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#2 突然「虫けら」になったサラリーマン──川島隆さんと読む、カフカ『変身』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

NHK出版デジタルマガジン

#2 突然「虫けら」になったサラリーマン──川島隆さんと読む、カフカ『変身』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

京都大学教授・川島隆さんによるカフカ『変身』読み解き#2

ある朝目を覚ますと、自分は巨大な「虫」になっていた――。

衝撃的な冒頭に始まるフランツ・カフカの小説『変身』は、彼の死後100年以上経つ現在まで、多くの人に読み継がれてきました。

『NHK「100分de名著」ブックス カフカ 変身』では、川島隆さんが、「自分を知るための鏡」や、個の弱さを知ることでつながりの大切さを考える「介護小説」として『変身』を読み直すことで、その魅力に迫ります。

2025年7月から全国の書店とNHK出版ECサイトで開催中の「100分de名著」フェアを記念して、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします。(第2回/全6回)

第1章──しがらみから逃れたい より

突然「虫けら」になったサラリーマン

 カフカの代表作として世界中で読まれている小説『変身』は、奇妙な書き出しから始まります。

 ある朝、グレゴール・ザムザが落ち着かない夢にうなされて目覚めると、自分がベッドの中で化け物じみた図体の虫けらに姿を変えていることに気がついた。甲殻のような硬い背中を下にして仰向けになっており、頭を少し持ち上げると、弓なりの段々模様で区切られた丸っこい茶色の腹が見えた。腹のてっぺんに掛け布団が、完全にずり落ちる寸前で、かろうじて引っかかっている。全身のサイズからして見劣りする、かぼそい肢がたくさん、頼りなげに目の前でチラチラうごめいていた。

 グロテスクな状況を淡々と描写した冒頭部分を読んだだけで、『変身』というタイトルが何を意味しているのかがわかりますね。そう、この作品はある日突然、人間から巨大な虫けらへと変身してしまった男のことを描いた物語なのです。

 とはいっても、単に肉体的な変身がテーマというわけではありません。「肉体の変化」はあくまでストーリーの導入部に過ぎず、虫けらに変身してしまったことで主人公の身のまわりに起こる「人間関係の変化」「社会的な立場の変化」「時間の流れの変化」など、さまざまな変化が、この作品では描き出されています。つまり『変身』というタイトルには、肉体的な「変身」だけでなく、もっと広義の「変わってしまう」こと全般の意味が含まれていると考えていいでしょう。

 短編というにはやや長めの小説『変身』は、三つの章から構成されています。実際の原稿はⅠ・Ⅱ・Ⅲと番号が打たれているだけですが、ここでは便宜上、第一章、第二章、第三章と呼ばせていただきます(本書の章は「第1章、第2章……」と算用数字を用います)。各章は時間軸に沿いながらも、それぞれ独自のテーマを持ったシーンを扱っているので、本書では第1〜3章で、『変身』の章ごとの内容を、順を追いながら解説していこうと思っています。

 まずは、まだ『変身』を読んだことのない方のために、第一章のあらすじを簡単に紹介しておきましょう。

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 主人公のグレゴール・ザムザは両親と妹の四人暮らし。職業は布地のセールスマンで、出張の多い仕事や社内の人間関係に日ごろからうんざりしています。しかし、両親が抱えた借金を彼が一人で働いて返済しているため、不満を感じながらも今の仕事を辞めるわけにはいきません。

 そんなある朝、自室のベッドで目覚めたグレゴールは、自分が巨大な虫けらの姿になっていることに気づきます。最初は状況が把握できずに、「なんだこれは?」と戸惑うグレゴール。しかしすぐに、虫に変身したことよりも、出張のために乗るはずだった列車の時刻(早朝五時)を、とうに過ぎていることが気になり始めます。「会社にどう言い訳すればいいのか? 次の列車に乗るためにはどうすればいいのか?」など、あれこれと思案しながらも、時間だけが刻一刻と過ぎていきます。なかなか起きてこないグレゴールを心配した母親がドアの向こうから「そろそろ起きたらどう? 具合でも悪いの?」と声をかけてきますが、虫に変身した彼は、慣れない身体を思うようにコントロールできずに、ベッドの上で悪戦苦闘を続けます。

 やがて、時間通りに列車に乗らなかったのを不審に思った勤め先の上司(業務代理人)が家に訪ねてきます。グレゴールは部屋にこもったままで、ドア越しに、出張に遅れたことへの弁解を始めますが、普通に話をしているつもりなのに、なぜか上司には彼の言葉がまったく通じません。しかたなく、グレゴールは重い身体を引きずりながらベッドを抜けだして、ドアの鍵を開けてみんなの前に姿を晒すことに──。

