#4 最先端のライフスタイルを過ごしたカフカ──川島隆さんと読む、カフカ『変身』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
京都大学教授・川島隆さんによるカフカ『変身』読み解き#4
ある朝目を覚ますと、自分は巨大な「虫」になっていた――。
衝撃的な冒頭に始まるフランツ・カフカの小説『変身』は、彼の死後100年以上経つ現在まで、多くの人に読み継がれてきました。
『NHK「100分de名著」ブックス カフカ 変身』では、川島隆さんが、「自分を知るための鏡」や、個の弱さを知ることでつながりの大切さを考える「介護小説」として『変身』を読み直すことで、その魅力に迫ります。
2025年7月から全国の書店とNHK出版ECサイトで開催中の「100分de名著」フェアを記念して、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします。(第4回/全6回)
第1章──しがらみから逃れたい より
意外にも「いい人」だったカフカ
それでは、作家カフカがどんな人生を歩んだかについて、時代背景を踏まえながら見ていきましょう。
フランツ・カフカは一八八三年、ボヘミア王国(現在のチェコ共和国)の首都プラハで、ユダヤ人の両親の長男として生まれました。カフカの下にはガブリエーレ(エリ)、ヴァレーリエ(ヴァリ)、オッティーリエ(オットラ)という三人の妹がいました。
ボヘミア王国は独立国ではなく、オーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国)の一部という位置づけで、多民族国家ならではの民族間のヒエラルキーが存在していました。当時、帝国の中枢部にいた支配者階級はドイツ人でしたが、プラハという街は事情が特殊で、ドイツ系の住民の半数以上がユダヤ人でした。ユダヤ人のうちにも、ドイツ語を話す「ドイツ系ユダヤ人」と、チェコ語を話す「チェコ系ユダヤ人」が存在し、ドイツ系ユダヤ人のほうがチェコ系よりも階級的に上、という認識があったようです。
カフカの父親であるヘルマン・カフカは、もともとは南ボヘミアの貧しい寒村出身のユダヤ人です。彼が書き残したドイツ語の手紙を見ると間違いだらけだったりするので、従来は「チェコ系」と説明されることが多かったのですが、近年ではこの説は疑問視されています。そもそも学校にも満足に通えない環境で生まれ育ち、「ドイツ語が苦手」ではなく字の読み書き自体が苦手だったと考えられるからです。基本的にドイツ語とチェコ語のバイリンガルで、家庭内ではもっぱらドイツ語を話していた、というのが実相のようです。のちにドイツ系ユダヤ人である裕福な醸造業者の娘ユーリエと結婚し、彼女の実家の支援を元にプラハで富裕層相手の高級小間物店(女性向けのファンシーグッズの店)を開業しています。カフカが誕生したころは、経営も軌道に乗り、比較的裕福な暮らしをしていたと伝えられています。
そんな恵まれた環境でドイツ系ユダヤ人として何不自由なく育ったカフカは、裕福な市民層の子弟が通うドイツ語系の初等学校に進みます。学校では優等生で通っていました。そしてギムナジウムを経て、名門のプラハ大学に進学します。学校の勉強はしだいに苦手になっていきますが、文学や哲学への目覚めは早かったようで、ギムナジウム時代から、スピノザ、ダーウィン、ヘッケル、ニーチェなどの著作に触れて、将来は作家になりたいという夢を抱いていました。
当初、大学では哲学を専攻するつもりでしたが、父親に反対されたため、化学を専攻し、のちに法学専攻へと進路変更。大学時代のカフカは本格的に文学にのめり込み、文学仲間が集まるサークルに所属しながら、ノートに習作を綴る日々を送っていました。
作家になりたいという気持ちを抱きながら、カフカは大学を卒業します。その後、司法研修を経て、民間の保険会社に就職。しかし、残業や休日出勤の多い職場にすぐに嫌気がさした彼は、数ヵ月後には労働者災害保険局に転職してしまいます。
転職した職場は半官半民の組織で、おりしも工業化の波が押し寄せていたボヘミアで工場労働者の災害が急増していたのを背景に、大幅な組織改革が進行していました。勤務時間が八時から十四時までだったため、時間に余裕ができたカフカは、サラリーマン生活のかたわら小説を書く生活を始めます。仕事が終わると、両親と同居する実家に帰って仮眠をとり、夜中まで小説を書きつづけて再び眠るという生活を続けていたようです。
