福岡で文化を耕す人 三好剛平が今、「まち」に問いかけたいこと【#1】
福岡にはどんなカルチャーが渦巻いているのだろう。
東京から移住してきた私、長浜優奈がそんな好奇心をもとに、映画、アート、音楽、ファッションなど様々なカルチャーの一端を担う人へのインタビューを通して、福岡のカルチャーの「今」を届けます。
バトンリレー式インタビュー連載「フクオカ カルチャーバトン」1回目は、アジアの映画上映・交流プロジェクト『Asian Film Joint』を主宰するほか、毎週日曜日にLOVE FMのカルチャー情報番組『OUR CULTURE, OUR VIEW』にて福岡・九州のアートシーンを紹介している、三好剛平さん。
福岡の映画・アートシーンのキーパーソンである彼は、このまちの現状に対して、ご自身もずっと考え続けている、ある違和感を抱いているとか。今回は《アジア文化の拠点としての福岡》を象徴する場所であり、三好さん自身が育った百道浜(ももちはま)でお話をお聞きしました。
PROFILE
三好剛平
みよし・ごうへい/プロデューサー。編集者。株式会社三声舎代表。1983年福岡県生まれ。アジア太平洋博覧会が開催された、百道浜で育つ。2006年にラブエフエム国際放送株式会社に入社し、営業やイベント企画などを担当。独立後は福岡を拠点に、映画やアート、音楽など文化芸術にかかわるプロジェクトの企画・制作、執筆などを手掛ける。アジアの映画上映・交流プロジェクト『Asian Film Joint』主宰(2021年〜)。LOVE FMにて毎週日曜AM10:00〜11:00放送中の福岡・九州のアートシーンを紹介するカルチャー情報番組『OUR CULTURE, OUR VIEW』製作・出演をはじめ、RKB毎日放送のラジオ番組『田畑竜介Grooooow Up』内の毎週木曜日AM08:40〜のコーナーでは、週ごとに新作映画や開催中の文化催事の紹介を続けている。
【イベント情報】
三好さんが代表を務める三声舎が主催するアジア映画の上映・交流プロジェクト「Asian Film Joint」が今年も開催されます。
詳しくはこちらから→Asian Film Joint2024
変わりゆくまち 本当にこのままでいいのでしょうか?
福岡市では今、二大中心地である天神と博多で、大規模な再開発プロジェクト「天神ビッグバン」と「博多コネクティッド」が進行しています。2030年までに130棟を超えるビルが、オフィスビルやラグジュアリーホテルを有する商業施設などへと建て替わる予定なんだとか。
このプロジェクトによって、企業の事業拡大や新たな企業の進出や移転、またそれに伴う雇用者の増加などが期待されており、「天神ビッグバン」では約8,500億円、「博多コネクティッド」では約5,000億円の経済波及効果が予想されています。
〈▲ 撮影:東野正吾〉
数字の部分を見ると、「人と環境と都市活力の調和がとれたアジアのリーダー都市」を目指す福岡市のまちづくりは、経済合理性に長けており、真っ当に感じられます。その一方で、変わりゆくまちを複雑な思いで見守る市民もいるようで。
三好さんも、そのひとり。
「まちが何十年と積み上げてきた固有の歴史と文化が、“経済合理性”の一本槍で、刻々と変質していっているように感じています。小さいころから家族で食べに来ていた馴染みのそば屋も、県外から来た友人に『ちょっと良いでしょ?』と自慢出来ていたこのまちならではのお気に入りの場所も、開発のなかで呆気なく失われていき、その変化に自分たちは成す術もありませんでした。
まちの魅力というのは、どのまちとも似ていない、“このまちでしか見られない風景があること”だと僕は思っています。ある風景をまちに根付かせるためには、とてつもない時間と〈営み〉が必要です。だけどもしそれを一度失ってしまったら、再び取り返すことは多分もう、不可能です」
〈▲ 変わりゆくまちの風景のなかに「違和感を感じ続けている」と語る三好さん〉
