらくまだ2%くらいしか話せてないと思うので(笑)。
宮田さん:5%くらいですね(笑)。
つる子:(笑)。
土屋:さっそく今週は、多摩エリアを中心に古街道について伺ってきました。古街道研究家、宮田太郎さん、ありがとうございました。
宮田さん:さっそくありがとうございました。
(TBSラジオ『東京042~多摩もりあげ宣言~』より抜粋)