木のように自然に溶け込む「擬木」。伊藤健史さんに伺う古今東西の“木を模す”技術
公園などへ行くと、柵や階段、東屋に、コンクリートやプラスチック等で自然の木を模した「擬木」が使われているのを目にすることがある。ライター・伊藤健史さんは、長年擬木の鑑賞を続けている。
伊藤健史さん
会社員、ときどきライターとして、ライフワークの有毒生物探しや路上観察に関する記事をWEBサイトに寄稿。「年を重ねるごとになんかやることが雑多になって人に説明するのが難しくなってきています」
当たり前の存在だった擬木が気になった瞬間
伊藤さんが擬木に目が止まったきっかけは、意外にも「富士塚」だった。
「『富士塚』とは、富士登山が困難な人のために、富士山を模して人工的に作った山や塚。
今から14、5年ほど前、富士塚に興味を持って巡っていた時期がありました。三鷹の中嶋神社を見に行った時、見事な左官仕事で再現された富士山に、擬木があしらわれていたんです。
それまで当たり前の存在であまり気に止めてなかった擬木を意識的に鑑賞するようになった、大きなきっかけです。
約100年前、海外から導入。左官技術・工業化と共に進化
街から山の中までいたるところで目にする擬木。歴史をたどると、日本には100年ほど前、海外の造園技術と共に導入された。
「日本に現存する最古の擬木は、新宿御苑にある明治38年(1905)に施工された擬木欄干です。
擬木のルーツは、西洋の庭園のオブジェ。新宿御苑の擬木も、フランス製です。調べたところ、フランスは地質的に岩石の強度が高くないため、自然石でなくセメントで擬石や擬木を作る技術が発達したという説がありました」
日本製の擬木は和歌山の庭園などで独自に作られていたが、本格的に製作され始めたのは大正末期から昭和初期にかけて。
「最初期に重要な役割を果たしたのが左官職人の松村重さんです。大塚公園や有栖川宮記念公園には、彼が手掛けた擬木作品が今も残っています。
特徴は、厚みがあり彫りが深いということ。枝を剪定した跡や木口割れまでリアルに表現されていて、見事です。それまで『人造自然木』『モルタル自然木』などと呼ばれていたものに『擬木』という用語を充てたのも彼だといわれています」
その後、素材の進化とともに擬木は多様化してきた。
「1970年代になると、型を使ってコンクリートを成型するプレキャスト工法が登場し、擬木を大量生産できるようになりました。
1980年代になると、腐食や劣化に強いプラスチック製擬木も登場し、素材が多様化していきます」
地域の風景に溶け込みながら、人と自然を緩やかに区切る
擬木の魅力の一つは、地域性を反映した表情の多様さだ。
「擬木で表現される樹種の豊富さは見どころの一つです。
よく見るのはクヌギ仕上げ。里山の雑木林を構成するおなじみの木で、 “木っぽさ”を感じやすい樹皮をしています。
日本人に親しみのある桜や、竹取物語の伝説がある地域では竹を模した擬木を見たことも。寒い地域へ行くと、白樺の擬木がありました。
地域ごとの自然にちゃんと溶け込むよう雰囲気を作っているんです」
「竹の節やツタが巻き付く様子、年輪などが表現されたリアルさも、にくい演出です。
奄美大島で見かけた、構造柱に擬木を使ったトイレはすごかったです。樹皮の剥がれや枝の剪定痕までリアルに再現されていて、見事な左官技術を感じました。
僕が虫だったら本物の木と思って樹液を吸いにいってしまいそうでした(笑)」
「擬木は、自然と人間の境界に設置される存在。観察していくと、自然と人間の領域をはっきり分けたり、逆に自然と融合していったりするところも味わい深い。
「擬木は、自然と人間の境目に立って、『ここから先に行っちゃだめだよ』と、両者に監視の目を向けるような存在。
だからこそ『ハブ注意』『クマ注意』など、擬木上にいろいろな看板が設置されがち。看板から地域性も見えてきます」
「山間深い場所を整備して、周囲の風景に溶け込むよう擬木が設置されているのを見ると、『自然になじませよう』という、人間側の若干の後ろめたさも感じてしまいます。
苔や地衣類に覆われたり鳥が止まったりと、もはや本来の木に戻りつつあるような擬木も、またいいですよね」
取材・構成=村田あやこ ※記事内の写真はすべて伊藤健史さん提供
※参照:『近代東京における擬木擬石づくりの名手、松村重の足跡』(粟野隆・ランドスケープ研究78巻5号 2015年)
『散歩の達人』2025年7月号より
村田 あやこ
路上園芸鑑賞家/ライター
福岡生まれ。街角の園芸活動や植物に魅了され、「路上園芸学会」を名乗り撮影・記録。書籍やウェブマガジンへのコラム寄稿やイベントなどを通し、魅力の発信を続ける。著書に『たのしい路上園芸観察』(グラフィック社)。寄稿書籍に『街角図鑑』『街角図鑑 街と境界編』(ともに三土たつお編著/実業之日本社)。