#4 人は「草」である――三浦佑之さんが読む『古事記』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
三浦祐之さんによる、『古事記』読み解き
歴史は一つではない――。
1300年にもわたり受け継がれてきた日本最古の歴史書、『古事記』。その文学性は高く、稲羽のシロウサギやヤマトタケルなど、日本人に愛されてきた物語が数多く収められています。
『NHK「100分de名著」ブックス 古事記』では、三浦祐之さんが、世界と人間の誕生を記した神話や英雄列伝を読み解きながら、日本の成り立ちや文化的特性を考えます。
今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第4回/全4回)
「つくる」「うむ」「なる」
神話は、わたしたちの世界がこのようにあることの理由を説明するものだと申しました。けれども、古事記には神々の誕生については語られているが、人間の起源は語られていないというのが一般的な見解です。たしかに、人はこのようにして生まれたと語る神話はありません。しかし、わたしは、古事記は人間の祖先について語っていると考えています。前述の部分を、もう一度見てみましょう。
できたばかりの下の国は、土とは言えぬほどにやわらかくて、椀に浮かんだ鹿猪の脂身のさまで、海月なしてゆらゆらと漂っていたが、その時に、泥の中から葦牙のごとくに萌えあがってきたものがあって、そのあらわれ出たお方を、ウマシアシカビヒコヂと言う。
そうです。この大地がクラゲのように脂身のように水面を漂っている時に、わずかばかりの泥の中からおのずと萌え出たウマシアシカビヒコヂこそ、わたしは人間の祖先だと思っているのです。
ウマシアシカビヒコヂのウマシは立派な、アシは植物の葦、カビは菌類のカビと同じようにツンツンと萌え出る棒状の芽、ヒコは男、ヂは神格をあらわしますから、ウマシアシカビヒコヂは「立派な葦の芽の男神」という意味になります。
古代の人々が、なぜ植物である葦の芽を人間の祖先と考えたかというと、日本列島が湿潤な気候の中にあり、「いのち」の誕生を、草の芽吹きと重ねて感じる心性が生じやすかったからではないかと思います。おそらくそれは、日本人固有のというより、太平洋沿岸の、熱帯あるいは温帯モンスーン地帯に共通する発想だったと考えられます。
古事記では、人間の住む地上を高天の原からみて、「葦原(あしはら)の中(なか)つ国」と呼びます。「葦がワサワサと繁茂している、天と地下との中間にある国」です。この呼称からも、ウマシアシカビヒコヂは人間の祖先神としてイメージが合います。
また、ウマシアシカビヒコヂをはじめとする冒頭に語られる神々が、まさに自然の草が生えるように「何もないところから成り出た」という点も重要です。
天と地とがはじめて姿を見せた、その時に、高天の原に成り出た神の御名は、アメノミナカヌシ。つぎにタカミムスヒ、つぎにカムムスヒが成り出た。
この点に関して、思想史家の丸山眞男さんは、世界の創世神話には、「つくる」「うむ」「なる」という三つの発想があると指摘しました。
「つくる」は『旧約聖書』にあるように一神教的な観念で、最初に絶対的な神が存在し、その神が土をこねて人間を創ったという考え方です。次の「うむ」は、男女の交わりをそのまま神の世界に移したもので、即物的な発想です。
これらに対して、日本の神話には「なる」という観念があって、絶対神が存在するわけでもなく、意図的にものを作る行為もないのに、自然に何かが生じてくることを言います。丸山さんはこれこそが日本の古層の観念だと考えました。
この「なる」は日本だけでなく、もっと広く太平洋岸に広がる湿潤な気候の温帯モンスーン地帯に共通して見られる発想です。雨が多く湿潤な大地がはらむ生命力が「なる」という発想を生んだのでしょう。乾燥した砂漠地帯や寒冷なヨーロッパからは生まれにくい発想です。
そのようにして、何をしたわけでもないのにいつしか生まれ、繁茂していく草の一本として人間がある。大地に萌え出た芽は生長し、花を咲かせ実を実らせると枯れてゆくように、人もまた土から生まれ、成長し、子孫を残して死んでゆく。そうやって循環する生命の感覚が、ウマシアシカビヒコヂには込められているのだろうと思います。
人の誕生についてだけではありません。古事記は死についても語っています。本来神様は永遠の命のはずなのですが、イザナキの黄泉の国往還の場面では、生々しいほどに人は死んだらどうなるかを描いています。
女神イザナミはイザナキと協力して多くの土地と神を生みましたが、その最後に火の神カグツチ[迦具土]を生んだために、体を焼かれて命を失いました。イザナキは深く悲しみ、イザナミの後を追って黄泉の国へ行き、腐乱した骸(むくろ)を見てしまいます。イザナキは震えあがって逃げ出し、醜い姿を見られたイザナミは「恥をかかせた」と怒って追っ手を遣わします。逃げに逃げたイザナキは、地上への通路である黄泉(よも)つ平坂(ひらさか)で、あわやのところで大きな岩を境として封じることによって難を逃れるのです。
