阪神タイガースの歴代監督と最高成績、藤川球児新監督がタテジマ復帰
球団生え抜きの投手出身監督は村山実以来
阪神タイガースは14日、退任が発表されていた岡田彰布監督に代わって藤川球児氏が新監督に就任することを発表した。
1980年生まれの44歳で、いわゆる「松坂世代」では楽天で指揮を執った平石洋介氏以来2人目の監督就任。球団の投手出身監督は星野仙一氏以来、生え抜きでは村山実氏以来となる。現役時代、「火の玉ストレート」でファンを魅了し、日米通算245セーブを挙げた名クローザーが再びタテジマに袖を通す。
岡田前監督はオリックス時代も含めて監督通算740勝、阪神球団史上最多552勝を挙げ、球団史上では石本秀一、若林忠志、藤本定義に続いて4人目の複数回優勝した監督となった。
藤川新監督は強い阪神を継承し、いきなり結果を求められる難しい立場でもある。2025年に創設90周年を迎える阪神の歴代監督を振り返ってみたい。
初代「ミスタータイガース」藤村富美男は2位が最高
1935年に大阪タイガースとして創設され、翌1936年の第1回日本職業野球リーグ戦で初代監督を務めたのは森茂雄だったが、7月に解任。2代目監督に就任した石本秀一は1937年秋と1938年春の2度、チームを優勝に導いた。
1940年から2年間は松木謙治郎が選手兼任監督。松木は2リーグ分立した1950年から54年にも監督を務めた。1942年から就任したのが若林忠志だ。通算237勝の名投手が兼任監督として指揮を執り、1944年に優勝。終戦後に選手兼任監督に復帰すると1947年にも優勝を果たした。
1955年に就任した岸一郎がシーズン中に退任すると、初代「ミスタータイガース」と呼ばれた藤村富美男が兼任監督に就任。1946年に続く2度目の登板で、56年、57年は2位になったが、優勝には届かなかった。
吉田義男が初の日本一監督に
1958年から指揮を執った田中義雄が2シーズンで退任し、金田正泰は2年目途中に退任。1961年シーズン中にヘッドコーチから昇格したのが藤本定義だった。巨人の初代監督を務め、巨人と阪神で指揮を執った唯一の人物でもある。
1962年に小山正明、村山実らの活躍で2リーグ分立後初優勝。1964年にも優勝を果たした。藤本は1965年限りで総監督となり、後任を杉下茂投手コーチに譲ったが、翌1966年途中で杉下が辞任したため監督に復帰し、68年まで務めた。
1969年の後藤次男を挟んで1970年から指揮を執ったのが、当時33歳の2代目「ミスタータイガース」村山実だった。1年目は自らマウンドにも上がって14勝を挙げたが、2位どまり。結局3シーズンでペナントは奪えなかった。
その後2シーズンは金田正泰が指揮。1975年に就任したのが「牛若丸」吉田義男だ。後に計3度も監督を務める吉田は背番号1を背負い、3シーズン指揮を執ったが、1976年の2位が最高だった。
1978年に後藤次男が2度目の監督を務めたが、球団初の最下位に転落。翌1979年から指揮を執ったのが球団史上初の外国人監督ドン・ブレイザーだった。メジャーリーグで培った「シンキング・ベースボール」を導入し、南海ヘッドコーチ時代には野村克也にも多大な影響を与えた。しかし、阪神では2年目シーズン中に退任。ヘッド兼打撃コーチだった中西太が受け継いだ。
1982年からは安藤統男が3シーズン務め、1985年に指揮を執ったのが2度目の就任となった吉田義男だ。ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布の強力クリーンアップを中心に打ちまくり、21年ぶりのリーグ制覇。さらに西武との日本シリーズも制して初の日本一に輝いた。
わずかに優勝に届かなかった中村勝広
日本一から2年後の1987年に最下位に転落して吉田義男が退任すると、「切り札」と目された村山実が2度目の監督に就任した。打倒・巨人に執念を燃やしたが、1年目が最下位、2年目が5位に終わり、わずか2シーズンでユニフォームを脱いだ。
その後を継いだのが中村勝広だった。1992年には新庄剛志、亀山努ら若手が躍動し、シーズン最後まで優勝を争って2位。しかし、頂点には立てず6年目の1995年シーズン中に途中休養となった。監督代行を務めた藤田平が翌1996年も正式監督として指揮を執ったが、最下位に沈んだため9月に解任された。
柴田猛監督代行を経て、1997年から3度目の監督を務めたのが吉田義男。しかし、西武からFA宣言した清原和博の獲得に失敗し、大物助っ人マイク・グリーンウェルは5月に退団するなど戦力に恵まれず、1年目は5位、2年目は最下位に終わった。
吉田の後を受けて招聘されたのが、ヤクルト監督として実績を残した野村克也だった。他球団より見劣りする戦力ながら一時は首位に立つなど、巧みな用兵と戦術を駆使して注目を集めたが、結局は3年連続最下位。当初は4年目に意欲を見せていたが、沙知代夫人が脱税容疑で逮捕され、2001年12月に辞任した。
1995年以降、7年間で最下位6度。「暗黒時代」と呼ばれる低迷期だった。
18年ぶり優勝に導いた星野仙一
野村監督の辞任で急遽、バトンを受けたのが星野仙一だった。1年目の2002年は4位だったが、オフには自ら動いて金本知憲、伊良部秀輝、下柳剛らを獲得。翌2003年に18年ぶりのリーグ優勝を果たした。
健康上の理由で勇退した星野監督の後を受け継いだのが岡田彰布だ。ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之のリリーフ陣「JFK」を確立し、2005年にリーグ優勝。首位独走からまさかのV逸となった2008年に辞任した。
2009年から3シーズンは真弓明信。日本一に輝いた1985年のリードオフマンは4位、2位、4位と優勝には届かず退任した。2012年からは和田豊が指揮。2年目から2年連続2位だったが、4年目の2015年限りでユニフォームを脱いだ。
金本知憲は2016年から監督に就任し、1年目は4位だったが、2年目には2位に躍進。しかし、3年目に最下位に沈み辞任した。後を受けて第34代監督に就任したのが、東北福祉大で1年先輩にあたる矢野燿大。2022年はキャンプイン前日にシーズン限りの退任を表明して波紋を広げたが、最終的には3位だった。
2023年から2度目の就任となった岡田彰布は18年ぶりのリーグ優勝、38年ぶりの日本一を達成。2024年は2位に終わり、2年契約満了で、第一次政権時代に「JFK」として一本立ちさせた藤川球児にバトンを渡した。
藤川監督は「強い阪神」を持続させ、強固な戦力基盤を構築できるか。コーチ経験もなく未知数な部分が多いだけに、その手腕が注目される。
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記事:SPAIA編集部