『戦国時代の闇』大名たちが黙認した残酷な「乱妨取り」~雑兵の報酬は“略奪”だった
数多の有名武将がしのぎを削り、名声を高めた戦国時代。
武将や土豪など、ある程度の地位にある者は戦に勝利すれば、主君から褒美や所領を得られた。
しかし、歴史に名を残さない大勢の雑兵たちには、よほど大きな手柄がない限り、大した報酬や優遇措置は与えられなかったという。
かの織田信長は「兵農分離」を先駆けて取り入れ、雑兵にも給与として金銭や物資を与え、常時動員可能な戦闘要員として組織化していた。
だが、信長が台頭する前から日本各地では戦乱が相次ぎ、多くの農民や雑兵たちが戦に駆り出されていた。
なぜ彼らは、少ない報酬で命を懸けて戦に参加していたのだろうか。
それは、戦に勝利したときに得られる「うま味」が存在していたからである。
今回は、戦国時代に行われていた残酷な略奪行為「乱妨取り(らんぼうどり)」について紐解いていく。
乱妨取りとは
乱妨取りとは、戦国時代から安土桃山時代にかけて各地で行われていた、戦のあとで雑兵が集落や農地、町屋などから食料や金品、さらには人間を強奪する行為である。
「乱妨取り」を省略して「乱取り」とも呼称される。
戦国時代の軍隊は、主に総大将のもとに家老や侍大将がつき、その下に足軽大将や足軽・農兵などの下級兵が配属される階層構造で編成されていた。
その人数配分は地位の高さに比例してピラミッド型になるため、当然下層を支える身分の低い兵たちの人数が最も多くなる。
戦国時代の初期から中期にかけては、大名や武将にも十分な資金がなく、農兵などの雑兵一人ひとりに給与を支給する余裕はなかった。
戦で手柄を立てた者には、年貢の減免といった優遇措置が与えられることもあったが、国の情勢次第ではそれすら実現しなかった。
一応、戦を本業とする足軽であれば多少の待遇は期待できたが、農業を本職とし、領主に徴兵されたときだけ戦に駆り出される農兵には報酬も配給もなかった。
そんな彼らにとっては、戦後の「乱妨取り」こそが報酬だったのである。
乱妨取りの実態
では、実際に乱妨取りは、どのように行われていたのだろうか。
農兵たちは自軍が戦に勝利すると、勝利の余韻に浸る間もなく敵地の集落に押し入った。
そして収穫直前の稲を刈り取って持ち去ったり、民家から金品や家財を強奪したり、人を誘拐したりなど、好き放題に略奪行為を行った。
特に、女性や子供は乱妨取りの犠牲になりやすく、身ぐるみはがされて暴行された後に、奴隷として売り飛ばされてしまうことも少なくなかった。
奴隷として売られた人々には二束三文の値が付けられ、日本国内の他国に売られるだけではなく、南蛮貿易商に引き渡されて海外に売り飛ばされることもあったという。
そんな雑兵たちの乱暴狼藉を、軍の上層部が知らなかったわけではない。むしろ知った上で黙認されていた。
多くの戦国大名や戦国武将は、十分な報酬を与えられない代わりに、乱妨取りを利用していたのである。
乱妨取りをする雑兵も、敵地の住民に同情などしてはいられない。
命がけの戦に参加しているのだから、何か持ち帰れるものを得ることに必死になったのだ。
加熱する「乱妨取り」によって起きた武田軍での珍事
甲斐国の武田信玄や越後の上杉謙信など、後世に「仁政」や「義将」として語られる戦国大名たちでさえ、敵地での乱妨取りを黙認するどころか、むしろ公認していたと伝わっている。
しかし雑兵の中には、もはや戦には専念せず乱妨取りにばかり夢中になる者も少なからずいた。
確かに効率を考えれば、そのような行動に出る者が多くなるのも無理はない。
武田信玄は信濃侵攻の際、勝機を見て雑兵たちの士気をさらに高めるため、乱妨取りを許可した。
しかし、これを機に戦闘を放棄して陣を抜け出し、略奪に走る者が続出し、軍の統制に深刻な問題を抱えることとなった。
しかし乱妨取りを禁じてしまうと、雑兵たちの士気が下がることは目に見えており、掴んだ勝機をみすみす逃してしまうことになりかねない。
そこで信玄は、雑兵の士気を下げずに戦に集中させるために、一芝居うつことにした。
