4人のおじさんが大学生の前で語るさまざまなキャリアの作り方(2):福岡地区水道事業団 総務部長 今村 寛さん,株式会社ホーホゥ代表 木藤亮太さん,うきはの宝株式会社 大熊 充さん
福岡大学商学部・飛田先生の"福岡新風景:経営者と語る福岡の魅力"では、福岡へ新たに根を下ろした経営者たちの生の声をお届けします。さまざまな背景を持つ経営者がなぜ福岡を選び、どのように彼らのビジョンと地域の特性が融合しているのか、また福岡がもつ独特の文化、生活環境、ビジネスの機会はどのように彼らの経営戦略や人生観に影響を与えているのかについて、飛田先生が、深い洞察と共に彼らの物語を丁寧に紐解きます。福岡の新しい風景を、経営者たちの視点から一緒に探究していきましょう。福岡へのIターン、Uターン、移住を考えている方々、ビジネスリーダー、また地域の魅力に興味を持つすべての読者に、新たな視点や発見となりますように。
※この記事は、Podcastでもお楽しみいただけます。
今月,来月と「福岡新風景」は特別編。私の職場であるゼミナールの時間に3人の社会人をお招きし,対談を行いました。1人はキャリア30年の公務員,1人は地域活性化のスペシャリスト,1人は地域課題を事業で解決しようとする起業家。
大学生からすれば,まったく関わりがないように見える人たちの話を聞く機会。今回は長い社会人生活を通じて得たキャリアと福岡や自分の生まれ育った街との関わりについてお話頂きました。
さて,後半戦は木藤さんが福岡に隣接するベッドタウン,那珂川市に戻ってからの活動と,もう1人のゲストである大熊さんのお話です。果たしてどんな話になるのでしょうか。今回もお楽しみに。
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<今は「まちづくり」のスペシャリスト,木藤亮太さんのキャリア:後半>
飛田 で,日南の話は学生も興味あると思うんですけど,今日は福岡にフォーカスをしたいので,福岡に戻ってからの話をしましょう。お母様の地元である那珂川に戻ってきたんですよね。
木藤 はい。那珂川市っていわゆるベッドタウンです。福岡市から新幹線で行ったり来たりできるようになっていたり,(西鉄)大橋駅からバスで15分ぐらいとか,便利がいい街なので人口が増えているんですね。今から約5年前に人口が5万人を超えて市に昇格したという,人口減少社会の中では非常に珍しいところなんです。
私は大学から那珂川に住んでいるんですが,学生時代,そして就職しましたが,正直那珂川はつまらなかったんですよ。それは福岡市内に会社があって,朝起きて車で福岡まで行って,夜中まで仕事して帰ってきて寝てまた起きてみたいな感じで,その中で過ごしている時間って,ベッドタウンだから寝るだけ。
子供たちとか,奥さんはいる。そこで過ごしているとは言え,自分ほとんど過ごしてないし,つまんないなと自分も興味もなかったんですよ。そうした中で日南に行きました。4年間。本当に田舎です。人も減っています。でもそこには地元生まれ,地元出身の人たちがたくさんいらっしゃって,当時は33歳の若い市長もいましたけど,そういう人たちに何とか街を盛り上げようという動きがあり,そこで僕は一緒になっていろんな経験をしました。そうした経験をして那珂川に帰ってきた。
実は,福岡に行って帰ってくるだけで何も足元見てなかったんだけど,那珂川も足元を見るとちょこちょこ面白い人たちがいるっていうことに気づいたんです。それは,日南に4年いたからだと思っていて,何か街にそういうプレーヤーとか,街を何とかしようとする人なんて全く僕には見えてなかった。けど,日南から帰ってくると「意外といるじゃん」ってなって,今はそういう人たちと一緒に仕事したりしているうちに目が変わった感があります。
飛田 当時から南畑とか,あの辺りで田舎暮らしをしている方々がかなりおられて。その時点でも那珂川は注目をされていたけれども,木藤さん自身は日南に行って違う景色を見て,改めて那珂川を見直したときに,その良さみたいなのに気づいた。
木藤 気づきましたね。一方で,実は那珂川って結構危ういなと思っているんです。人口は福岡市のおかげで増えている。なぜ増えているって福岡市が非常に頑張って,150万,160万って増えているから。福岡市に住みたいけれど,地価も高いし,そこで働いている人がもうちょっと安くてゆったり住める環境はって言って那珂川とか,春日,大野城もそうだし,古賀あたりまで全部そうですよね。しかし,これからもっと人口減りますよ。福岡市だっていずれ減ると言われています。そうすれば福岡市の地価が下がる。那珂川市で5万人いるんですけど,1万人の地元の人の上に4万人のよそ者が乗っかっているわけです。よそから来てマンション買ったりして住んでいる4万人の人たちって,福岡市の地価安くなったらそっちの方がいいじゃんって僕戻る気がする。
飛田 そうでしょうね。もう東京で起きているのがそれに近い話ですね。
木藤 逆流が起きているんですよ。極端な話1万人の町に戻りかねないなと思っていて,そのときに地場に産業も何もないので弱いんですよ。一方で,日南って人口は5万ぐらいあるんだけど,人口減っている5万。でもそこにはまだ漁業があったり,林業があったり,小さくはなっていますけど産業あるし,IT企業の誘致とかして,何とかそこで働かせようって努力をしている。
飛田 付加価値を生み出そうってことですよね?
