歌手デビューから45年 “KING OF IDOL” 田原俊彦は一度も足を止めることなく走り続けてきた
45周年を迎えた “KING OF IDOL”
田原俊彦は、1979年に放送されたTBS系ドラマ『3年B組金八先生』へのレギュラー出演を自分の “デビュー” と位置づけており、オフィシャルでは2024年をデビュー45周年としている。この節目を記念し、全国ツアー『45th ANNIVERSARY TOSHIHIKO TAHARA DOUBLE ‘T’ TOUR 2024 愛だけがあればいい』を開催していた。ただし、歌手としてのデビュー曲「哀愁でいと」を基準にすると、2025年がアニバーサリーイヤーとなる。そこで、還暦を過ぎ、歌手デビュー45周年を迎えた “KING OF IDOL” の紆余曲折の歩みをここでトレースしてみたい。
アイドルシーンの過渡期と田原俊彦の登場
1980年代を迎えるにあたり、日本のアイドルシーンは大きな過渡期を迎えていた。女性アイドルでは、絶対的なトップスターだった山口百恵が三浦友和との結婚を前提とした交際を公表(1980年3月に引退を宣言)。社会現象化したピンク・レディーの人気は完全に下火となっていた。男性アイドルでは “新御三家" として1970年代を席巻した西城秀樹、郷ひろみ、野口五郎が20代半ばを迎え、ファンの年齢層が上昇。それぞれ、“脱アイドル” を模索する動きが見られた。一方で1970年代後半にデビューしたアイドルは粒が小さく、時代の顔になるような存在は生まれなかった。数年後には、第2次ベビーブーム(1971年〜1974年)に生まれた世代がティーンエイジャーになる。こうした背景の中で、男女ともに新たなアイドルの登場が求められていた。
そのタイミングで注目されたのが、『3年B組金八先生』に出演していた田原俊彦、近藤真彦、野村義男だった。同一事務所に所属する3人はドラマ放送中から売り出され、短期間で爆発的な人気を獲得。やがて “田原・野村・近藤” の漢字1文字を音読みして組み合わせた “たのきんトリオ” という名称が与えられ、新時代を担う男性アイドルとして本命視される存在となった。一方、女性アイドルシーンでは、“ポスト山口百恵” を狙った有力新人が続々とデビューを控えており、その中には1980年4月に「裸足の季節」でデビューする松田聖子がいた。
たのきんトリオは1980年春より、フジテレビ系学園ドラマ『ただいま放課後』にレギュラー出演。また、田原は単独でNHKの『レッツゴーヤング』で番組内限定男女混合グループ、サンデーズの一員としても活動を開始。松田聖子もサンデーズに同期加入しており、ここで田原俊彦と松田聖子が並んだということは、1980年代のアイドル史における重要な出来事だった。
シーンを塗り替えたデビュー曲「哀愁でいと」
『ただいま放課後』に加え、TBS系ホームドラマ『心』にも出演するなど、テレビを中心に大量露出を図っていた “トシちゃん” こと田原俊彦は、1980年6月にシングル「哀愁でいと(NEW YORK CITY NIGHTS)」でついに歌手デビューを果たす。この曲は、アメリカのアイドルシンガー、レイフ・ギャレットの「New York City Nights」のカバー曲だった。当時、日本のアイドルが欧米のポピュラーソングをカバーすることは珍しいことではなく、前年には田原と同事務所に所属する川崎麻世が、同じレイフ・ギャレットの「ダンスに夢中(I Was Made For Dancin')」を「レッツゴー ダンシング」のタイトルでカバーした例もあった。
「哀愁でいと」は、ディスコサウンドを取り入れた軽快なリズムとキャッチーなメロディが特徴で、田原はそのダンサブルなパフォーマンスで視聴者を魅了した。テレビでの歌唱時には4人組のバックダンサー “ジャPAニーズ” を従えて華やかなステージを展開。この歌手デビューはトシちゃんの人気を決定づけるものとなり、「哀愁でいと」はオリコン調べで約70万枚の売上を記録した。同チャートでの最高位は2位だったものの、TBS系『ザ・ベストテン』では登場8週目に3週連続で第1位を獲得した。