転職後の職場環境にはかなり恵まれていたようですが、カフカは保険局でのオフィス・ワークが大嫌いでした。それでも彼は仕事を一通りきちんとこなしていたようで、保険加入する企業の業務の危険度を判定して、保険の掛け金を算出するスペシャリストとして職場で重宝されていました。のちには、労災の発生件数を抑えるための事故防止キャンペーンにも取り組みます。やがて結核にかかって欠勤がちになり、退職するまでの十数年間、同じ職場で真面目に勤務し、課長クラスにまで出世しました。
このように、コツコツ勉強して大学に入り、会社に就職して出世して──という人生コースは、現代のわれわれが聞くと「いかにも普通」、典型的なサラリーマンという印象ですが、大学に進める人の数はまだごく限られ、資本家でも労働者でもない中間層=サラリーマンは珍しい時代だったため、カフカの生き方は当時としては最先端のライフスタイルだった、という点には注意する必要があるでしょう。
カフカの作品は、グロテスクで一読すると希望のない内容のものが多いため、作者自身も暗い性格で孤独な人物だったのではないかと思われがちですが、実際には(少なくとも傍目には)そうではなかったようです。あまり口数の多いほうではなかったものの、人当たりがよくて部下や使用人にも礼儀正しく親切で、バランス感覚やユーモアのセンスにも長けた、いわゆる「いい人」だったようです。すらりとした長身で、ルックスも決して悪くはなかったところを見ると、女性にもおそらくモテたのでしょう。恋愛もちょくちょく経験し、結婚にまでは至らなかったものの、婚約を交わした女性も二人いました。
民間の保険会社に勤めていた二十四歳のときに、『観察』というタイトルの小品集が文芸誌に掲載され、文壇デビュー。『観察』は数年後にドイツの出版社から本になって出ます。カフカはその生涯に、『変身』(執筆は一九一二年、出版は一九一五年)を含めて計七冊の本を世に出すことになりました。「生前はまったく無名」と誤解されることもありますが、当時の文壇の中では高く評価されていました。とある文学賞を受賞した作家が、カフカに敬意を表してその賞金を譲った、というエピソードもあります。
しかし彼は一九一七年に肺結核を患い、一九二四年に四十歳という若さで亡くなります。その後、遺稿として残された未完の長編『失踪者(アメリカ)』『訴訟(審判)』『城』が出版されたのをきっかけに、再評価の機運が高まります。「孤独」と「絶望」の文学、「実存主義文学の先駆者」としてカフカ作品が世界中に大ブームを巻き起こすのは、第二次世界大戦後のことでした。
ちなみに、彼の死後に出版された遺稿は、「私が死んだら、すべて焼き捨ててくれ」という遺言とともに、友人の作家マックス・ブロートに預けられていたものです。ブロートが出版社に持ち込んだことで、日の目をみることになりました。ブロートはカフカとの約束を破ったことになりますが、しかしカフカも内心では出版されて世に広まることを望んでいたはずだ、という見方もあります。本当に原稿を人目に触れさせたくないのなら、自分で焼き捨ててしまえばいいだけの話ですから。いずれにせよ、ブロートの「裏切り」のおかげで、私たちはカフカの長編小説を読むことができるわけです。
著者
川島隆(かわしま・たかし)
1976年京都府長岡京市生まれ。京都大学教授。京都大学大学院文学研究科博士後期課程研究指導認定退学。博士(文学)。専門はドイツ文学、ジェンダー論、メディア論。著書に『カフカの〈中国〉と同時代言説』(彩流社)、共著に『図説 アルプスの少女ハイジ』(河出書房新社)など。訳書にカフカ『変身』(角川文庫)、編集協力に多和田葉子編訳『ポケットマスターピース01 カフカ』(集英社文庫)がある。
※刊行時の情報です。
■『NHK「100分de名著」ブックス カフカ 変身 「弱さ」という巨大な力』より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛している場合があります。
※本書は、「NHK100分de名著」において、2012年5月に放送された「カフカ 変身」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「ポスト・コロナの『変身』再読」、読書案内などを収載したものです。