再開発によって、天神と博多の地価が上がれば、これまでまちを彩ってきた小規模経営の飲食店やカフェ、古着屋、本屋、ギャラリーなどは移転もしくは廃業に追い込まれる可能性は高く、その空白を埋めるのは、おそらく資本力を持つ大手チェーン…。
そうなってしまうと、たしかに〈まちの固有性〉が失われることにもなりかねません。
「もちろん、まちというものは新陳代謝と変化を続けるものですし、僕らがいま守るべきだと感じている風景やその〈固有性〉もまた、せいぜい数十年前に今起きているのと似た、大規模な都市開発によって造られたものであることも理解はしています。それに、“合理的に”考えれば、大きな利害が駆動する経済の側面から玉突きを起こさない限り、まちに本格的な変化や新たな機運が定着しづらいことも、わかってはいるんです」
わかってはいる――だけれども、このまま成るに任せておいて良いのか、という問いがずっとある、と三好さんは言います。それは“失われていくものをただ惜しみ、変えずにおこうとする”ようなノスタルジーや感傷とは少し違う、とも。
「まちに変化は絶対に必要ですが、この土地で、確かに一人ひとりが積み上げてきたはずの〈営み〉に対して、どのように敬意を払って、未来に継いでいくのか?自分たちの歴史に対する倫理みたいな感覚、とでも言えば良いでしょうか。いま、短期的な“合理性”の論理によって、その底が呆気なく抜かされていくのを感じています。この違和感を自分はどう引き受けたら良いのか?ずっと考えています」
さらに三好さんは続けます。
「本来まちとは、一人ひとりの市民が不断に積み重ねてきた〈営み〉の集合体であるはずなのに、いま自分がこのまちの開発のなかに聞いているのは、経済的な合理性を中心に駆動する大きなシステムのなかで飲み込まれていく、一人ひとりの『もうこれは決まったことだからしょうがない』『こういうもんだから』という、諦めを含んだ微かな声たちです。果たしていま、このまちは誰のものになっているのでしょうか?」
三好さんがこうした疑問を抱くことには、ご自身が文化の現場で感じたある実体験にも関係があります。
「福岡市はアジアとの交流を深めるための事業のひとつとして、1991年から2020年までアジア映画に焦点を当てた本格的な国際映画祭『アジアフォーカス・福岡映画祭』を行ってきました。日本で屈指のアジア映画祭だったこともあり、今では世界的映画作家として活躍しているアジアの映画人たちとも、長きにわたって強い信頼関係を結んできた現場でした」
三好さんはこの映画祭で最後の数年間、マーケット部門のディレクター業務に携わっていました。
「アジア各国から映画の作り手(監督やプロデューサー、制作会社)や届け手(国内外の配給会社ら)を数十組招聘し、2日間会場で商談や対話を重ねてもらうんです。それまで“映画”は、途方も無く大きなビジネスの論理によって制作・流通されているものだとばかり思っていましたが、この現場で目の当たりにしたものは、全く別物でした。もちろんビジネスとしての商談内容も大切ですが、それ以上に重要なことは、あくまでひとりの人間と、目の前に対峙する相手の間で交わされる何気ない会話と共感、空気感、そしてそうした時間を積み重ねた先に宿る、信頼関係だったんです」
そのとき三好さんは、どんなに大きく見える文化や状況も、あくまでそれは一人ひとりの人間の〈営み〉の総和であって、そこをどう丁寧に育めるかこそが重要なのだと理解したといいます。
「思えば福岡市が注力してきたアジア映画祭も、30年という長い月日のなかで、福岡の人々とアジアの映画作家たちが、互いに汗もかきながら〈営み〉を積み上げてきたからこそ、このまちの『文化』として市民に、そしてアジアの映画界にも認識され、ひろく根付いてきたものでした。これらはいずれも一例に過ぎませんが、つまり僕がこのまちで文化の現場に携わるなかで感じてきたことは、いつでも一人ひとりの小さな声や〈営み〉への姿勢が大事なのだ、ということです」
このまちで文化に深くコミットしてきた三好さんの実体験と、そこから生まれた、いま変化していくまちに対する違和感。三好さんは、《変わりゆく福岡》に問いを立てます。
「はたして、本当にこのままで良いのでしょうか?」
