『アメリカに皇帝がいた?』 ジョシュア・ノートン 〜無一文から皇帝になった奇人
1776年、イギリスによって統治されていた北米13の州は独立を宣言し、多くの国が君主制を採用していた時代に、アメリカ合衆国という共和制国家を成立させた。
この共和制は大統領を国家元首としており、現在もアメリカはこの制度を採用している。
しかし、19世紀のアメリカ、サンフランシスコに突如「アメリカ合衆国皇帝」を名乗る人物が現れた。
その人物こそが、今回紹介するジョシュア・ノートンである。
当然、最初は狂人の”たわごと”ぐらいにしか思われていなかったが、アメリカ特有のノリの良さなのか、次第に周りの人々は彼を本当の皇帝のように扱うようになっていき、最終的にノートンは多くのサンフランシスコ市民から支持を受け始める。
また、ノートンの発した「勅命」の中には後年実際に果たされたものもあり、先見性を備えていた人物でもあった。
今回は、唯一アメリカに「皇帝」として君臨した男の人生に迫っていく。
その生い立ち
ジョシュア・エイブラハム・ノートンは、1814年(※1819年説あり)イングランドのロンドンにて誕生。父は資産家であるジョン・ノートン、母はサラ・ノートンと記録されている。
父親の仕事の関係で南アフリカにて幼少期を過ごし、その後もリヴァプール、ボストンと各地を転々とするが、1849年に父親から遺産4万ドルを引き継ぐと、ノートンはサンフランシスコにて邸宅を購入し、ここで不動産業を行うようになる。
このとき、事業は目覚ましい成功を収めたため、1850年代前半にはノートンの総資産は5倍以上の25万ドルにまで膨れ上がっていた。
1850年代、中国が飢饉のため米の輸出を禁止した影響により、サンフランシスコの米価格は1キロ当たり9セントから79セントまで高騰。これを商機と見たノートンは、ペルーから輸入途中にあった20万ポンドの米を1キロにつき12セントで全て買い占め、値段を更に吊り上げて売りさばこうと考える。
これが成功していれば巨万の富が流れ込んでいたはずだったが、不幸にも商品を売り抜ける前に他の輸入米がサンフランシスコに輸出されてしまい、米の値段は3セントにまで暴落してしまう。
ノートンは米商人に対して事前の予測に対する責任を求め、契約破棄を要求。裁判は1853年から1857年の4年間に渡って行われ、彼の訴訟はカリフォルニア最高裁判所にまで持ち込まれたが、結果はノートンの敗訴であった。
これによりノートンは全ての財産を失い破産を宣告。この一件でノートンは邸宅を去って行方不明になってしまい、次第に正気をも失っていった。
皇帝宣言
失踪してから一年後、後年の彼が述べるところの「自発的亡命」を終えてサンフランシスコに舞い戻ったノートンは、突如奇怪な行動を起こした。
彼はアメリカの政治体制(共和制)には著しい不備があると考え、それは「絶対君主制の導入によって解決する」という発想に至った。そして、1859年9月17日、ノートンはサンフランシスコの各新聞社に対して手紙を送り、下記のように「合衆国皇帝」たることを宣言したのである。
大多数の合衆国市民の懇請により、喜望峰なるアルゴア湾より来たりて過去九年と十ヶ月の間サンフランシスコに在りし余、ジョシュア・ノートンは、この合衆国の皇帝たることを自ら宣言し布告す。合衆国皇帝ノートン1世
この「皇帝即位宣言」は、当然いたずらとして正当な扱いを受けなかったが、声明を受け取った新聞社の一つであるサンフランシスコ・コール紙がジョークとして「皇帝宣言」を掲載した新聞を発行したところ、サンフランシスコ市民たちから思わぬ反響を受けてしまう。
形はどうあれ、この布告をもって「帝都サンフランシスコ」を拠点にした合衆国皇帝・ノートン1世がここに誕生したのである。
皇帝勅令
ノートンの記事が掲載された新聞は、たちまち売り切れてしまった。そのため、他の新聞社も彼に関する記事を取り上げ始めるようになり、ノートンは一気にサンフランシスコの有名人となった。
