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森のなかで、恋人に会った――【連載】奈倉有里「猫が導く妖しい世界」#6

NHK出版デジタルマガジン

森のなかで、恋人に会った――【連載】奈倉有里「猫が導く妖しい世界」#6

この連載では、スラヴの昔話からやって来た物知り猫“バユーン”が、ロシア文学研究者・奈倉有里さんとともに皆さんを民間伝承の世界へとご案内します。
今回はどんな不思議に出会えるでしょうか?
※2025年度『まいにちロシア語』テキスト9月号より抜粋
(スラヴ:ロシアやウクライナ、ポーランド、ブルガリアなど、ヨーロッパ東部から北アジアに広く分布する、スラヴ系諸語を話す人々の暮らす文化圏)

第六回 惑わせる森

迷いの入り口に

 森が好きだ。鬱蒼とした緑、霧のかかるひんやりとした空気、苔の生えた石が転がるすべりやすい足元。木々のはざまから顔をのぞかせる、おいしそうな木の実、ベリー類、きのこ……。ふだんはそんな自然環境にはなかなか身を委ねられないけれど、休みがとれたら森や山に行きたいなあ、とよく思う。
 バユーンはあまり森が……というか、遠出が好きではない。暑さ寒さが苦手で、冬になれば意地でもこたつから出てこないし、急に気温が変わると体調を崩してしまう。少しだけ時間に余裕ができたある日、試しに「一緒に森に行かない?」と誘ってみたら、「僕このまえ、急にやる気を出して、ネズミでもとってこようかと思ってそのへんを走りまわったら、風邪ひいちゃって。しばらく家で安静にしてるよ」だって。
 代わりに、と言ってバユーンは、森に棲む妖怪の話を聞かせてくれた――
 森に棲む妖怪は、レーシーという。家や畑の妖怪と同じようにわかりやすい語源で、森が「リェース(лес)」だからレーシー(леший)だ。いつもながら、スラヴの妖怪たちの多くは初級の語学学習者にも優しい(易しい)名前をしている。
 しかしレーシーそのものは、必ずしも優しくない。古今東西、森は昔話や言い伝えではたいてい「迷い込む場所」であり、不思議な妖怪と出会う確率の高い場所である。森に棲むとされる妖怪はたくさんいるが、レーシーはまさにその迷いの入り口に現れる――人が森に迷い込む原因となる妖怪なのだ。
 たとえば、進行方向に倒木があり進めない。その倒木を少し避けて迂回しただけなのに、まるで違う場所に出てしまう。あるいは一緒にいたはずの誰かがいつのまにかいない。つまりレーシーには木々を動かしたり、人の姿を隠したり、視覚を惑わす力がある。レーシーは目にも止まらぬ速さで動くので、ふだんは見えない。ただし、自ら姿を変えて現れることもある。たとえば狩人が森に入ると、レーシーは珍しい獣に化けて奥地へと誘い込む。親しい人の声を真似たり、泣いている子供の姿で気を引くこともある。もしくは森に慣れた玄人のふりをして「きのこやベリーの豊富な場所を教えてあげよう」と言って道案内をし、通れない場所へと導いたのち、忽然と姿を消すこともある。どうやらレーシーは、人が誰かと一緒にいたいとどこかで願っていると、そこにつけこむらしい。そして人は夢うつつの状態で、気づけば森に迷いこんでいる。

