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俵万智の短歌はなぜ心地よいのか? 言語学者も驚いた言葉選びの秘密 

NHK出版デジタルマガジン

俵万智の短歌はなぜ心地よいのか? 言語学者も驚いた言葉選びの秘密 

 俳優・ラッパー・歌手・アナウンサーなど、声のプロたちの「伝える・伝わる」技術を言語学者の川原繁人さんが解説する『「声」の言語学入門 私たちはいかに話し、歌うのか』。声という観点から言語の奥深さに迫った本書から、俵万智さんの短歌を音声学的な観点で読み解いた章を抜粋して公開します。

川原繁人『「声」の言語学入門 私たちはいかに話し、歌うのか』

第二章 感覚をいかに言語化するか

歌人と音声学者のお付き合い

 2022年の10月、俵万智さんとの対談が実現した。
 アプローチする角度は違えど、俵さんも私も「言語への愛」が人生の中心テーマにあるわけで、話は尽きなかった。俵さんは『ちいさな言葉』(岩波現代文庫、二〇一三年)というエッセイの中で、子育てのあれこれや、子どもの言語習得について語っている。私も、愛する娘たちがどのように音声を獲得していくかについて書籍を出版したばかりだった。

 加えて、俵さんは息子さんが日本語ラップ好きだということもあり、私が考えていた「日本の伝統的な詩歌と日本語ラップの共通性」について、じっくり耳を傾けてくれた。一見似ても似つかぬようなふたつの芸術ジャンルだが、言語学的な観点からは結構な共通性があるのだ。あとで詳述するが、耳を傾けてくれただけでなく、ばっちりと具体例まで提示してくれた。
 対談の数ヶ月後、次のとんでもない爆弾が投下された。とある編集者さんから「先生、朝日新聞の朝刊をチェックしてください‼」とのメールが。朝日新聞を定期購読していない私は、朝から着の身着のまま、サンダルでコンビニにダッシュ。そこでは俵さんの視点から前述のやり取りが書かれたエッセイが載っており、そのエッセイは以下のように締めくくられていた。

 「短歌も、そもそもは耳から聞くものだったことを思い出す。現代は、もっぱら目で読むものになってしまっているのは、もったいない。思いきり韻を踏んだ短歌を、作ってみたくなった」(朝日新聞、二〇二二年一一月九日朝刊)

 そう、前章で「書き言葉」と「音声表現」について長々と語らせてもらったが、この点について私が思いを巡らせるようになったきっかけのひとつは俵さんとの交流なのだ。主に書かれた形で流通するようになった短歌と、耳で聞くラップのはざまで俵さんが感じたことを、私は言語学的に咀嚼して考えるようになった。前章で上白石さんと繰り広げたトス&アタックの背後には、このような俵さんとの交流があったのだ。
 のちに、俵さんは「NIKKEI RAP LIVE VOICE 2023」というラップバトル大会の審査員をお務めになるほど、日本語ラップとの関わりを深めていく。もしかしたら、私とのやり取りも少しは影響していたかと思うと、ちょっぴり誇らしい。

 さて、このような交流を通して、歌人である俵さんが音声学という学問に興味を持った理由が理解できるようになってきた。特に、俵さんにとっては「自分が感覚として何となく感じていた音の響き」というものが音声学によって、より明確に示されたことを気に入ってくれたらしい。
 では、俵さんのおっしゃる「何となく感じていた音の響き」とは具体的にはどういうものだろうか? また、日本を代表する現代短歌のひとつである「サラダ記念日」には意外な制作秘話があり、じつはそこにも音声学的な仕組みが隠れていた。本章では、これらをじっくり解説しながら、音声学の諸概念に入門していただこうとちゃっかり思っている。

「サラダ記念日」誕生秘話

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
(俵万智『サラダ記念日』河出書房新社、一九八七年)

 日本で最も有名な現代短歌のひとつと言っても過言ではない短歌の誕生に音声学的な感覚が関わっていた、とご本人から聞いたときの喜びはいまも忘れない。っていうか、俵さん自身も前述のエッセイで「川原先生の目の輝きが半端なかった」と書いていらっしゃる。
 そりゃ、輝きます。自分が研究している原理の数々は、机上の空論などではなく、多くの日本人の心を動かす作品の背後にあったのだ。音声学は音声学者たちのものだけではなく、もっともっと多くの人たちに関わることなのだ。それを俵さんが証言してくださったような気がした。

 この「サラダ記念日」創作のきっかけになった体験は、俵さんが恋人につくった「唐揚げ弁当」だったらしい。その恋人に喜んでもらったときの気持ちがこの短歌の主題である。しかし、この想いを表現するキーワードとして、「唐揚げ」はイマイチだと考え、「サラダ」が思い浮かんだらしい。では、サラダが美味しい季節――俵さんは「野菜が元気な季節」と表現していた――はいつだろうか。「六月」か「七月」であろう。
 「唐揚げ」と「サラダ」は、「どちらの単語のほうが表現したい気持ちをより正確に表しているか」という観点から後者のほうが合っていたという。しかし、「六月」か「七月」の選択は、そういった観点からは決定打に欠ける。だから逆に、選択が難しい。しかし、「サラダ」と「七月」だと語頭の音が「さ行」で揃っており、音の響きの面で気持ちがいい。