それ以降、ノートンは皇帝として各新聞社を通し、様々な「勅命」を出すようになる。
ノートンは特に、アメリカの議会制に嫌悪感をもっていたため、1859年10月12日、アメリカ合衆国議会を解散して全ての決定権を自分に委ねるように、以下の「勅命」を出した。
詐術と腐敗のゆえに、正統で適切な民衆の意思の表明が妨げられている。法律に対する公然たる違反が徒党・政党・政治結社、そして派閥によって繰り返しそそのかされている。そのため市民個人の人間性もその所有物も、どちらもふさわしい保護を受けていない。合衆国皇帝ノートン1世
この勅令は、ワシントンの政治家たちにより無視されたため、怒ったノートンは1860年1月に新たな「皇帝勅令」を発して「アメリカ帝国陸軍」にすぐさま議会を鎮圧するよう命じた。当然、これも合衆国陸軍には無視されたため、嫌々ながらではあるものの議会の活動継続を許した。
しかし、ノートンはその後も議会の解散はあきらめておらず、1869年には民主・共和両党の廃止を宣言している。
このように、ノートンは壮大な勅令を発する一方で、帝都であるサンフランシスコの街路を頻繁に「視察」に訪れた。
そして街路を巡りながら、歩道やケーブルカーの状態、公共施設の修理の進行状況や、住民や警官の振る舞いや身だしなみなどに気を配るよう命じた。
彼がサンフランシスコ市政に出した勅令として、以下のようなものが挙げられる。
・街が暗いと犯罪が増えるので、市内の街灯をあと5ワット明るくせよ。
・市は、天然痘予防に貢献した医師を表彰せよ。
・犬のフンを片付けない飼い主には、罰金2ドルを課すこと。
・奴隷を解放せよ。
ノートンは単に公共のモラルに対する振る舞いにとどまらず、しばしば予見的な発想を示すことがあり、その「皇帝勅令」は彼の視野の広さを物語っている点は注目に値する。
特に「奴隷解放」についてはリンカーンよりも2年早く取り上げており、さらに「国際連盟の設立」を命じたり、「宗教や宗派間の紛争を禁じる」といった勅令においても、その遠見が見て取れる。
そして、最も彼の先見性を証明する勅命が、「オークランドとサンフランシスコ間に架橋を建設する」といったものである。
朕が命じたことについて、サンフランシスコの市民はオークランドの架橋計画および隧道建設計画検討の資金を準備し、どちらの計画がより優れたるかを決定すべし。当市の市民は当命令を無視しており、朕は我が権威を顕示せんがため、かくのごとく命令する。彼らがなおも朕に逆らう場合、陸軍は両議会議員を逮捕すべし。御名御璽 1872年9月17日 サンフランシスコ
残念ながら彼の存命中に架橋は実施されることはなかったが、ノートンの死から53年後に建設が開始され、現在のサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジが誕生することとなる。
他にも「クリスマスツリーには装飾を施すべき」とも発言しており、これに至っては今や全世界共通の習慣となっている。
愛すべき皇帝
当初は奇人と見られていたノートンであったが、彼の温厚な人柄と国を想う姿勢に、いつしかサンフランシスコの大衆は「皇帝ノートン」に敬意を抱くようになっていた。
とある街の高級レストランが「合衆国皇帝ノートン1世陛下御用達」と刻んだブロンズのプレートをレストランの玄関に飾り、ノートンに無料で食事を提供したところ、多くの客が訪れて売り上げが上昇した。
また、警官がノートンを誤って逮捕した際は、サンフランシスコ市民と新聞が強く抗議したため、警察署長はすぐさま謝罪した。
この事件以降、警官たちは「皇帝」に出会った際は必ず敬礼するようになったという。
サンフランシスコ市は「皇帝ノートン」に敬意を表しており、その軍服が古びてくると、市当局は盛大な儀式とともに新品を提供した。その見返りに「皇帝」は感状を送り、終身貴族特許状を発行していた。