木藤 そういう意味で,那珂川の付加価値の振れ幅ってのは低すぎて,僕は「キャプテン」っていう喫茶店をやっていますけど,あれは40年,45年やっていた喫茶店を受け継いでやっていますが,それはもう周りチェーン店だらけなんですよね。そんなところで消費しても,何の地域性も繋がらない。地元の店がしっかり頑張って,踏ん張って地域商品を作っていかないと街ってのは経営できないんだろうなと。そういう意味で,僕は注目しているのは,ベッドタウンみたいなところがこれから先,人口減少の中でベッドタウンってどうなるんだろうっていうことです。
飛田 そうやって日南・油津の商店街と那珂川という街の活性化を考えてきた木藤さんに今村さんがオファーをされたんですよね?
木藤 はい。今村さんが商店街を担当される部署の部長になられて,突然私に連絡をしてくださいました。
今村 面識ないけど連絡しました(笑)
木藤 連絡いただいて「会いたい」となって,アクロス福岡の…。
今村 (喫茶店の)シャポーでね。
木藤 で,話を聞くと今村さんは福岡市の商店街の担当していると。「木藤さん,油津商店街を立て直しましたよね?」と。で,「福岡市の商店街も立て直して欲しいんです」って言われて,「商店街いくつあるんですか?」って聞いたら…。
今村 130あります。
会場一同 爆笑
木藤 僕,油津ひとつの商店街が4年だったんですよ。全部やったら400年ぐらいかかりますよって話をして(笑)
今村 2人で笑っていました。 でも何かやり方があるんだろうって一緒に考えたのが,商店街NEXTチャレンジャー事業だった。
飛田 そのあと木藤さんからご相談を頂いてどんなふうに進めましょうかと。で,私からゼミみたいにやったらいいんじゃないですかってお話しました。
今村 最初は木藤さんが塾長みたいな役割でこの講座をやろうと思ったんだけど,先生方も入って来られて本当にゼミをやりました。
木藤 20代から50代ぐらいの人たちで商店街の人,商店街に関わりたい人が集まってグループワークを毎回,毎回やって。
飛田 そこで育ったメンバーが今はそれこそいろんな地域でご活躍されている。
木藤 そうね。ちょっと大げさに言うと箱崎で頑張っている斉藤くんとかもそうだし,大橋の渡辺さんもそうだし,いろんなところに飛び火して頑張っておられますね。
<うきはから生まれた「ばあちゃん新聞」。その仕掛け人,大熊 充さんの半生>
飛田 そうして,50代のおじさんたちはそれぞれ違う人生を歩んできたのですが,福岡の「まちづくり」で出会っていくっていうのはとても面白いですね。今日はもう1人地方で頑張ってらっしゃる大熊さんがおられます。
大熊さんは「ばあちゃん新聞」で非常に注目されています。まず,「ばあちゃん新聞」のお話をしていただきましょうかね。
大熊 自己紹介は先程しましたが,僕も半生を少しお話します。
僕は福岡から離れたうきは市出身なんですが,中学校で学校に行けなくて不登校になりました。今でこそ社会でも受け入れられるようになっていますが,多分不登校の先駆け的な存在です。うちは公務員一家だったのもあって,体裁悪いから高校は行ってくれって言うもんだから受かったのは受かったんです。でも,1ヶ月でクビになっちゃって。無職になって僕はふるさとが大嫌いと思って。しがらみの塊みたいなもんだし,それで僕は田舎を捨てて大阪に出ました。それで当然「もう絶対帰ってこない」と決めて,大阪で活動していたんですが,完全に決別したのは成人式です。成人式ぐらいは故郷に帰って出るってのも親孝行なんでしょうが,俺は田舎を捨てたんで絶対帰れないっていう。
それでそのまま大阪で転々としていたんですが,最終的にはバイク事故を起こしちゃって。でも,当時はそんなにお金も稼いでいなかったので,もう頼るところがなくなったんです。
今村 どれくらい入院されていたんですか?