雑兵たちが乱妨取りに先走るのを抑えるため、各軍の家臣たちに「夢に神が現れ、乱妨取りを戒めた」と語らせ、そのうえで乱妨取り禁止の命令を出したのである。
主君の目をかいくぐって抜け出す雑兵も、どこで見ているかわからない神の怒りに触れたくはなかったのだろう。
信玄の思惑通りに雑兵たちは乱妨取りを自発的にやめ、戦に集中するようになったという。
織田・豊臣による乱妨取り規制
このように乱妨取りは、雑兵の士気を高めるための「必要悪」とされていた。
しかし信玄の例に見られるように、勝利目前で兵が油断しやすくなるうえ、田畑の荒廃や住民の減少によって、占領後の復興に多大な時間と費用を要するという問題も引き起こしていた。
そこで信長は、無益な被害をもたらす乱妨取りを問題視し「兵農分離策」を推し進めた。
兵として雇用した者には経済的な報酬を与え、衣食住を保障する体制を整えたうえで、乱妨取りを禁じ、違反者には厳罰をもって臨んだ。
それまで農作業と兵役を兼ねていた足軽を城下に集め、日常的に軍事訓練を施すことで、常時出陣可能な常備軍として再編し、自軍の戦力強化を図ったのである。
信長が今川義元と戦った桶狭間の戦いでは、前日の戦で勝利した今川軍の下層兵たちが、乱妨取りのために散開した隙を突き、織田軍が今川本陣に攻め込んで義元の首を取ったとする説もある。
信長に仕えた秀吉もまた、乱妨取りを厳しく取り締まり、兵農分離をより徹底して推進した。
秀吉は太閤検地によって土地の生産高を正確に把握し、農業は農民のみが従事するものと定めたうえで、武士は兵として村から切り離され、城下に住むよう制度化した。
織田・豊臣政権を通じて、足軽の給金は決して多くはなかったが、最低限の衣食住は保障されていたとされる。
大坂夏の陣の「乱妨取り」
戦国時代の後期になると、乱妨取りは徐々に減少していったが、完全に姿を消すことはなかった。
乱妨取りを禁じていた豊臣軍においても、朝鮮出兵の際には各大名の物資や資金が不足し、現地での略奪が横行した。
『島津家記』によれば、島津軍は討ち取った敵兵の証として、遺体の鼻を削ぎ、塩漬けにして日本に送り届けていたという。その中には、女性や子供の鼻も含まれていたとされる。
さらに、生け捕られた現地住民は、男女を問わず奴隷として売られていった。
もちろん本来は禁止されていた行為だが、兵に十分な報酬を与えられなかったため、大名たちは黙認せざるを得なかったのだ。
1615年に起きた大坂夏の陣では、勝者となった徳川軍による大規模な乱妨取りがあったと伝わっている。
敗者となった大坂城下の民衆たちは、徳川軍の雑兵たちに老若男女問わず襲撃され、男は偽首として献上するために首を落とされ、女性は身ぐるみを剥がされて乱暴され、子供は誘拐されるなど、凄惨な略奪行為が行われた。
真田幸村(信繁)の三女・阿梅は、大坂夏の陣の後に発生した乱妨取りの混乱の中で仙台藩に連行され、片倉重長の侍女となった。
後にその素性が明らかとなり、重長の側室に迎えられ、正室の死後は継室になったと伝えられている。
戦争勝者による略奪行為は世界中で行われている
江戸時代以前の日本に限らず、乱妨取りに類する略奪行為は時代、国にかかわらず様々な場所で起きている。
古代中国の兵法書『孫子』では、戦においては後方からの補給に過度に頼らず、敵地で兵糧を調達することが勝利の鍵であると説かれている。
第二次世界大戦では、国際法で略奪行為が禁じられていたにもかかわらず、戦地で勝利を収めた軍は連合国・枢軸国を問わず、金品や美術品、産業資源、さらには人の移送までも行っていたとされる。
人間が争いを繰り返す限り、乱妨取りのような行為が完全に消えることは難しいのかもしれない。
参考文献
藤木 久志 (著)『【新版】 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』他
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部