先代たちが築いた福岡×アジアのカルチャー
三好さんの人生は、福岡が重ねてきたアジアとの交流の歴史とともに育まれてきたといっても過言でありません。彼自身「自分で言うのもおこがましいですが」と前置きをしながら、「僕は1980年代後半から福岡市が“アジアの交流拠点都市”を標榜し、取り組んできた様々な施策によって育まれた“申し子”みたいな人間なんです」と笑って言います。
そもそも福岡とアジアの文化交流が加速する契機のひとつとなったのは1989年。古来より交流の深いアジアにいち早く目をつけた当時の福岡市長・桑原敬一氏が、市制施行100周年を記念して「アジア太平洋博覧会」、通称よかトピアを開催したことがきっかけでした。
時代はバブル絶頂期。171日間で823万人が訪れるなど大成功を収めると、翌年90年にはアジアの文化・芸術・学術を楽しめる祭典「アジアマンス(現アジアパーティー)」や「アジア太平洋フェスティバル」「福岡アジア文化賞」など、アジアにまつわるあらゆる事業を次々と展開していきました。
“アジアの交流拠点都市・福岡”が動き出したころ、三好さんはその渦中にいたのです。
「1990年、僕が小学二年生になる時に、アジア太平洋博覧会が開催されたシーサイドももち地区へ引っ越してきたのが、その始まりです。当時住んでいたマンションは、アジア太平洋博覧会の隣接会場で開催された住宅環境展の“作品”として作られた住宅建築でした。博覧会終了後に販売されたものに両親が応募してみたらたまたま当選し、そのまま住むことになったんです」
91年には、前述した「アジアフォーカス・福岡映画祭」もスタートしています。
「小学生当時は、『今年もなんかやってるな〜』と横目に見る程度でしたけど、まちがアジアで盛り上がっていたのはよく覚えています。毎年9月になったら、父が市役所前広場で開催されるアジアマンスのイベントに仕事で関わってもいたので、家族で会場へ遊びに行っては、珍しいアジア料理を食べるのが、自然と秋の恒例行事となっていました」
その後も福岡市は止まることなく動き続け、福岡市美術館が所蔵する近現代のアジア美術作品を引き継ぐ形で、99年に「福岡アジア美術館」を開館。また96年には、アジア映画のフィルムを収集・保存する機能を持った「福岡市総合図書館」も開館しています。アジア映画を専門とするフィルムアーカイブは世界的にも珍しく、アジアフォーカス・福岡映画祭の上映作品を中心にアジアの名作を所蔵していった同館はその後、日本に2館しかない国際アーカイブ連盟に所属する、重要なアーカイブ施設となっていきます。
その頃、三好さんは中学生。まちの雰囲気が自然とそうさせたのか、映画や音楽、アート鑑賞を楽しむ文化系少年へと成長していきます。そして中学3年生の春、人生で初めて映画館で洋画を1人で観ることに。
「映画館で映画を観るという体験って、なんかいいものだなと感じて、それから見た映画のことを忘れたくないと感想文を書き始めるんです。そうするともっと上手に書きたいなと思って雑誌を買うようになりました。高校生になる頃には、毎月数冊も雑誌を買い漁りながら、将来はカルチャー雑誌を作るんだ! と腹に決め、他の可能性を全部放り出して、ひたすら映画や音楽鑑賞に没頭していました」
食費を映画館のチケットや音楽CDに替えては、感想文を書いたり、雑誌風にまとめたりしながら「これ、最高だったぜ!」と友だちに布教する日々。生来のコミュニケーション能力の高さも手伝って「良いと感じたものを他者に伝えて、気づかせる」ことに夢中だったとか。
今もその姿勢は変わっていないと三好さん。
「よく、そんなにカルチャー好きならなんで作り手側にならなかったの? と聞かれるんですけど、とにかく自分が感動したものを相手に体験してもらうのが楽しかったんですよね。そのためにも、まずは自分の感動にしっくりくる言葉を見つけて、それを相手に伝えてみる。すると相手から『教えてくれたあの映画、よかったよ』とか『あの音楽は私には微妙だったなぁ』といった反応をもらえたり、作品の経験を介した対話の先にまた新しい言葉や魅力が見つかったりすることが、とにかく楽しかったんです」