大熊 4年間入院しました。そうなれば当然仕事も失ったんですが,当時の家族も失って,全部失って戻るところは実家しかないって。そんなときにうきはに「耳納連山」って山々が僕をなんか優しく迎えてくれるんですよ。散々故郷と田舎を嫌っていたのに,いざこう僕が落ち目というか,散々な目に遭って田舎に帰ってきたときに,迎え入れてくれたような感じがして。そこからはもちろん家族もですけど,故郷愛が身について。年齢も28ぐらいだったので17-8年になります。
飛田 デザインの仕事を今しているんですよね?
大熊 28歳で帰ってきて,就職はやっぱできなかった。まさに地方でできる仕事がない。20社ぐらい受けて全部落ちちゃって,また絶望,もう駄目だ,誰も僕を必要としていない。かつ中卒だから絶望,また駄目だ,社会から誰も必要としてくれないと思って。どん底まで行くとお金も持ってないんですよね。当時3万円ぐらいしか持ってなかったんすかね。
そのなけなしの3万円で電器店に行ったら,インターネットの契約とパソコンを買えるって企画をやっていて,それで起業しました。
会場一同 爆笑
大熊 はい。3万円で(笑)。普通美大とかデザイン学校行ってデザイナーになるんでしょうけど,僕は我流で。
飛田 そこがポイントでね。◯◯になるんだったら学校に行かなきゃいけないってなると思うんですけど,みっちゃん(大熊さん)はそこでなけなしの3万円でパソコンとインターネット回線を買って仕事を始めるわけです。なんでそこで注目したのですか?
大熊 当時堀江貴文さんとかが出てきた頃だったというのもあって,「インターネットが熱い」という話を聞きつけて。ネットでモノが売れるっていうのが始まった時代ぐらいだったんです。
うきはは田舎もんなんで,みんな誰も気づいてないっていうか,僕も含めてちょっと遅くその情報が入ってきて,真に受けて「インターネットこれから来るぞ」みたいな感じを。そこからは突き詰めて,自分が作ったものとか売ろうとしたんだけど,売れない(笑)。インターネット来るって聞いたのに。全く売れないっすよ,嘘やんと思った。ネット上に店を出したら売れるって。オンラインショップ作れば,ザクザクお金が儲けるって言ったじゃないかみたいな。
会場一同 大爆笑
大熊 そこからがもうおかしいと。
飛田 そういう1回失敗をして学んだわけだ。
大熊 そうです,そうです。どうすれば売れるかを考えたんです。何で売れないんだろうと。そこで基本に立ち返ってプログラミングから何から全部覚えたんすよ,自分で我流で。
飛田 それはお金が必要だったからですか?
大熊 そう。もうその当時はばあちゃんは一切関係ない。借金をこさえて返さなきゃいけなかったんで,3万円を300万円にしないとまずいと必死になって。夜はコンビニで寝ずに働いて,休憩時間は全部パソコンをやって。そうしてだんだんやっていたら,「どうやら物を売るってことは買う人がいるぞ」と。当時マーケティングのマの字も知らなかったんで,「これってマーケティングが必要なのか」みたいな感じで思い始めて。当時はマーケティングはもちろん,誰がターゲットとかも関係なくやっていました。オンラインショップ立てれば売れるって勘違いしていたから。
会場一同 大爆笑
大熊 そこからマーケティングをやり始めて,最終的にたどり着いたのがずっと自分のお客さんになってくれる,お金を使ってくれる方々がどういう人で,その人たちを喜ばせる手段として,僕たちの商品を買ってくださる。人にどう訴求してったらいいのかっていうのを突き詰めていったら,やっぱデザインがいるって。それでデザインの学校に行くことにした。
飛田 我流でなんとかやっていたけど,それで行けるてっぺんまで行ってしまったわけですね。
大熊 それで必死になって自分のショップをやっていたらえらい売るもんだから,他の企業さんが「大熊くんちょっとうちの会社もやってくれ」みたいになって。どんどんと大きくなって,あれよあれよで東京とか大阪の仕事ばっかり受けるようになっちゃって。
でも,そこで気づくんです。僕は故郷に帰ってきたのは事故をして長期間入院して行くところなかったから。その故郷が迎え入れてくれたのにも関わらず,僕は結局自分だけ都会の仕事を受けて。今でいうノマドワーカーの先駆けみたいなことをやっていて。全く地元とか,地域とかでも一切貢献してないし,直接言われたんですよ「大熊くん自由でいいね」って。仕事もせず,自由人って思われたんでしょうが,その人たちより僕は2倍働いていたけど,見えないんですよ。東京の仕事ばっかりやっているから。それで5年モヤモヤしていたんです。何かできないかなと。当時はすごい曖昧に地域活性化とか言っていて。
それで僕は学校で勉強したいってことで,デザインを学び直しで36歳のときに専門学校に行きました。その目的はもう一度勉強と,うきはでは若手呼び込めないんで,クラスメイトを引き抜こうかなみたいな感じもあって,日本デザイナー学院という専門学校に入りました。
その学校では毎回ゲスト講師を呼べる講義があったんですが,僕ら学生が「商店街の再生をやってきたアイドルのおじさんがいる」と木藤さんを見つけてきて。この人を呼んできてイベントを学生主導でやろうってことで呼んだんですよ。
木藤 一番前の席に他はみんな20代で若いのに,1人だけ30代のおじさんがいて,何やろこの子って思ってたんすよね。でも,ずっと僕のこと見ていた。
飛田 そうして木藤さんの話を聞いた大熊さんはそのときに衝撃が走るんですよね?
