ルネサンス期のヨーロッパで、女性の社会的地位に変化をもたらしたものとは?【額縁のなかの女たち】
当代きっての名案内人・池上英洋さんが西洋美術史の新たな一面を描いた『額縁のなかの女たち 「フェルメールの女性」はなぜ手紙を読んでいるのか』。当時の社会における女性のあり方を明らかにすることで名画誕生の舞台裏に迫った本書より、第三章「ルネサンス 女神の復活と聖母の変容」の試し読みを公開します。
ルネサンス 女神の復活と聖母の変容
ルネサンス(古典復興)は、もとを辿れば十字軍の産物である。聖地エルサレム奪還のために、はるか中東地域へ赴いた数万規模のヨーロッパ人は、そこで自分たちよりもはるかに高い水準の文化に触れる。入浴習慣、絹の手触り、紙や絨毯、そして胡椒をはじめとした各種のスパイス……。商売になると考えた人々も当然ながらあらわれて、貿易と物流が活発化する。遠方の異民族との取引は、誰に対してもその価値を担保できるもの、つまり金貨や銀貨でおこなわれた。かつて貨幣で納税していたローマ時代以来、千年の時を経て貨幣の流通量がふたたび増加する。
何度も繰り返された十字軍遠征は最終的には失敗に終わったが、ヨーロッパに商業の発達をもたらした。地中海をまたいでおこなわれる交易にあたって、その中央に位置するイタリアはその最大の恩恵を受けた。都市では商人や職人たちが同職組合(ギルド、イタリアではアルテ)を組織する。いつの時代でも、経済力を持つ層が社会を動かし、文化の担い手となるものだ。江戸時代の日本で、士農工商という身分制度で最も下位に置かれていた商人たちが町人文化を生み出したように。
中世の封建社会を支配していた領主たちは、キャッシュフローの手段に欠けるため、現金収入を得る手っ取り早い手段として土地を手放していく。彼らの支配力が弱まっていくのと並行して、中世後半からギルドが実質的に都市を運営し始める。有力ギルドの代表者たちによる合議制により、都市国家は擬似的な共和制をとる。イタリアで、これら自治都市国家(コムーネ)が覇権を競う状況からルネサンスが始まる。その理由は単純極まりない。彼らはかつて共和制による社会維持を成功させた先行例にならおうとしたのだ。それが帝政ローマになる前の共和政ローマであり、さらにはその先行例としての古代ギリシャのポリス社会だった。政治倫理や法律、税制、そしてさまざまな文化。それらは、彼らにとっても一五〇〇年以上前の「古代」だった。こうして、イタリアの各コムーネで古代文化の再評価、つまりルネサンスが始まった。
商家の女たち
ルネサンス期のフランドル(現在のベルギー地域)の画家クエンティン・マセイスによる〈両替商とその妻〉(図3―01)は、ルネサンスを生み出した社会の特質を教えてくれる。
まず「両替商」なる職業だが、お金を貸して利子をとる、実質的には銀行の初歩段階の業態をとる。この業態自体は大昔から存在するが、しかし旧約聖書では利子をとる行為が禁じられていた。中世ヨーロッパでも、一一七九年に開かれたラテラノ宗教会議において、高利貸しをした者をキリスト教の信者として埋葬することさえ禁じられたほど厳しかった。
しかし聖書の文言は、同胞相手では駄目でも外国人ならよい、となっている。同胞とは同じ民族のことなので、旧約聖書を編纂したユダヤ人はユダヤ人相手からは利子をとることができず、これを同様に聖典とするキリスト教でも、信徒同士では利子をとることはできない。ただ、同胞でなければよいのなら、宗派が違う相手であればよい。ヨーロッパ住民のほとんどがキリスト教徒である以上、ユダヤ人には顧客が大勢いても、キリスト教徒にはそうではなかった。こうして同じ条項を守っていても、ユダヤ人だけが金貸しを営んで長年蓄財でき、ロスチャイルド家などの超富裕層が生まれた。
しかし、十字軍以降徐々に活発化していった商業を背景に、キリスト教徒のなかにも同胞相手に高利貸しを営む者が出てくる。イタリアのパドヴァに残るスクロヴェーニ礼拝堂は、ジョットとその工房によって壁一面に壮麗な壁画が描かれた美術史の聖地のひとつだが、高利貸しを営んでいたエンリコ・スクロヴェーニが地獄に落とされないよう私財をつぎこんでこれを作らせた。