こうして中学から大学までカルチャーに傾倒するのと同時に、地元で展開されていた福岡アジア美術館やアジア映画祭、アジア文化賞の記念フォーラム等にも本格的に足を運びはじめ、福岡×アジアのバイブスをいっそう強く浴び続けてきたという三好さん。「だからこんな“確変”のような人間が出来上がったんでしょうね」とご自身ではおどけてみせますが、僭越ながら大いに納得してしまいました。
福岡とアジアが交差するこのまちの風景が好き
さて冒頭で触れた、三好さんが感じていらっしゃる違和感と、このまちが展開している今の文化政策について、話を広げてみます。
福岡市は今、「Fukuoka Art Next」を推進中で、下記は公式ホームページから抜粋した言葉。
福岡市は、海を通じて世界とつながり、その長いアジアとの交流の歴史の中で、多様な価値観を受け入れながら、創造力や感性を大事にするという気風や土壌が培われてきました。そこで、福岡市美術館や福岡アジア美術館のこれまでの取組みをさらに発展させ、彩りにあふれたアートのまちをめざし、「Fukuoka Art Next」を推進します。
こうしたビジョンをもとに、再開発中の仮囲いなどを活用し作品の展示・販売を行う「ウォールアートプロジェクト」や受賞作品の買い上げを行うことでアーティストの支援を行う「福岡アートアワード」、福岡のまちをアートで彩るアートイベント「FaN Week」など、多数の事業を行っています。2022年からは、福岡のスタートアップ支援を行うスタートアップカフェの枠組みを活用した「アーティストカフェフクオカ」も開設するなど、結構な勢いでアート施策を推進中です。
一般市民としては、アートを身近に感じられる機会が増えて、アート活動を行う作家も活動の場が広がっているのだから、いい事業なのだとも感じますが…。
しかし三好さんは、これらの事業を少し違う角度から見ているようです。
「大前提として、これまで閉鎖的でもあったアート分野に新たな施策が生まれ、現行プレイヤーを支援したり、新規プレイヤーを増やしたりするのは、とても重要なことだと思います。僕自身も十数年前に福岡市によるアートプロジェクトではじめてディレクター業務を担当させてもらい、失敗も含め様々な経験から少しずつアーティストやアート業界の“生態”に触れられたことが、今の文化仕事の土台になっています。
問題は、近年のこうしたアートやアーティストに関わる事業の多くが、短期的な『成果』や即時的な『価値』といった指標“だけ”にとらわれがちであることです。これは福岡に限ったことではなく、近年の文化業界全般の課題でもあるのですが」
三好さんは今年1月、福岡アジア美術館が所蔵する近現代美術作品の価値が“価格”という視点から取り上げられた記事を例に挙げ、話を続けます。
「その記事は、約30年前に購入されたアジアの美術作品のなかに、現在では800倍の価格に達するものもある、といった内容でした。いま、市民からその存在さえも十分に認識されていないこのまちの美術作品に対して、多くの人に理解されやすい“価格”という価値指標からインパクトを与え、関心を抱かせる。PR手法として見れば、このやり方には一定の有効さはあるかもしれません。
しかしここには、見過ごせない危うさも潜んでいます。このような発信を通じ市民のなかに『価格の高いアートには価値がある』という判断基準が偏って浸透・増強されていったとき、その逆にある『価格で評価できないアートや文化の活動には、価値がない』という理屈にも足場を与えることになってしまいます。
ですがアートや文化の活動の多くは、その発生時点においては、社会のなかで十分に理解されきることもなければ、価値が未確定なままの“わからないもの”であるはずなんです。それがもし今後、『すぐに評価できないものや、“役に立つ”と証明できないものは価値がない』という認識が支配的になったなら、短期的な『成果』も即時的な『価値』も約束しようのないアートや文化の活動自体が、存続出来なくなってしまいます」