さらに彼は、独自の紙幣まで発行しており、それはサンフランシスコの地域経済において承認されていたという。
平和主義者
ノートンは「皇帝」であったが、温厚な性格であり、暴力を憎み争いを嫌っていた。
当時サンフランシスコでは、低賃金で働いて雇用を奪う中国系住民に対する白人のデモがしばしば行われており、いたるところで悲惨な事態が起こっていた。
ある日、ノートンが偶然その現場に居合わせたときのことである。
暴徒たちと、リンチを受けそうになっている中国系住民たちの間に、ノートンは割って入った。そして頭を垂れ、何度も主の祈りを口ずさんだ。それを聞いた暴徒たちは己を恥じて解散してしまったという。
また、この時アメリカでは南北戦争の激化により多くの者が亡くなっており、ノートンは心を痛めていた。
ノートンは、この合衆国内で起こった醜い争いを解決すべく、アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンと、アメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスに手紙を送り、両者に和平交渉を行うよう命じたのである。
その後、両者から返答の手紙が来るが、リンカーンは「用事があるし、会いたくない」とし、ジェファーソンは「履いていく綺麗なズボンがない」などの適当な理由をつけて和平を拒否した。
ノートンの平和的解決は失敗に終わったが、当時のアメリカを代表する二人からも手紙を受け取っていることから、彼の名が広く知れ渡っていたことがわかる。
また、彼はイギリスのヴィクトリア女王とも書簡を交わしており、その名声はアメリカ国内にとどまらず、国際的にも知られていたのである。
皇帝崩御
1880年1月8日の晩、ノートンは科学アカデミーでの講演に向かう途中、崩れるように倒れこんだ。
近くにいた警官がすぐさま病院へ搬送したが、着いた頃にはすでに事切れていたという。享年61。
翌日『サンフランシスコ・クロニクル』は「Le Roi Est Mort(王崩御ス)」というフランス語の見出しで一面に追悼文を載せ、他の新聞社もノートンの訃報についての見出しを掲載した。
彼の崩御は、遠く州外にまで報じられ、「ニューヨーク・タイムス」は以下のように彼を評し、追悼記事を掲載した。
「彼は誰も殺さず、誰からも奪わず、誰も追放しなかった。彼と同じ称号を持つ人物で、この点で彼に立ち勝る者は1人もいない」
死去した際の彼の持ち物は、少しの現金と、散歩用ステッキのコレクション、ヴィクトリア女王や諸外国の大物と交わした書簡、そして1098235株の無価値な金山の株式だけであった。
当初サンフランシスコ当局は、ノートンの葬儀を通常の市民ほどの規模で行い、貧民墓地へ埋葬しようと考えたが、多くの有志たちが資金を集めたため、大規模で荘厳な葬送の式典が行われた。
遺骸はアドヴェンド教会に数日安置され、社交界の婦人たちが棺の上にシダとヒヤシンスの花を献じ、追悼に並んだ人々の数は3万人を超す勢いであり、その列は2マイル近くに及んだという。
ノートン1世の遺骸は最初、サンフランシスコのフリーメイソン墓地に葬られたが、1934年にノートン1世の遺骨は改葬され、今はカリフォルニア州コルマのウッドローン墓地に埋葬されている。
墓石には「ノートン1世、合衆国皇帝、メキシコの庇護者」と刻まれており、今もアメリカを見守り続けている。
参考 :
アメリカ皇帝になった男の話 佐山 和夫 (著) | 潮出版社
The Emperors of the Unites States of America & ther Magnificent British Eccentrics Catherine Caufield (著) | Corgi Childrens
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