公開40周年!トーキング・ヘッズの映画「ストップ・メイキング・センス」が色褪せない理由
リ・リ・リリッスン・エイティーズ〜80年代を聴き返す〜Vol.54
Stop Making Sense / Talking Heads
映画「ストップ・メイキング・センス」が40周年
トーキング・ヘッズの映画「ストップ・メイキング・センス」が、“4Kレストア” 版で蘇りましたね。米国では昨年(2023年)9月に公開されて、日本では今年2月2日に上映が始まりました。レストア再発を発表してからオリジナルのネガが行方不明になっていることが判明し、必死で捜索した結果、この映画と全然関わりないMGMの金庫で発見されたとか、音源をリマスタリングしようとしたら、オリジナルのマルチトラック・テープを保管していた会社が倒産しており、そのオフィスビルまで解体されてしまっていたけどソニーの倉庫で見つかったとか、幾多のトラブルと幸運を経ての実現だそうです。
また、今年5月(日本では8月)に発売されるBlu-rayやDVDには、メンバーも見てなかった未公開映像も追加されるそうで、劇場版もパッケージ商品も見逃せない感じですが、怠け者の私は、これを書くために調べるまで、そんなエピソードをつゆ知らず、レストア版はまだ観ておりません。罪滅ぼしに、Blu-rayを予約しました。
そう、この映画は最初の公開が1984年の10月。今年で40周年なのです。ついでにトーキング・ヘッズのバンド結成からは50年。83年にリリースされた5枚目のアルバム『スピーキング・イン・タングズ』(Speaking In Tongues)のプロモーションのためのツアー中、ハリウッドのパンテージ・シアターでの4日間のライブを収録・編集したもので、監督はジョナサン・デミ(Jonathan Demme)。
『羊たちの沈黙』の監督として有名ですが、それは後のこと。当時はまだ無名に近かったのですが、彼らのコンサートを観て感銘を受けたデミが、映画化の企画を持ちかけたそうです。ただ、彼らのほうも大いに積極的だったのは、バンドが制作費の120万ドルを負担し、マネージャーのゲイリー・カーファースト(Gary Kurfirst)がプロデューサーとなったことでわかります。
なんて、したり顔で説明しておりますが、これもあとで知ったこと。オリジナル版のDVDを持っているのですが、トーキング・ヘッズが好きなので買っただけ。たぶん1回観ただけ。ラジカセをステージの真ん中に置いて、おもむろにボタンをガチャ、流れ出す音をバックにデイヴィッド・バーン(David Byrne)が1人で「サイコ・キラー」(Psycho Killer)を弾き語るという冒頭のシーンと、バーンが異様にデカいスーツを着て(まあカバー写真もそうだけど)、出てきたシーンしか記憶になかった。やっぱり怠け者です。
「アメリカン・ユートピア」は理想の音楽映画?!
“ライブ” はやっぱり生で見るのが一番ですよね。収録映像は、何カメも使った贅沢なものでも、顔や手元をアップではっきり見せてくれても、音響がきちんと調整されていても、どうしても二番煎じのお茶のように、靴の上から足を掻くように、どこか物足りないのが普通です。
だから私はライブ映像作品に感動は期待しません。 “どんなパフォーマンスなのかな?” という情報を得られればいい。もし感動するとしたら、それは演奏している音楽そのものにであって “こんなすごい演奏、どんな顔でやってるの” ということに興味はありますが、映像に感動してはないんだな。
ところが… ずっとそんな感じだった私が、珍しく引き込まれてしまったのが、2021年に公開された『アメリカン・ユートピア』(David Byrne's American Utopia)という映画です。デイヴィッド・バーンのブロードウェイでのライブショーを、スパイク・リー監督が映画化した、ライブじゃないみたいなライブ。これを観て私は、ライブ映画、いやもっと広く音楽映画ってこうあるべきじゃないかな、と感じたのです。
“映像” と “映画” という2つの単語を使っていますが、素人考えながら、“映像” は動画全般のことを言い、“映像” を使って “観る人に何かを伝える” という “意図” をもってつくられた作品が “映画” かなと思っています。ほとんどのライブ映像作品には、ミュージシャンのライブに対する意図はあるかもしれないけど、映像における意図はあまり感じられないので、“映画” とは言えないと思います。