大熊 そうです。僕はずっとコンプレックス,優秀じゃないっていう,中卒で全然何もできないし,我流ではいろいろ覚えたけれども学歴ないし。切れ者でもないと。ずっとそれがコンプレックスだったんすけど,木藤さんがドラクエのたとえ話をしてくれて,別にその勇者だけが強い必要はなくて,魔法使いがいて,戦士がいてとか,みんなが勇者である必要はないと。馬鹿な人でも「これをやるんだ」って,困っている人たちを助けることで「世の中を変えよう」って旗を立ててブンブン振れば優秀な仲間が集まってくるから,「君がやるんだ!」っていきなり言われたんですよ。イベント中に。
飛田 それでばあちゃんに?
大熊 そうです。ここもマーケティングですよね。地域全体をって最初言っていたけど,地域ってそもそも何だろう,誰が困っているんだろうというのを受けて,じいちゃんやばあちゃんばっかりだよねって。僕って本当じいちゃんたちの何か助けになるかなとか,じいちゃんとばあちゃんたちと直接話してきて,ばあちゃんたちだったら進むぞと思ったからですね。
木藤 そのときにジーバーっていうね。じいちゃんやばあちゃんたちを無料で送迎しますっていうタクシー。お金もらってないけど,それで実は5000人のおばあちゃんと会話をしたと。5000人のおばあちゃんからインサイトを得られた。
飛田 みっちゃん(大熊さん)がやっていることは教科書通りなんだけど,「まず顧客の声を,声なき声を聞け」っていう基本からやっている。みっちゃんがすごいのは実装をやり切るところですよね。アイデアが出てきたら失敗しようが,何しようが,何かを発見するまでやり続けられるっていう突き抜ける力っていうのはすごいなと思うんですね。
<最後に,20代はじめの自分に今だから言ってあげられることは?>
飛田 さて,今日は4人のおじさん,特に私を含む3人は50歳あるいは50歳を超えてきて定年だったり,このあとの仕込みのようなことを考える時期になっているなと思います。とは言え,自分のその後の将来どうするのかってことを考えつつ,なかなかこうやって若い頃のことを振り返る機会がなかったと思うんですね。
今日それぞれの立場でキャリアについてお話を伺ってきたんですけど,お三方に共通しているのは福岡で仕事をし,福岡っていう街で生きているっていうことですよね。若い人たちからすると,働くチャンスがあるのは東京や大阪だっていう見方をしていると思うんです。でも,おじさんたちは改めてどこかのタイミングで選択をして,今ここにいるわけですね。それぞれ違う選択をしながら,今ここにいるわけですけど,そのときの自分に今何か言ってあげるとしたら,若い頃の自分に働きかけるとしたらどう言いますか?