この物語から、わたしたちは大事なことを学びます。人は死ぬと黄泉の国というところへ行くこと、どんな美女でも死ねば腐って穢れたものになること、いったん死んだら生者の世界に戻ることはできないこと、生きている者は死者とかかわりをもってはならぬこと。また、この世は神々が住まう「天(高天の原)」と、人々が生きる「地上(葦原の中つ国)」と、死者たちの居所である「地下(黄泉の国)」の三層構造からなっていることも、この神話は教えています。
そしてもう一つ、大事なことがあります。イザナミは火の神を生むことによって死にますが、火は人類にとって重要な発明でもあります。ですから、この神話は、「人間は文明という大きな力を手にしたが、その代償として大きな犠牲を支払うことになった」と言っているのかもしれません。
人は「草」である
話がやや前後しますが、イザナキが黄泉の国から逃げ帰る場面の中にも、人は草であるという発想が見られます。イザナキが追ってきた亡者たちに魔よけの呪力をもつ桃の実を投げ、それによって命拾いする場面です。
ようようのことで、黄泉つ平坂の坂のふもとに辿り着いた時に、その坂本に生えていた桃の実を三つ取って、待ちうけて投げつけたところが、怖かったのか、みな、逃げ帰ってしまった。
そこでイザナキは、その桃の実に言う。
「汝(なんじ)よ、われを助けたごとくに、葦原の中つ国に生きるところの、命ある青人草(あおひとくさ)が、苦しみの瀬に落ちて患い悩む時に、どうか助けてやってくれ」
命拾いしたイザナキは、その桃に向かって、「もしまたこの世の青人草が困っている時があったら助けてやってくれ」と頼むのです。
「青人草」という言い方に注目してください。おもしろい言い方です。これはしばしば「青々とした草のような人」と解釈されるのですが、そうであれば「青草人」となるはずです。わざわざ「青人草」と言っているのですから、人と草とは同格で、「青々とした人である草」と考えなければなりません。繰り返しになりますが、人は草なのです。人はおのずと萌えいずる草と同じ存在であり、植物の仲間なのです。
大きな岩によって生者の国と死者の国とに隔てられたイザナキとイザナミは、岩ごしにこんな会話をします。まずイザナミが恨みを言います。
「いとしいわたくしのあなた様よ、これほどにひどい仕打ちをなさるなら、わたくしは、あなたの国の人草を、ひと日に千頭絞(ちがしらくび)り殺してしまいますよ」
恥をかかされたお返しに、これから毎日生きている人間を千人ずつ殺してやるという呪詛(じゅそ)です。「あなたの国の人草」とあるように、地上の人、いのちある者はここでも「草」と呼ばれています。対抗して、イザナキが言います。
「いとしいわが妹(いも)ごよ、お前がそうするというのなら、われは、ひと日に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)を建てようぞ」
毎日千人の人草が死に、千五百人の人草が生まれる。これこそまさにこの地球上に少しずつ人口が増えつづけてきたことの説明です。生と死は循環し、しかし生の力のほうがやや強いというバランスが保持されているために、この地上では人類の新陳代謝と繁栄が同時に実現されてきたのです。人の生と死とは何かという問題につながる哲学的な会話です。
古事記の上巻は基本的に神々の活躍と系譜を語るものですが、けっして人間不在ではありません。目を凝らせばその背後に無数の人々がたくましく繁茂しているのが見えてきます。人がいなければ神も存在しないのですから。
このように、古事記はこの世と人間の起源について、素朴な味わいをもちながら、現代にも通用する普遍的な思想をもって語ります。わたしは古事記を読みながら、千三百年前から人間はあまり変わっていないのだなと思うことがあります。
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著者
三浦佑之(みうら・すけゆき)
千葉大学文学部教授を経て、立正大学文学部教授。千葉大学名誉教授。専門は古代文学・伝承文学。2003年、『口語訳 古事記』(文藝春秋)で第1回角川財団学芸賞受賞。著書に『古事記講義』『あらすじで読み解く 古事記神話』(以上、文藝春秋)、『古事記のひみつ 歴史書の成立』(吉川弘文館)、『古事記を読みなおす』(ちくま新書、第1回古代歴史文化みやざき賞受賞)、『村落伝承論(増補新版)』(青土社)などがある。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。
■「100分de名著ブックス 古事記」(三浦佑之著)より抜粋
■書籍に掲載の脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛しております。
*本書における『古事記』の引用は著者による現代語訳です。
*本書は、「NHK100分de名著」において、2013年9月に放送された「古事記」のテキストを底本として大幅に加筆・修正のうえ再構成し、新たに読書案内を収載したものです。