遭遇

 そんな話をしながら「ほらね、森って怖いでしょ」と、バユーンは畳に寝そべっている。
 いや、ぜんぜん怖くなんかない。だってそれって要するに、森に迷った人がそれを妖怪のせいにして伝説が生まれたってことなんじゃないの。だいたいバユーンだって妖怪のくせに、そんな言いわけで家から出ないなんて、単なる出不精じゃん。
 でも――と、私は思う。いまの話はなにか心にひっかかる。しかし意気地なしのバユーンに説得されるのも癪だ。私はリュックにタオルとジャケットと水筒を詰めて、「いいもんね、ひとりで行ってくるから」と家を出た。
 たいした遠出ではない。この町の中心からバスで40分ほどの場所だ。すすけてよく読みとれない登山道の標識の奥に、薄暗い小径が続いている。足元は湿っていて、ところどころに苔が繁殖している。「そうそう、これだよ」と嬉しくなりながら、ゆるやかな傾斜を上り森に入っていく。木々の隙間からちらちらと光が差し、はるか上から鳥の声が響く。あっというまに、いつもとは違う時間の流れのなかにいる。とりたてて目新しいものはなにもないのに、こういう光景は不思議と心に残るものだ。
 奥に入っていく。足元の葉が音をたてる。少し先にぽっかりとひらけた場所があり、陽の光が注いでいる。ああいう場所ってよく珍しい花が咲いていたり、ベリーがなっていたりするんだよね、と思い、足を速める。そのときふと、左手の藪からガサガサと音がした。見ると、数十メートルほど向こうの木の下の暗がりに男性の人影らしきものがあり、こちらを見ているようだ。「ああ、あれは私の恋人だ」という思いが一瞬頭をよぎったのと、その人影が消えたのは同時だった。
 急にわけもなく気味が悪くなって、私はもと来た道を引き返し、タイミングよく来たバスに乗る。行きと同じ運転手さんが「おや、早いですね」と声をかける。なんのことはない、来るときのバスが終点まで行って折り返してきただけのことだ。この路線はバスもバスに乗る人も珍しいので、たちまち運転手さんと知り合いになる。
 家に着くと私はきしむ板張りの急階段をあがって二階の障子をあけ、さっきと同じ場所で寝ているバユーンを起こしていまの話を報告する。レーシーかどうかはわからないけど、怪しかったから戻ってきたよ、迷わずに帰ってこられてえらいでしょ、と。

不思議の理由

 しかし話を聞き終えるとバユーンはふうん、と一呼吸おいて、「それのどこがレーシーなのさ、誰かがおしっこしようと思って藪に入っただけかもしれないし」と、まるで私が臆病だとでも言いたげな口調で言った。違うんだよ、と私は思う。不思議なのは人影そのものというより、その姿を見た瞬間、なんの疑いもなく、自分の「恋人」だと感じたことなんだ。
 バユーンはじっとこちらを見て、やすやすと私の思考を見抜いたらしく、急に楽しそうになって「そりゃあおかしい!」と笑いだす。確かにおかしいのだ。だって私には「恋人」なんて久しくいないんだから。バユーンは「ユリは片思いの達人だからねえ」とダメ押しまでしているが、ほっといてくれ、私が片思いの伝道師だってことは。だけど、じゃああの感覚はなんだったのか。あのとき、あたかもつい昨日まで会っていた親しい人、毎日のように顔をあわせている大好きな人にまた会ったような感覚がごく自然に湧き起こり、それがとっさに頭のなかで「恋人」という言葉に置き換わった。そういう、感覚が勝手に連鎖するときに生じる錯覚って、夢のなかでならわかるけど、目が覚めているときにもありうるんだろうか。それに、たとえば(たとえば!)私に長年恋人がいないとして、ならばあの懐かしい「感覚」を、私はどこから借りてきたのだろう。あれは確かに知っている感覚だった。バユーンはぐっと伸びをして体を丸めなおすと目を閉じて、
 「レーシーは、いちばん会いたい相手の姿になって現れることもあるっていうから……」
 と、消え入るような声で満足げに言い足すと、また寝てしまった。
 なに言ってんの、だからその相手(恋人?)が誰だったのかよくわかんないって話をしてるのに、と思いながらぷくぷくとしたバユーンの丸いシルエットを眺め、はっとする。森のなかの人影の、ふっくらとした形と、ぼんやりとした優しさ、懐かしさ、さっきまで会っていたような記憶、安心感。気まぐれに現れ、消えてしまう存在。なんだ、ここにいたじゃないか。あれはバユーンだったのか。
 でも待てよ。やっぱりわからない。つまり、バユーンがこっそり先回りをしてレーシーのふりをして私をからかったのか、それともレーシーがバユーンの雰囲気を借りたのか、あるいは――私の誰かに会いたい気持ちが、すべてを作りだしているのか。

奈倉 有里

1982年生。ロシア文学研究者。著書に『夕暮れに夜明けの歌を』『アレクサンドル・ブローク詩学と生涯』『ことばの白地図を歩く』『ロシア文学の教室』『文化の脱走兵』、訳書にミハイル・シーシキン『手紙』、サーシャ・フィリペンコ『赤い十字』など。

イラスト 山田 緑
公式HP:http://midoriyamada.net/

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