木藤 僕は大学院に2年間行っているので大学6年間行っているんですけど,大学院を選択するときにもう一方で交換留学の選択肢がありました。うちの大学はアメリカのロサンゼルスに近いところの大学に行くことができたのですが,そこでデザインを勉強する,海外留学を選んでいたら,全然違う仕事していたかもしれない。もちろん今のような思考が元々あるので,地域の仕事みたいなことはしていたと思うんだけど,そこで1回海外出ておけばもっと実は視野が広がっていたのかなという気もしています。もちろん大学院に行ったことは後悔はしてないですけど,海外という面をもう一歩向けられたっていうところがあるとすれば,何かそっちの選択肢を勧めるかもしれないなっていう。
今村 実は福岡に帰ってきたいという時に公務員以外の選択肢もあったんですよね。私,電力会社と鉄道会社と地銀に内定もらったんです。これはバブルのときで,とにかく売り手市場で,学生が行きたければどこでも企業に行ける時代だったんで。そういう中で福岡市役所もあえて受けたのは選択の幅を広げたかったんですよね。内定頂いた会社の事業と比較をした時に,福岡市役所が実は一番仕事の幅があったんですよ。
福祉,教育,土木,まちづくりと何でもやっている。幅があった。港湾局で埋め立てやって「まちづくり」したいっていう思いはあったけど,他にもいろんなことやっているから,30年,40年と勤めていく中でいろんなことができるよねって正直思ったんです。その直感はズバリ当たって,その30年間で17-18ぐらい職場を回っていますし,もうやってない仕事はないっていうぐらいやっているし,本当に市役所の中で知らない仕事ないと言えます。どんな仕事を誰がどんなふうにやっているか,全部知っています。それだけ知っているとその外側にいる民間の人たちのことも大体わかるんですよね。
自治体は全国で1千何百とあって,自治体はそれぞれ大小はあるけれども,ベースが一緒なんですよね。全国の自治体の職員と仲間としてお話ができて,世の中との繋がりも大体わかってきたので,役所にいなくったってあと10年,15年どっかで何かしてご飯食べられるというのはできそうな気はします。そういう意味で20歳の頃の私に言いたいのは,「これだけ幅広く選べる道を選んでくれてありがとう」と。役所の名刺さえあればどこの誰でも会えるっていうプラチナカードなので,それをもらって30年間仕事できたのは,もう自分の人生の財産ですよね。
飛田 みっちゃんは事故を起こしてなかったら…。
大熊 いや,僕意外と人生に一切の悔いがなくて,もう全く振り返らないんだけれども,やっぱ唯一のものが勉強しておけばよかったって。僕,おっさんになって勉強好きになっちゃって,今もめちゃくちゃ勉強しに学校行ってるんすよ。そしたら,相当な額になっていて(笑)。親が出してくれているうちに行きゃよかったと思う。冗談なく。
やっぱ勉強したいんすよ。勉強するお金を捻出するためにも一所懸命働いてってことを繰り返して。学がないんですよ。基礎学力が多分相当低くて,言葉を知らない。言葉を知らないけど,でも気持ちはめちゃくちゃ伝わる。もちろん英語喋れないけど,海外の人とコミュニケーション取れるので,身振り手振りでやるんだけれども,それやっぱ人生において若い時分に「勉強面白いぞ」と。無駄に時間かかるですもの。専門書を読みながら言葉がわからなくて,この前もびっくりするくらい理解できない言葉があって,それを理解するのに時間がかかっちゃう。
木藤 すごい2人が両極端で超面白いんですけど。
飛田 そうですよね。
若い時のフィルタリングで学歴だとか,どこに留学しただとか何やってきたってことはもちろん大事なんですけど,結局は「自分がした選択を正しくする努力をしなさい」ということかと。これはDeNAの創業者である南場智子さんが言われていることなのですが,選択するあるいはしたことをいかに正しかったと後で言えるか,その選択した後にどこまで努力できるかだよねっていうことだと改めて思いました。
そして,そういうフィールドが福岡にあって,まだまだ伸び続けている部分もあるし,まだまだ機会があるなというふうに思いました。今日さまざまな立場の方々にお越し頂いて,キャリアを考える学生にとっても改めていい機会になったのではないでしょうか。これを通じて福岡で働くこともそうですし,さまざまな出身地の方に選んでもらえる街になるポテンシャルがあるっていうのが福岡でしょうから,ぜひ引き続きそうした魅力を作っていくためにも,私たちの世代が頑張らないといけないですね。
今日は長い時間,ありがとうございました。
今村・木藤・大熊 ありがとうございました!
会場一同 大きな拍手
みなさん,いかがでしたか?今回は後半戦として木藤さんのキャリアトーク後半と大熊さんのうきは市での活動,特に「ばあちゃん新聞」誕生秘話についてお伺いしました。
働き始めて30年。十分なキャリアもそのスタートは誰もが「新卒」だった。福岡や九州に縁のある若い人に,改めて自分たちが生まれ育った街を見つめる,キャリアを考える機会にしようと,4人のおじさんが真剣に学生を前にトークしました。会場は30名ほどの学生だけでなく,多くの社会人オーディエンスがいて熱気に溢れていました。
このトークセッションが福岡で働く,福岡で起業する,福岡で暮らすというひとつの機会になれば幸いです。次回も引き続きお楽しみに!