「哀愁でいと」の大ヒットにより、1980年末に近藤真彦が「スニーカーぶる〜す」でデビューするまでの半年間、男性アイドルシーンは田原の独走状態。同じ時期、松田聖子のセカンドシングル「青い珊瑚礁」もヒットチャートを駆け上がり、『ザ・ベストテン』では1位を記録。こうして、田原俊彦と松田聖子はアイドル新時代のアイコンとして広く認識されるようになった。
アイドル新時代の到来と市場の拡大
1980年秋、田原俊彦と松田聖子はグリコ『アーモンドチョコレート・セシルチョコレート』のCMで共演。シンメトリーな関係にあった2人が世間にアイドル新時代の到来を強く印象付けたことは間違いない。同CMで使用された田原のセカンドシングル「ハッとして!Good」はオリコン初登場1位を記録。一方、松田聖子も3曲目の『風は秋色』で初登場1位を記録。2人はこの年、数々の音楽賞で新人賞を獲得し、大晦日には揃って『NHK紅白歌合戦』への初出場を果たした。
1980年のオリコン年間チャートを振り返ると、トップ30内に曲を送り込んだアイドルは田原俊彦と松田聖子以外にいない。両者は前年に「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を大ヒットさせた西城秀樹や、引退フィーバーに湧いた山口百恵を上回る人気を得ていたのである。特に「哀愁でいと」は、もんた&ブラザーズ「ダンシング・オールナイト」、久保田早紀「異邦人」、クリスタルキング「大都会」、シャネルズ「ランナウェイ」、長渕剛「順子」、海援隊「贈る言葉」、オフコース「さよなら」など、錚々たるヒット曲に続く年間10位にランクインしている。
男女のトップアイドルが同時期に登場したことで、アイドルを扱うメディアが増え、アイドルファン層が大きく拡大した。この状況を受け、続々と新人がデビューすることで、アイドル文化は大きな発展を遂げる。つまり、田原俊彦と松田聖子の2人は
1980年代のアイドルブームの土台を作った最大の功労者なのである。
テレビが中心にあった時代の最先端を疾走
以後、田原俊彦は栄光の10数年を過ごす。テレビが娯楽の中心にあった時代、その最先端で躍動したのだ。たのきんトリオとしては、テレビの冠番組を持ち、主演映画がハイペースで公開され、2度のスタジアムコンサートツアーも実現。田原個人では「哀愁でいと」から「ジャングルJungle」まで、37作連続でオリコンシングルチャートTOP10入りという当時の最多記録を打ち立てた。音楽番組への出演も際立っており、TBS系『ザ・ベストテン』では最多出場記録を誇り、フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』には158回も出演している。
田原の楽曲は陽気なポップス、ディスコサウンド、ジャズ風アレンジの曲、ラテン調の曲、ミディアムバラード、さらにブラックミュージックの要素を取り入れた曲など、非常に多様だった。ダンスパフォーマンスでは、マイケル・ジャクソンに影響を受けながらも、多彩なダンスの技法を取り入れた。それを独自のスタイルに昇華させ、口パクなしで歌い踊る姿勢を貫いた。大事なことなのでもう一度確認する。口パクなしで歌い踊る姿勢を貫いた。
1980年代半ばを過ぎると人気は一段落するが、1988年にフジテレビ系の主演ドラマ『教師びんびん物語』とその主題歌「抱きしめてTONIGHT」のヒットによって復活を遂げる。この頃から俳優業に力を入れ、約5年間にわたり主演ドラマが途切れることなく制作された。
栄光の時代の終焉と長く続いた苦境
だが、ある時、栄光の時代にピリオドが打たれる。1990年代、プロダクションを独立したことでメディア露出が減少。『速報!歌の大辞テン』(日本テレビ系)、『うたばん』(TBS系)『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』(フジテレビ系)といった90年代後期から2000年代にかけての主要音楽番組に田原の姿はなかった。こうしてテレビから消えた田原は、徐々に俳優業からも距離を置くようになり、自らの本分である歌とダンスに専念する道を選んだ。
