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「善人より悪人の方が救われる?」仏教界の異端児・親鸞の教えとは

草の実堂

画像 : 親鸞 1173年-1263年 public domain

鎌倉時代、仏教界の常識を覆し、既存の権威と対立しながらも、人々に寄り添う新しい信仰を説いた破天荒な僧侶がいた。

「修行せずとも救われる」「悪人こそ救われる」と説き、結婚し、浄土真宗の思想的基盤を築いた、親鸞(しんらん)である。

現在、親鸞の青年期を描いたアニメ映画『親鸞 人生の目的』が公開され、改めて注目が集まっている。

親鸞の言葉には、現代にも通じる深いメッセージが込められている。

親鸞の生い立ち

画像 : 親鸞 1173年-1262年 public domain

親鸞は承安3年(1173年)4月1日、日野の里(現在の京都府京都市伏見区付近)で、藤原氏の流れを汲む中流貴族・日野有範の息子として生まれ、松若丸と名付けられたとされる。

9歳で出家したが、その理由には諸説あり定かではない。

当時の京の都は、源平合戦(1180年~1185年)の勃発を目前に控え、治安が悪化しつつあった。

戦乱や社会の混乱を避けるために僧門に入ったとも、幼少期に母を亡くしたことで世の無常を感じ、仏門に入る決意をしたとも伝えられている。

9歳で人生の無常を悟っていた親鸞

画像 : 青蓮院 得度の間 cc 663highland

治承5年(1181年)、当時9歳だった松若丸(後の親鸞)は、京都市東山区にある天台宗の寺院・青蓮院に入門し、慈円のもとで得度(出家の儀式)を受けることになっていた。

しかし、多忙だった慈円は、松若丸の得度を延期しようとする。

それを知った松若丸は、次の和歌を詠んだと伝えられている。

「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」

意訳 : 明日が必ず来るとは限らない。今夜の嵐で桜が散ってしまうかもしれない

9歳にして無常観(人生のはかなさ)を詠み込んだこの和歌に、慈円は深く感銘を受け、予定を変更してその日のうちに得度を執り行なったという。

こうして松若丸は「範宴(はんねん)」の法名を授かり、慈円の取り計らいにより、仏教界の最高学府である比叡山延暦寺で修行を始めることとなった。

夢に現れた聖徳太子からのお告げ

画像 : 聖徳太子の夢告を受けた六角堂 cc 663highland

範宴(親鸞) は、比叡山で天台宗の教学・禅・念仏・密教・戒律などの厳しい修行を20年間続けた。

しかし、次第に「どれだけ修行を積んでも悟りに至ることはできない。人間は煩悩に満ちており、結局は救われないのではないか」と深く苦悩するようになった。

比叡山では、自らの修行によって悟りを開く「自力」の仏道が重視されていたからであった。

建仁元年(1201年)、29歳になった範宴は比叡山を下り、京都の六角堂で100日間の参籠(こもって祈る修行)を行う。

参籠を始めて95日目の夜、範宴の夢の中に聖徳太子が現れ、こう告げたという。

「修行者であっても、人間の本性や煩悩を否定せず、そのままの姿で仏の救いを受け入れることが大切である。」

この夢のお告げを受けた範宴は、強い感銘を受けた。

そして、「この教えを本当に理解できるのは法然しかいない」と確信する。

当時、69歳の法然は、京都・東山吉水(現在の知恩院の近く)で、「他力本願」の教えを広めていたのである。

こうして範宴は、法然の弟子となる決意を固めたのである。

「他力本願」の本当の意味とは?

画像 : 親鸞が師と仰いだ法然 public domain

他力本願」とは、「阿弥陀仏の本願にすべてを委ねることで救われる」という教えである。

「他力」は阿弥陀仏の救済の力、「本願」は阿弥陀仏がすべての衆生を救うと誓った願いを意味している。

それはつまり、人間の努力(自力)ではなく、阿弥陀仏の慈悲の力によって極楽往生が叶うという考え方であった。

しかし、現代では「他力本願」という言葉が「他人任せ」「自分では何もしない」という意味で使われることが多く、本来の仏教的な意味とはかけ離れてしまっている。

この誤解は、「他力=他人の力」と解釈されたことによるものだが、実際には「他力」とは阿弥陀仏の力を指しており、人間の怠惰や無責任を肯定するものではなかったのである。

六角堂での参籠中に見た聖徳太子の夢告と、「他力本願」の教えには深い繋がりがあると直感した範宴は、法然を訪ねて門弟となり、「綽空(しゃっくう)」という法名を授かったのだった。