〝両替商〟は、イタリアのフィレンツェとその周辺の地域で始まった、聖書の禁忌事項を回避するためのシステムだ。それはごく単純なもので、ヴェネツィアのドゥカート金貨とフィレンツェのフィオリーノ金貨のように異なる通貨間で両替をするという名目で、実質的に利子を得るシステムである。同じ通貨で利子分をのせて返却されると禁忌条項に反するので、異なる通貨で置き換えるだけのことだ。そのため銀行は各地に支店を設けて代理人を置き、〝もどし為替〟なども利用しつつ、支店間を証文(手形)が行き交った。
こうして、イタリアを中心にヨーロッパ各地で商業都市が発達し、小規模な両替商や個人商店が増えていった。マセイスが描くのは両替商の夫婦のなにげない姿だが、妻は夫の仕事の場に参加しており、そしてなにより妻が時祷書のような書物のページをめくっている点が重要である。おそらくラテン語で書かれただろう文章を、王侯貴族や修道女でもない一般家庭の女性が読んでいる様子は、それまでにはなかったものだ。個人経営による商店のおよそ三分の一が、家族以外に誰も雇っていなかったとの研究がある。当然ながらそうした家庭では妻や娘も商いの貴重な担い手であり、そのため、それまでみられなかった家庭内での女子への初等教育が少しずつ始まった。
ただ、いきなりすべてが薔薇色になったわけではない。読み書きのできる妻を必要とする業種は限られており、また職業にせよ家庭にせよ、女性は自分の一生を大きく左右する決定に際しての選択権をほとんど与えられていなかった。家事労働は多岐におよび、覚えるべきことは多く、その総量も大きい。娘たちは幼い頃から見よう見まねで家事を覚えた。当時の商人一家の様子がわかる版画(図3―02)でも、息子が読み書きを習っている一方で、娘は母と同じ糸紡ぎをしている。中世版画を思わせる絵柄だが、これはすでにルネサンス盛期を迎えていた一四七三年にドイツで出版された本の挿絵である。
一方、『健康全書』は一一世紀のアラブの医師が著した書物が、一四世紀のヨーロッパで翻訳出版されたものだ。そこに付けられた図版はイタリアの写本画家たちによるもので、そこに描かれている光景はルネサンス期のイタリア社会にほかならない。そのうちの一点はリネン生地が体に良いことを述べた箇所につけられた図版だが(図3―03)、反物屋で布を縫い、布地を裁断して売っているのはすべて女性たちである。個人商店の増加はこうして労働力としての女性の重要性を高め、女性の社会的地位の向上のための小さな一歩となった。
ルネサンス期のヨーロッパでは、交易の拡大にともなって、同書のようにアラビア地域から最新の学問や文化が入ってきた。そのなかにはギリシャやローマでかつて生み出され、しかしその後のキリスト教の中世ヨーロッパでは忘れ去られていた文化が再輸入されるケースもあった。たとえば古代ローマ時代のアレクサンドリアの天文学者プトレマイオスによる『アルマゲスト』は、かつてギリシャ語で書かれていた原書がアラビア語に翻訳されていたものを、原書が失われていたヨーロッパであらためてラテン語に翻訳されたものである。アラビア語の定冠詞〝アル〟にラテン語の〝マゲスト〟がくっついた不思議なタイトルは、その長い遍歴の名残である。
復活するヴィーナス
「最初のルネサンス画家」と呼ばれる名誉は、マザッチョに冠せられる。そのわりに知名度は高くないが、それは彼が二七歳前後でペストにより早逝したため、遺した作品数が非常に少ないことによる。しかしそのひとつ、フィレンツェにあるブランカッチ礼拝堂の壁画は初期ルネサンス絵画を代表する作品で、後にミケランジェロらルネサンスを代表する芸術家たちにとっての生きた教材となった。