そんな 状況にあっても、田原が守り続けたものがある。それは、毎年のシングルリリース、そしてライブツアーの開催である。 しかし、リリースしたシングルがオリコンの100位以内にも入らない状況が続き、ついにはメジャーレーベルとの契約が途切れる。以降は長きにわたりインディーズでのCDリリースが続いた。ライブでは小さなホールの客席が埋まらないことも1度や2度ではなかったようだ。2000年代になると、田原俊彦をメディアで目にする機会は極めて稀になった。当時、隆盛を極めたインターネットの掲示板では、“過去の人” として扱われていた。
苦境の時代は、栄光の時代と同じくらい、いやそれを上回る長さだった。しかし、どんな状況でも田原はステージに立ち続けた。観客に対し、常に全力を尽くし、最大限のパフォーマンスを提供した。その姿勢に触れた観客たちの、“トシちゃんよかったよ!” “昔と変わらなかった” の声が、時間をかけてネットや口コミを通じて徐々に広まっていった。そして、この支持が次第に田原の活動を後押しする大きな力となっていくのだった。
テレビ復帰をきっかけにファンの回帰現象が生まれる
風向きが変わるきっかけは2つあった。ひとつは、2011年よりTBS系のバラエティ番組『爆報!THE フライデー』に “スペシャルゲストMC” としてレギュラー出演したことだ。テレビで育った田原が再びテレビに戻ったことは、若き日にトシちゃんが好きだった人には刺激的なことだった。また、若い世代が名前と顔を知る機会にもなった。
番組とのタイアップで、50歳の記念シングルとしてファンへのメッセージソング「ヒマワリ」をリリース。さらに、2012年には氣志團の綾小路翔が作詞を担当した「Mr. BIG」がオリコンチャートのシングルチャートで初登場26位を記録した。 田原のシングルでTOP30入りは実に18年8か月ぶりだった。この年月の長さは想像を絶するものである。ライブ会場には、かつてのファンがどんどん戻ってくる現象が生まれていった。また毎年、「哀愁でいと」の発売月と同じ6月にシングルをリリースし、それをファンは心待ちにするというルーティンも確立された。ただし、それらも当時はインディーズでのリリースだった。
還暦を過ぎてもなお自己最高のステージを
2017年、人気の再浮上もあり田原俊彦はユニバーサルミュージックと契約し、約11年ぶりにメジャーレーベルに復帰。活動の安定感が増す。戻ってきたファンの口コミがさらに広がり、新しい世代のファンも増えた。また、栄光の時代を知る男性ファンが会場に集まりだし、SNSを通じたファン同士のつながりも強化されていった。
2019年には、『3年B組金八先生』から数えたデビュー40周年を迎え、NHKホールで記念ライブを開催。続くコロナ禍の2020年にはオンラインイベントや生配信ライブを展開し、ステイホームが叫ばれた時期にもファンとの距離を縮める新たなアプローチを積極的に行った。そして、2021年には東京国際フォーラムで還暦記念ライブを成功させる。トップアイドルが60歳になったのだ。その後も、6月のシングルリリース、夏から秋の全国ツアー、くわえて年末のディナーショーというスケジュールを欠かさず続けている。
60歳を過ぎても往年と変わらぬパフォーマンスを披露し、むしろその精度と完成度にはさらに磨きがかかっている。それは、ファンにとって大きな誇りでもある。世の中と芸能界の状況が変わり、地上波のテレビで歌う機会も増加。SNSでは、田原がテレビの音楽番組に出演するたびに “トシちゃんはヤバい” “昔より凄い” という称賛の声が相次ぎ、それが恒例行事のようになっている。
「哀愁でいと」から45年。2025年2月に64歳を迎える田原俊彦は、これまで一度も足を止めることなく走り続けてきた。そして現在も、自己ベストを更新し続けている。自ら掲げる “KING OF IDOL” の称号は、そのキャリアと現在の活躍を見れば、まさにふさわしいものだといえるだろう。