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なぜ奈良時代に血なまぐさい争乱が続いたのか?「長屋王の変」の黒幕とは

草の実堂

画像:長屋王 イメージ アイキャッチ public domain

平城京を中心に、東大寺・興福寺・春日大社などの壮麗な寺社が建立され、国際色豊かな仏教文化、すなわち天平文化が花開いた奈良時代(710~794年)。

その84年間は、悠久の歴史ロマンあふれる時代として人々に親しまれている。

しかし、奈良時代の実態は、そうしたイメージと全く異なり、全時代を通じて天皇・皇族・貴族の間で、血で血を洗う争乱が繰り返された時代だった。

なぜ、奈良時代に血なまぐさい争乱が続いたのか?

今回は、奈良時代の初めに権力を確立した藤原不比等とその子・藤原四兄弟に焦点を当てつつ、有力皇族の長屋王が排除された「長屋王の変」を考察していこう。

奈良時代に皇族・貴族による熾烈な争いが起きた理由

画像:武装した貴族のイメージ(日本服飾史)

奈良時代に、なぜ皇族・貴族間で熾烈な抗争が起きたのかを考えてみたい。

その本質は言うまでもなく権力闘争にほかならない。

こうした政争は次代の平安時代にも頻繁に見られるが、敗者に対する処罰の厳しさを比べると、奈良時代のそれはあまりに苛烈であったといえる。

現代に生きる私たちは、古代の天皇や皇族・貴族にどのようなイメージを抱いているだろうか。

白粉を塗り、細い眉を描いた貴公子が、光源氏のように恋愛に生きる姿、そうした優雅な姿を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。

しかし、実際の奈良時代の天皇・皇族・貴族の多くは、太刀や弓の技を習得し、馬を自在に操るなど、武人としての一面をも備えていた。

画像:持統天皇 public domain

奈良時代に入ると、天皇の地位はある程度確立する。

その背景には、645年の乙巳の変とそれに続く大化の改新によって中央集権体制が進展したこと、さらに672年の壬申の乱を経て、天武・持統朝において天皇を頂点とする皇親政治が形成されたことがあった。

しかし、この「天皇を頂点とする体制」そのものが、皇族や貴族たちによる政争を誘発する要因ともなったのである。

特に、新興勢力である藤原氏と、氏姓制度の時代から大王家と緊密な関係を保ってきた旧来の豪族との間での対立は、避けがたいものとなった。

これらの豪族の多くは「武」をもって大王家に仕えてきた者たちであり、血気盛んな彼らは藤原氏の専制を許すことなく、しばしば武力によって立ち上がった。

その結果、奈良時代の政争は、まさに血で血を洗う抗争へと発展していったのである。

新興貴族・藤原氏隆盛の礎は奈良時代だった

画像:藤原不比等 public domain

奈良時代の政治史に重要な足跡を残すとともに、その後の藤原氏隆盛の礎を築いたのが、中臣(藤原)鎌足の次男・藤原不比等(ふじわらのふひと)である。

不比等は、大化の改新の最大の功臣である鎌足の子でありながら、持統天皇のもとでは一官吏として出発する。

しかし、やがて持統朝で頭角を現し、大宝律令の編纂など、朝廷が進める律令制の確立に尽力した。

さらに、不比等は長女の宮子(みやこ)を持統天皇の孫にあたる文武天皇の妃とし、のちに誕生した聖武天皇を通じて、天皇家の外戚としての地位を確立した。

画像 : 第42代・文武天皇 public domain

文武天皇は、持統天皇が寵愛し皇位継承を期待したものの早世した草壁皇子(天武天皇と持統天皇の子)の子である。

そのため持統天皇は、14歳という異例の若さで文武天皇を即位させ、さらに自らは太上天皇(太政天皇)として後見に就いた。

持統太上天皇にとって、文武天皇は草壁皇子の血脈を継ぐ希望の星であったといえる。

そのような状況の中で、不比等は文武天皇の外戚として、持統太上天皇との関係をいっそう深めていった。

やがて不比等は、次女の長娥子(ながこ)を、かつて草壁皇子の政敵であった太政大臣・高市皇子(天武天皇の長子)の子である長屋王に嫁がせた。

画像 : 光明皇后 public domain

さらに三女の安宿媛(あすかべひめ/光明子、のちの光明皇后)を、孫にあたる聖武天皇に嫁がせ、藤原氏と天皇家との結びつきを盤石なものとしたのである。

不比等の死後、その権力は安宿媛の兄たち、すなわち武智麻呂(むちまろ/南家)・房前(ふささき/北家)・宇合(うまかい/式家)・麻呂(まろ/京家)の、いわゆる藤原四子に引き継がれた。

この四兄弟こそが、のちに日本の歴史に長く君臨する藤原氏の源流となるのである。

長屋王を葬った黒幕は聖武天皇だった?

画像:長屋王 イメージ public domain

藤原四子は、聖武天皇のもとでその勢力を着々と伸ばしていった。

そして彼らは、天皇家と藤原氏の結びつきをさらに強化するため、聖武天皇に嫁いだ妹・安宿媛(のちの光明皇后)の立后を目指すこととなる。

しかし、その前に立ちはだかったのが、当時の政府において最高権力者であった左大臣・正二位の長屋王であった。

神亀6年(729年)、下級役人たちから「長屋王が呪詛により国家を傾けようとしている」という密告がなされる。

直ちに式部卿・藤原宇合が朝廷軍を率いて長屋王邸を包囲し、舎人親王や藤原武智麻呂ら太政官の官人たちが王を厳しく糾問した。

その結果、長屋王は謀反の罪を問われ、妃の吉備内親王およびその皇子たち(膳夫王・葛木王・鉤取王)、さらに石川氏の娘が生んだ桑田王とともに、自死に追い込まれてしまう。

この事件の特筆すべき点は、密告から王たちの死に至るまで、わずか3日間という異例の速さで処理されたことである。

「長屋王の変」の原因としては、従来、長屋王が安宿媛の立后に反対していたためとする説が定説であった。

しかし近年の研究では、吉備内親王が生んだ男子たちが皇位継承の有力候補となりうることを恐れた藤原四子が、長屋王に謀反の濡れ衣を着せ、王夫妻および男子たちを抹殺したとする見方が有力となっている。

その根拠の一つとして、不比等の娘・長娥子が生んだ安宿王・黄文王・山背王が罪を問われず、また長屋王の兄弟姉妹にも連座の適用が及ばなかったことが挙げられる。

画像:聖武天皇 public domain

このことから、「長屋王の変」を主導したのは藤原四子のみならず、長屋王の男子たちが皇位継承者となることを恐れた、もう一人の人物、すなわち聖武天皇自身であった可能性も指摘されている。

すなわちこの事件は、藤原四兄弟の策動と天皇の思惑が一致して進められた、共同の政治的排除であったとも考えられる。

その結果、藤原四兄弟は安宿媛を皇后(光明皇后)とすることに成功し、藤原氏の外戚体制を確立した。

その後、天平9年(737年)に天然痘の大流行が起こり、藤原四兄弟は相次いで病没した。

その後の奈良朝は、聖武天皇と藤原四子の妹である光明皇后の主導によって推移していくこととなるのである。

※参考文献
木本好信著 『奈良時代-律令国家の黄金期と熾烈な権力闘争』中公新書刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

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