同礼拝堂の壁画は、マザッチョと、年長の協働者と思われるマゾリーノの二人によって始められた。彼らは同じ高さで向かい合う画面に、アダムとエヴァのエピソードをそれぞれ描いている。マザッチョは〈楽園追放〉(図3―04)を、マゾリーノは〈原罪〉(図3―05)を。
それまでおそらく同じような修業を積んできたはずの両者だが、その描き方の違いは大きい。まずマゾリーノが描く女性の人体が非現実的なプロポーションをしている一方、マザッチョのそれは解剖学的にみて正確である。次に、マゾリーノによる絵画空間がごく平面的であるのに対し、マザッチョの方は男女の足もとに影があることで、この狭い画面のなかに奥行きを感じさせようとする意識が働いている。さらには、マゾリーノが描く二人は今から神の禁忌事項を破る瞬間であるにもかかわらず、平然と無表情で感情の揺れを一切見せない。それに対して、マザッチョの二人は激しく後悔し、泣き叫んでいる。
これらの、「正しい人体把握」「奥行きのある空間性」「激しい感情表現」という三要素こそ、ルネサンス絵画があらたに獲得した特徴である。中世絵画に描かれる人物たちが感情をほとんどあらわさなかったのに、ルネサンスで大きく変化した一因として、悲喜劇詩のような古代文学の翻訳がある。ボッカッチョの『デカメロン』はユーモアに富み、かつ艶っぽい不倫話であふれているが、そのような人間的なストーリーはそれまで表面的には姿を消していた。また万能人のひとりブルネッレスキが確立した線遠近法(中央一点消失透視図法)は当時最先端をいく幾何学の成果でもあり、マザッチョや彫刻家ドナテッロら同時代の芸術家たちにすぐさま共有されて発展していった。
そして人体のプロポーションと解剖学的正確さに関しては、男女のモデルで大きな違いがあった。男性裸体を描きたければ、工房の弟子の誰かにその場でヌードモデルをしてもらえればそれで済む。マゾリーノもマザッチョも、ひとしくアダムの人体が違和感なく描けているのはそのためだ。一方、女性裸体を描きたくとも、当時の性モラルのもとでは、おいそれとヌードモデルになってくれるような女性はいない。そこで重要な役割を果たしたのが、ルネサンスでブームになっていた古代彫刻の数々である。
メディチ家が所有していたため〈メディチのヴィーナス〉と呼ばれる作品(図3―06)は、右手で胸を、左手で下腹部を隠すポーズをとる。
「恥じらいの(プディカ型の)ヴィーナス」と呼ばれるこのタイプの彫像は、第一章で登場したプラクシテレスも手掛けており、ルネサンス期に再評価された古代のヴィーナス像を代表する。まったく同じポーズをとるマザッチョのエヴァは、明らかにこのタイプの彫像をモデルにして制作されている。いかにも古典復興にふさわしい解決法ではあるが、もっとも後述するように、イタリア・ルネサンスのもう一方の中心地であるヴェネツィアではこの点に関してフィレンツェほどの苦労はしていない。
ところで、「プディカ型のヴィーナス」を見て、すぐにお気づきの方も多いと思う。まったく同じポーズを、ボッティチェッリの名高い〈ヴィーナスの誕生〉(図3―07)もとっていることに。
遠くを見つめる、ややアンニュイな表情をうかべたこのヴィーナスは、ルネサンスを代表する女性像としてアイコンと化しているが、注文主は不明で、最初どこにあったのかさえわからない。ただ、画面左下のガマの草は多産の象徴であり、子宝祈願として描かれた可能性は高い。マザッチョのエヴァと異なり、このポーズで実際に立ち続けることは不可能である。あまりに重心が片側に寄りすぎているためだ。つまりボッティチェッリは、古代に範をとりながらも、あらたに自らの頭の中で理想化したヴィーナス像を描いている。
著者
池上英洋
東京造形大学教授。1967年広島県生まれ。東京藝術大学卒業・同大学院修士課程修了。専門はイタリアを中心とした西洋美術史・文化史。著書に、『レオナルド・ダ・ヴィンチ 生涯と芸術のすべて』(第4回フォスコ・マライーニ賞)『西洋美術史入門』『死と復活』(いずれも筑摩書房)など。日本文藝家協会会員、美術評論家連盟会員。