さらに1205年には、「浄土教の正統な教えを受け継ぐ者」という意味を込め、「親鸞」と名を改めたのである。

流罪で僧籍剥奪! 俗名「藤井善信」を与えられた親鸞

画像 : 親鸞を流罪にした後鳥羽上皇 public domain

親鸞は法然の意志を受け継ぎ、「念仏を唱えることで阿弥陀仏の救済を信じ、その本願によって極楽往生が定まる」という教えを、貴族や庶民に至るまで広く説き続けた。

ところが承元元年(1207年)、親鸞と法然は、旧仏教勢力や後鳥羽上皇から弾圧され、流罪となってしまう。

発端は、法然の門弟たちが皇族の女性に念仏を勧め、出家させたことが問題視されたことだった。

これにより、後鳥羽上皇は念仏の流行が宮廷の秩序を乱すものと見なし、専修念仏の禁止を命じた。

さらに、その背後には「念仏を唱えるだけで救われるなど言語道断」とする旧仏教勢力、とくに興福寺からの強い圧力もあった。

親鸞は僧籍を剥奪され、「藤井善信(よしざね)」という俗名を与えられ、越後国(新潟県上越市)に配流。

流罪前後に恵信尼という女性と結婚したと伝えられ、越後では家庭を持ちながら布教活動を続けたのである。

一方、法然も土佐国(現在の高知県)に流されたのだった。

越後での生活を始めた親鸞は、「非僧非俗」の立場をとり、仏法を説くようになる。

「非僧非俗」とは、「僧であることにも世俗の生活にも執着せず、ひたすら仏法の真意を伝えることを重視する」という親鸞の真摯な姿勢を示している。

これは当時の仏教界では前例のない革新的な生き方であった。

「悪人こそ救われる」親鸞の破天荒な教え

画像 : 悪人 イメージ IllustAC

当時、親鸞の教えのなかでも、とくに衝撃的だったのが、

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」

と説く「悪人正機」である。

自分の弱さや罪に無自覚な「善人」よりも、それを自覚している「悪人」のほうが救われやすいということを意味している。

この発想は、当時の仏教界に大きな波紋を広げた。

従来の仏教では、厳しい修行を積んだ善人が救われると考えられていたからである。

しかし、親鸞は人間の本性を見つめ、「誰しも煩悩にまみれ、完全な善人などいない」と喝破した。

その上で、善人は自らの努力で救われると思いがちだが、悪人は自らの無力さを知っているからこそ、迷わず阿弥陀仏に身を委ねることができると説いたのである。

つまり、阿弥陀仏の救いにすべてを任せることこそが救いの本質であり、「善人」「悪人」といった区別すら意味をなさないとしたのだ。

この思想は従来の仏教の価値観を覆し、身分や行いを問わず、すべての人が救われる可能性を示した画期的なものであった。※但し「悪人正機」の教えは古来から原型があり、親鸞の独創ではない。

この考えは、多くの民衆に希望を与え、後の浄土真宗の隆盛へとつながっていったのである。

息子・善鸞を破門、そして絶縁

流罪から約5年後の建暦元年(1211年)、親鸞は赦免された。

しかし、京都には戻らず、越後にしばらく滞在した後、建保2年(1214年頃)から関東へ移動し、布教活動を本格化させた。

ここで多くの門徒を得て、後の浄土真宗につながる教えを広めたのである。

天福元年(1233年)、60歳を超えていた親鸞は長年の布教を終え、京都に戻った。

その後、浄土真宗の根本聖典とされる『教行信証』の執筆に取り組んだが、建長8年(1256年)、息子・善鸞(ぜんらん)が誤った教えを広めていることが発覚する。

善鸞は関東で布教活動を行っていたが、その教えは親鸞の思想とは異なる方向へと逸脱していた。

具体的には、念仏を独占的に授ける権威を持つかのように振る舞い、阿弥陀仏の救いを歪めたとされる。

画像 : 阿弥陀図 public domain

親鸞はこれを看過できず、善鸞を破門し、親子関係も断つという異例の決断を下したのである。

善鸞の行為を厳しく非難し、「これ以降、私の教えを継ぐ者ではない」と宣言した。

親鸞にとって仏道を説く上でもっとも重要なのは、阿弥陀仏の本願を正しく伝えることであり、たとえ息子であっても教えを歪める者を許すことはできなかった。

この決断は親鸞にとって苦渋の選択であったに違いないが、それほどまでに彼は「他力本願」の教えを純粋に貫くことを重視していたのである。

この事件は、親鸞の思想の厳格さと、彼が一人の父親ではなく、真の宗教者であったことを示す象徴的な出来事であった。

最後に

9歳で無常観を知り、自力の修行だけでは悟れないと気づいた親鸞は、法然とともに「他力本願」や「悪人正機」の教えを広めた。

弘長2年(1262年)11月28日、親鸞は京都にある弟・尋有(じんゆう)が院主を務める「善法院」で、数え90歳でこの世を去った。

彼の教えは後に浄土真宗として確立し、修行や戒律に縛られず、阿弥陀仏の慈悲を信じることで救われるという革新的な思想として、多くの人々に希望を与えた。

従来の仏教の常識を覆した親鸞の教えは、現代においてもなお、多くの人々に影響を与え続けている。

参考文献 :
『教行信証』親鸞
『日本史事典 三訂版』 旺文社
文 / 草の実堂編集部

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