たしかに、その記事で紹介されていた今では価格が高騰したアート作品群も、30年前、アジアの現代アート自体がほとんど評価の俎上にあげられてもいなかった当時の美術シーンやマーケットでの評価を思えば、そこには当時『予め約束されている価値』に追従するのとは違った、別の指標や意志があったことも想像されます。
「問題は、バランスです。例えば一方の極として、価格や動員数といった指標をもとにアートの価値や意味を求めていく“わかりやすさ”がある。他方、アートにはもうひとつ重要な極として、作品や活動自体の“わからなさ・測りづらさ・評価できなさ”をどう引き受けて、向き合っていくかという命題がある。その両極を手離さずにいることが大切なんだと思うんです。
そのとき必要になるのは、先ほどの記事で『“値段=作品の価値ではない”という意見もある』と美術館側もコメントされていた通り、ひとつの価値基準だけで物事を単純化してしまわない慎重さであり、また、これまで僕自身が文化の現場でご一緒してきた方々に教わってきた、文化そして人間一人ひとりの〈営み〉へ向けた敬意や倫理観ではないかと思います」
だからこそ、もし今後このまちでアート事業に参入する新規プレイヤーが増える施策が実施される際には、短期的な成果や動員、話題性といった“わかりやすさ”の指標だけではなく、アートの“わからなさ・測れなさ”もきちんと理解し、付き合い抜ける知識や胆力を共有していくような、教育的な活動も不可欠ではないか――そう三好さんは訴えます。
「アートを“答え”ではなく“問い”を共有する装置と捉えること。アーティストは賑わい創出の道具ではないし、作品一つひとつの価値は金額だけに還元されるものでも絶対にありません。もし“わかりやすさ”の機運だけでアートの状況がドライブすれば、文化はすぐにもポピュリズムへと回収されてしまいます」
行政と市民。確かに、各々が置かれた事情から、アートへの関わり方ひとつにも異なるアプローチが生まれる両者ではありますが、市民に美術作品の魅力を広めたいという思いはどちらも同じ、とも言えそうです。実際、先に挙げた“価格”を通じたPR手法が選ばれた現実の切実さについても「理解はできる」と三好さんは付け加えます。
「そこには、自分たちの力不足への反省もあるんです。僕らもこのまちの美術館に所蔵される作品群の意義や価値を理解していたはずなのに、市民の皆さんにその面白がり方を広め、足を運ばせるまでには、まだ全然届いていなかった。
だからこそ僕も1人のプレイヤーとして、信じられる風景を実現するために、とにかく自分にやれることを試し続けてみるしかない、と思っています。僕は福岡とアジアが交差するこのまちの風景が好きだし、これからも見ていたい。そのためには、誰かがその風景を作ってくれるのを待つのではなくて、自分で作ってしまえばいいんだと強く感じています。どんなに小さな状況や現場でも、それがたったひとつあるだけで、このまちでは“全体”に影響が生まれることを実感しているし、そう信じてもいるからです」
文化の本質は耕すこと。成果は後からついてくる
三好さんがお話しされるような風景を実現するためには、何が必要なのでしょう。そもそも、ものすごいスピードで変わっていく福岡という地で、それはどのように実現できるのでしょうか。
「まずこのまちには、大きくスケールさせることを目的化せずに自分の信念を貫く、こだわりの強いプレイヤーがそれぞれの分野にいるし、そういう人たちが割と存在し続けられるまちなんじゃないかと思っています。
それには、まちの人口が多過ぎも少な過ぎもしないことや、生活コストが安価であることなど、色んな要因があると思います。みんなが一つの人気者に群がるのでなく、多様なプレイヤーが併存できていることは、選択肢が多いという意味からも、カルチャーが育つうえでは健全なことだと思います。