 奇怪な姿に変わり果てたグレゴールを見た家族や上司はひどく驚き、パニックに陥ってしまいます。恐れをなして逃げ惑う上司。それを見て「このままだと仕事をクビになってしまう。なんとか事情を説明しなければ」と必死に追いすがろうとするグレゴール。しかし願いも虚しく、グレゴールは父親にステッキで追い払われ、扉をくぐる際にひどいすり傷を負いながら、再び自分の部屋に逃げ帰ることになります。
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 以上が第一章のあらすじですが、多くの読者は、「主人公がどんな虫に変身したのか?」にまずは興味を抱き、頭の中で想像を膨らませていくはずです。「甲殻のような硬い背中」と書かれていることから、カブトムシやコガネムシのような甲虫の一種が連想されますが、「肢がたくさん」あるからには、イモムシやムカデのような長いニョロニョロした虫のような気もします。具体的に何の虫に変身したのかは、作品の中では一切説明されません。

 カフカ自身、作品のイメージが固定化されるのを嫌ったようです。単行本の出版が決まった際、表紙の絵を担当するのが写実的な画風の人だと聞いた彼は、「昆虫そのものの絵は描かないでください。遠くからでも昆虫だとわかる絵は避けてほしい」と細かく注文をつけました。そのため、初版本の表紙には虫ではなく、暗い部屋に通じる半開きのドアの前で、頭を抱えている男の絵が使われています。

 これは誰の絵なのでしょうか。主人公のグレゴール・ザムザだと思った人が多いのではないでしょうか。「変身したはずの主人公が人間の姿で描かれている。つまり、変身したというのは主人公の妄想なのだ」と解釈した人もいます。しかし、実はこれはグレゴールの父親です。変身した息子の姿を初めて目にしたとき、父親が「両手で目を覆って泣いた」という描写が後に出てきますが、その場面ですね。カフカ本人が、虫になったグレゴールの姿を描く代わりに半開きのドアから覗く暗闇で虫の存在を暗示することを提案し、画家はその案を採用したのです。

 変身後の虫に対してカフカが自分なりのイメージを抱いていたのは、言葉の選び方からも見て取れます。私の日本語訳で「虫けら」となっている言葉は、ドイツ語でUngeziefer(ウンゲツィーファー)。この言葉は昆虫だけでなく鳥類やほ乳類も含む、「害虫」や「害獣」、つまり「人間にとって有益ではない生き物」という意味です。

 ちなみに、かつての日本語訳では、「毒虫」という言葉が当てられていました。「害虫に変身していた」というのも変だから──と苦肉の策で「毒虫」という言葉が選ばれたのかもしれませんが、「有益でない生き物」と「毒虫」ではニュアンスが異なります。

 毒虫といえば、人間が触ったら刺されたり、かぶれたりと危険なイメージがあります。しかし、グレゴールに毒はなさそうです。そもそもUngeziefer という言葉は、古いドイツ語の「(神様にお供えする)捧げものには使うことができない」という形容詞から派生したものです。つまりカフカは、本来「使えないもの」「役に立たないもの」「無用の長物」という意味をもつ言葉を使ったのです。

 たしかに『変身』に登場する虫けらは、不気味で巨大な姿をしてはいるようですが、人間に危害を加えるわけではありません。ただただ、「役に立たない」くせに場所をふさいで、人に嫌がられる──それだけの存在なのです。

著者

川島隆(かわしま・たかし)
1976年京都府長岡京市生まれ。京都大学教授。京都大学大学院文学研究科博士後期課程研究指導認定退学。博士(文学)。専門はドイツ文学、ジェンダー論、メディア論。著書に『カフカの〈中国〉と同時代言説』(彩流社)、共著に『図説 アルプスの少女ハイジ』(河出書房新社)など。訳書にカフカ『変身』(角川文庫)、編集協力に多和田葉子編訳『ポケットマスターピース01 カフカ』(集英社文庫)がある。
※刊行時の情報です。

■『NHK「100分de名著」ブックス カフカ 変身 「弱さ」という巨大な力』より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛している場合があります。

※本書は、「NHK100分de名著」において、2012年5月に放送された「カフカ 変身」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「ポスト・コロナの『変身』再読」、読書案内などを収載したものです。

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