さだまさしが処方する漢方薬「不良少女白書」踏ん張る足に力が入り、心が前に動くのである
誰しもの喜怒哀楽のどこかに必ずある、さだまさしの歌
いきなりだが、さだまさしについての一考察、吉田拓郎の名言を紹介したい。以前、ラジオ番組『吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』にて、“あまり得意なタイプの人ではない” と言いつつも、こう語っていた。
好きとか嫌いと言っていられない。この男才能あるなって。(中略)この人の歌詞は伝承されていくと思うよ。
そう。好きとか嫌いとかとは別のゾーン、誰しもの喜怒哀楽のどこかに必ず、さだまさしの歌はある。そして心の奥底に溜まっていた感情が、ふんわり、不思議な光をまといながら脳内に映し出されるのだ。私はこれを勝手に “さだまさしブロッケン現象” と呼んでいる。
これまでに600曲近い楽曲を発表
さだまさしは、グレープでデビューしてから今年で52年目に突入し、600曲近い楽曲を発表。それらの曲にはもれなく、笑いと楽しさ、哀愁、苦しみと悩みと迷い、空回りへの共感までもが、絶妙に配合されている。まるで漢方薬。これが効くのだ。元気のないときに自分の調子に合わせて選曲し聴くと、じんわり養分が沁み込んでいき、心が動く。かくいう私は、中学校の頃からその “さだ漢方” のお世話になっている。
入り口は不純だった。当時ほのかに想いを寄せていたF君に似ているという理由から、さだまさしさんと南こうせつさんを好きになった。恋愛によくある、好きな人と同じ特徴の人を無条件で好きになる “惚れ伝染” という症状である。しかし、そのおかげで彼の音楽を知ることができた。それから様々な曲を聴いたが、「苺ノ唄」「もうひとつの雨やどり」など、自己肯定感が低く、コンプレックスにうずもれている自分と歌詞が見事に重なった。つらくなったら、さだまさしさんの歌に己の心をバウンドさせながら、思考の底まで行く――。この心地よさよ。
ららら 寂しいよ
るるる 愛しておくれ
(苺ノ唄)
曲に浸って、ワカメのように膨らみ増えまくった自意識をかき分けつつ、心のどん底まで落ちて落ちて…。そうすればいつのまにか “無” になって、ふわっと浮かぶのだ。言うなれば、凹み気分のその先にある、“我思うゆえに我在り” の境地に達するのである。前向きになるというより、このダメさも含め、自分は自分の世界の主人公だから仕方ない受け入れよう、と割り切れるのだ。そして――
とにかくそんな風にさめてしまった方が
傷つかずに済むってわかってるんだ
(恋愛症候群-その発病及び傾向と対策に関する一考察-)
などと、一緒に歌いながらくっくっと笑えてくる。こうやって文章に書くと我ながらけっこうヤバイ奴なのだが “さだ漢方” は、心の栄養補給、毒素排出と、容量を守らずとも効く。助かる。
足を踏ん張り、前に進みたい時に思い出す不良少女白書
今でも私は空気を先回りして読みまくり、盛大にハズして無駄に疲れるというパターンの繰り返しだ。特に、激しい罵り言葉や不確かな情報に埋もれて窒息しそうなここ最近、何度もお世
話になっている “さだ漢方” がある。「不良少女白書」だ。
人には黒く見えるカラスが
自分には白く見えてしまう
黒く見ようと努力したのに
人は大声で聞いてくる
何故 嫌いですか 何故 好きですか
100じゃなければ 0ですか
ああ聴こえない ああ届かない
自分の夢がわからない ああ
(不良少女白書)
必死に周りとすり合わせながら生きているつもりでも、自分を見失う。もはや怪物化したSNSに煽られ、何をしたかったんだろう、これでいいのかなと、風に舞うコンビニのポリ袋の如くブレまくりだが、足を踏ん張り、前に進みたい。そんなとき、私はこの歌を思い出すのである。自分は “大声で聞かれる側” だけではない。時には、無意識のうちに、誰かに大声で答えを急ぎ、怒鳴っているのではないかとハッとする。聴いてもどうすべきか結論は出ない。歌の通り「♪自分の夢がわからない ああ」で終わるのだ。それでも何か、この歌に漬かることで、踏ん張る足に力が入り、心が前に動くのである。
昨年(2024年)12月に開催された『2024 さだまさし コンサートツアー“51”』のMCで、さださんは “音楽を聴けば、一歩だけでも動こうとする力が湧く。そうしてほんのちょっとでも行動すれば、お腹がすき、食べて元気が出て、もう一歩進もうとする” と語っていた。心が少しでも動いたら、体が動くのだ。さだまさしの歌は、何度も私に聞いてくる。“あなたはどうしたい? しあわせになるために” …。溢れかえる情報を浴び、本音が見つからないときのさだ漢方は、ちょっぴり苦い。でも、それがいい。ふと立ち止まることができるから。そしてしばらくすれば――
笑ってよ 僕のために
(道化師のソネット)
なんてふうに、やさしい後味が広がることがわかっているから。