 加えて、「さ行音」は「爽快感」をもたらす、と俵さんは感じていた。その爽快な「さ行音」が繰り返されることで、さらなる聞き心地のよさが生まれる。「伝えたい気持ちを表す単語を使うこと」はもちろん重要なのだが、「使われる単語の響き」も重要なのだ。

 また、俵さんがおっしゃっていたことの中で特に興味深かったのは、「音の響き」が大事だからといって、それはあくまで補助的な基準であって、第一に優先すべきは、「伝えたい気持ちを表す単語を選ぶこと」だということ。まず、伝えたいメッセージが伝わることが肝要で、その上で「選択の猶予」がある場合、「音の響き」が単語選択の基準として使える。

 もちろん、この塩梅は、創作者によって――そして、もしかしたら、作品によって――異なるのだと思うし、どちらが優れているという話でもないだろう。ともあれ、俵さんという歌人が、どのような言語学的な基準を用いて短歌に使う単語を選んでいるのか、というお話を聞いて、言語学者として目を輝かせたとして、誰がそれを責められよう。

短歌にひそむ韻の数々

  「サラダ」と「七月」のように、主に語頭で似たような子音や母音を繰り返すことを「頭韻」と呼ぶ。俵さんは時々、「韻踏みマニアですか?」というほど頭韻を踏んだ短歌をおつくりになられる。
 「さ行」に関して言えば、次の短歌はもう確実に頭韻の響きを狙っていらっしゃる。

さくらさくらさくら咲き初め咲き終りなにもなかったような公園
(『サラダ記念日』)

 それから最近の作品では、こんな歌がある。

むっちゃ夢中とことん得意どこまでも努力できればプロフェッショナル
(『アボカドの種』角川文化振興財団、二〇二三年)
 
 まず「むちゅう」の部分で、「む」が繰り返されつつ、「ちゃ」と「ちゅ」が頭韻を踏んでいる。そこから「ん」の「と」、「くい」の「と」、そして「こまでも」の「ど」と「りょく」の「ど」、さらに「きれば」の「で」はすべて音声学的に似た音なので、五つの音が頭韻の鎖でつながっている。うーん、素敵。

 そして、「頭韻」と言えば、このエピソードを語らずにはいられない。俵さんと対談した次の日、私は俵さんと、俵さんの息子さんを勤務先の慶應義塾大学にてお出迎えした。日本のヒップホップ文化を築きあげた偉人のひとりZeebraさんが講演をすることになっていたからである。
 開催者権限をフルに活用して、おふたりを最前列の関係者席にご招待した。講演中、Zeebraさんは「Original Rhyme Animal」という楽曲の中の「突き刺さるぜ その錆びた 心に」の部分に、「さ行」の頭韻を入れていることを語っていた。まさか、二日連続、同じ言語学的表現方法についての話を聞くとは思わなかった。しかも、歌人とラッパーという一見するとまったく異分野の創作者の方々から。「サラダ記念日」と「Original Rhyme Animal」の間にこんな共通性があったなんて!
 こんな経験を通して、「短歌もラップも言語を使った芸術としての共通性を持つのだ」という私の信念は強まっていった。
 せっかくなので、俵さんの短歌の中で、頭韻が仕込んである(と私が感じた)他の例をもう少し見ていくことにしよう。

コーヒーのかくまで香る食卓に愛だけがある人生なんて

寄せ返す波のしぐさの優しさにいつ言われてもいいさようなら一山で百円也のトマトたちつまらなそうに並ぶ店先
(いずれも『サラダ記念日』)

 最初の短歌では「か行」が繰り返されている。「ーヒーのくまでおるしょ」の部分だけで、音声学者としてはご褒美である。
 ふたつ目はどうだろう。「よかえ」「」「やさしさ」は「さ行」を多く含んでいて、ここに繰り返しの心地よさを感じる。そして、この「さ行」頭韻は、最後の締めである「ようなら」に着地していく。また、「つ」「われても」「いい」はすべて「い」で始まり、頭韻を踏んでいる。さらに音声学的には「い」と「や行」は似た音であるから、「い」の繰り返しは句頭の「せかえす」及び「さしさ」にもつながる。
 これはご本人に確認したわけではないから、音声学者の深読みかもしれない……。しかし、もし、読者のみなさまがふたつ目の短歌に「音の響きの心地よさ」を感じたのなら、そこにはこのような音声学的な理由が潜んでいるかもしれない。

 最後の短歌では、「な行」と「ま行」が繰り返し現れる。これもいい。次章でじっくり説明するが、「な行」も「ま行」も、「鼻音」と呼ばれる子音――つまり鼻から空気が流れる子音――が含まれるという点で共通した性質を持っている。俵さんに失礼かもしれないが、鼻をつまみながら最後の短歌を読んでみてほしい(俵さん、すみません……)。鼻に違和感を覚える瞬間が繰り返されるはずだ。
 このような例を見ていくと、やはり「音声学的に似た音の繰り返し」というのは、短歌の味わいのひとつとなっているのだろう。

川原繁人

1980年、東京都生まれ。慶應義塾大学言語文化研究所教授。2002年、国際基督教大学卒業。2007年、マサチューセッツ大学にて博士号(言語学)取得。ジョージア大学助教授、ラトガース大学助教授を経て現職。主な著書に『日本語の秘密』(講談社現代新書)、『なぜ、おかしの名前はパピプペポが多いのか?』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『フリースタイル言語学』(大和書房)、『音声学者、娘とことばの不思議に飛び込む』(朝日出版社)、共著に『言語学的ラップの世界』(東京書籍)など。

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