また、そういうこだわりの強いプレイヤーたちほど、福岡以外の県や国とも繋がって、軽やかに活動している印象もあるし、それぞれが自分の畑を耕して、ときどきその成果や知見を交換し合える“適度なサイズ感”が息づいていることが、このまちのカルチャーの足腰になっている気がします。それは、いわゆる大きな“経済”や“計画”に頼った原理とも違う、あくまで一人ひとりの意志や、人間同士の身の丈から育まれたこのまち独自の多様性と共闘感覚であって、僕がここで活動を続けていくのには不可欠なものだし、福岡らしい強味じゃないかとも思います」
三好さんはこのインタビューのなかで、「文化を耕す」という言葉を何度も使っていました。それは「文化 culture」の語源が「耕す cultivate」であるように、成果物をただ求めるのではなく、作物が土地に成り続ける状況を育み、保っていくことこそが文化だと考えているからなのでしょう。
ご自身で主宰されたアジア映画の上映・交流イベント「Asian Film Joint」でも、先人たちが耕してきた土壌から生まれた美しい“花”をたくさん見たといいます。
「1991年から30年間、アジアフォーカス・福岡国際映画祭は毎年秋に開催され続けてきたんですが、自分が2021年に『Asian Film Joint』を始めたときに驚かされたのは、このまちの人は『毎年秋になるとアジア映画を見たくなる』習性を身につけていたことです。冗談みたいな話ですが、本当に自分の上映会場にお越しくださったお客さんたちからそういう言葉をもらったんですよ。そのときに、ああ、こういうことが“まちの文化”と言えるものかもしれない、と思ったし、こうした実りを得るまでにはやっぱり30年くらいの時間がかかるものなんだなと、思い知らされた場面でもありました。
『今年は映画祭やらんと?』という言葉ひとつだって、今この瞬間にひょっこり生まれてきたものでは無かった。何十年もかけて、何千人、何万人もの人たちが関わり合って耕されたこの土壌から芽吹いたものだったんです。僕は、今この瞬間にその土壌を貸してもらっているに過ぎない。そんなバトンリレーのなかで、たまたま今、僕がバトンを預かってしまっているだけなんです。
ならば、過去に対しても未来に対しても、歴史的責任を負いながら、なるべくいいかたちで次の走者へとバトンを渡していきたい。そこにはやっぱり、先人たちが積み上げてきた歴史や〈営み〉への敬意が必要だし、“経済的合理性”や“わかりやすさ”によって損切りしていくだけでは片付けられないものが絶対にあると思っています。文化って、人で回っていくものですから」
――はたして、本当にこのままでいいのでしょうか?
インタビュー冒頭で、三好さんの問いを最初に耳にしたとき、とても壮大に聞こえました。それは私自身が変化すること、問いを立てることを避ける典型的な日本人だからかもしれません。
でも、それでも、私はどんな風景が好きなんだろうと心の中で思ったとき、たくさんの風景が浮かびました。まだ見ていたいし、まだまだ可能性がある。そう三好さんの言葉は思わせてくれました。
あなたは、福岡のどんな風景が好きで、これから先どんなまちが見たいですか?
そして、私たちが持っているこのバトンを次の走者へ渡すために、あなたは何をしますか?
※※※※
〈ウェルビーイング みつめる、みつかる。〉を掲げるメディアとして、取材の最後に「どんなとき、あなたは幸せを感じるか」と尋ねてみました。「おっと、これは大きい質問だな〜」とおどけながらも、「最近はずっと“ウェル”に“ビーイング”できているんだと思います。毎日必死ですけど、楽しいですよ」と笑顔で答えた後に、こう続けられました。
「ご質問にお答えすると、僕は新しいものやわからないものと出会う瞬間、そしてそれを自分や他人と一緒にいろんな角度から見て、考えて、『あ!何か捉えられたかも!』みたいな瞬間に幸せを感じるのかもしれないです。そういう瞬間って、ものすごく頼りないものなんですよ。映画にもアートにも“ただひとつの答え”なんて無いし、そもそもわかりきったと思うこと自体、危ないことでもあるから。だけど、自分のなかで、あるいは私とあなたのあいだで、確かな感覚として『こうかもしれない』と熱をもって伝えたくなる瞬間。そこから何かを共有できるかもしれない、そういう瞬間に喜びを感じるのかもしれないですね」