映画の意図を表現する方法としては、シーンの設定や俳優の動き・表情・話し方などの演出的なものと、映像の美しさやカメラアングル、カット割りの面白さなど、映像技術的なものがあります。“ドキュメンタリー映画” というものが概してあまり面白くないのは、“映画” になってないからです。テーマが同じでも、フィクションの “映画” だったら、もっともっと、感情や考えも理解できたり、感動することがあります。それが “映画” の力です。
アーティストを扱った音楽映画によくあるのが、ドキュメンタリー風。本人の実写映像などをちりばめながら、関係する人たちがその人についてあれこれ語る、という形ですね。これも私にはホントの “映画” とは思えないなぁ。意外なエピソードに「へぇー」となったりしますが、基本的に当たり障りのないことしか言わないし、本でもいいわけで、映像にする必然性を感じません。
一方、アーティストの生き様をフィクションにした『ボヘミアン・ラプソディ』(Bohemian Rhapsody / 2018年)や『ジェームス・ブラウン 最高の魂を持つ男』(Get on Up / 2014年)、『Ray / レイ』(Ray / 2004年)などは名音楽映画と言われ、確かに惹き込まれ、感動もしましたが、今度はその音楽パフォーマンスが、やはり本物でない分、ちょっと物足りない。つまり、歴とした “映画” ではあるけれど、“音楽映画” として完璧ではないと思うのです。
ところが『アメリカン・ユートピア』。まず、デイヴィッド・バーン本人とそのグループによる音楽パフォーマンスは完璧。みんな役者じゃなくてミュージシャンなんだから、そうであってもらわないと困りますが、それにしても、70歳を超えても衰えを感じさせない、バーンの歌唱と身のこなしには感服しました。
そして、ダンスやフォーメーションの動きも、実に楽しく、美しい。これはそもそもショーのために準備されたものなので、映画の効果ではないのですが、妙な言い方ですが、映画の演出のように思えてきます。ライブ映像って、ふつうはカメラの存在を感じるし、時にはカメラ自体も映り込んでいたりしますが、このライブは何と言うか “今、自分が観ている” ように感じます。映画では映画の中の世界をリアルなものと感じて観ていますが、『アメリカン・ユートピア』はそのようにライブを観せてくれる。ここがスパイク・リー監督の成せる技なんでしょうね、ライブなのに映画であり、映画なのに音楽も本物なのです。
「ストップ・メイキング・センス」もやはり “映画” だった
それで思い出したのは『ストップ・メイキング・センス』です。もう一度観てみないと。
そしたらやっぱりこれは、ちゃんと “ライブ映画” でした。人は違えど、有能な映画監督の力なんでしょうか。聞けばスパイク・リーはこの映画がとても好きだったそうで、『アメリカン・ユートピア』のクレジットにはジョナサン・デミへの “感謝” が表記されているとのことです。デミの “映画力” は、DVDに入っている、たぶん撮ってつないだだけの、アウトテイク映像を見ると明らかです。映画本編の映像は、遥かに美しく、説得力があります。ちなみに、特に光と影のバランスが絶妙だなと思ったら、カメラマンが『ブレードランナー』(Blade Runner / 1982年)などを撮った、ジョーダン・クローネンウェス(Jordan Cronenweth)という人でした。
ただ、例のラジカセのオープニングや、ビッグスーツ、電気スタンドを使ったパフォーマンスなど、演出的なことは既にライブのために、デイヴィッド・バーンやメンバーたちが考えて、取り入れていたものだそうです。そして、バーンの歌唱と独特のアクションはこの時も素晴らしいし、ティナ・ウェイマスもベースを弾きながら常にキュートなダンスを見せてくれます。彼らの動きもライブの観客に向けたものなのでしょうが、細かい所作や表情にまで気配りを感じます。
つまり、彼らのライブそれ自体が、“映画的” なんでしょう。そう思ったのは、いずれもアフリカ系アメリカ人のサポートメンバーが5人いて、その身のこなしはより音楽的で、ふつうにカッコいいのですが、でも彼らがフィーチャーされる場面を観ていると、よくあるライブ映像と変わらないと感じたからです。
トーキング・ヘッズはメンバー4人のうち、バーン、ウェイマス、クリス・フランツの3人が米国の芸術大学の名門、ロードアイランド・スクール・オブ・デザインの出身(残るジェリー・ハリスンはハーバード大学出身)だから、ライブにおいても、何よりアート感覚が大事だったんでしょうね。そんな彼らが映画のプロであるジョナサン・デミやスパイク・リーと “がっぷり四つ” で組んだのですから、面白いものができるはずですね。
4K版に生まれ変わって、また何か発見があるか、楽しみです。