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#3 アンネの育った環境と時代背景――小川洋子さんが読む『アンネの日記』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

NHK出版デジタルマガジン

#3 アンネの育った環境と時代背景――小川洋子さんが読む『アンネの日記』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

作家・小川洋子さんによる『アンネの日記』読み解き #3

苦難の日々を支えたのは、自らが紡いだ「言葉」だった――。

第二次世界大戦下の一九四二年、十三歳の誕生日に父親から贈られた日記帳に、思春期の揺れる心情と「隠れ家」での困窮生活の実情を彩り豊かに綴った、アンネ・フランクによる『アンネの日記』。

『NHK「100分de名著」ブックス アンネの日記』では、『アンネの日記』に記された「文学」と呼ぶにふさわしい表現と言葉と、それらがコロナ禍に見舞われ、戦争を目の当たりにした私たちに与えてくれる静かな勇気と確かな希望について、小川洋子さんが解説します。

今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第3回/全6回)

アンネの育った環境と時代背景

 具体的に日記の中身に入る前に、アンネの家庭環境も含め、時代背景について簡単に整理しておきます。

 フランク家は、ドイツの出身です。代々銀行業を営む裕福な実業家一族でした。アンネの父オットーはフランクフルトの生まれで、厳格なユダヤ教徒ではなく、リベラルな思想を持ち、ドイツ社会にとけ込んで暮らしていました。

 母のエーディトは、アーヘンというドイツ西部の町の出身で、オットー同様、裕福な一族の娘として育ちます。一九二五年に二人は結婚し、フランクフルトでの生活が始まります。翌年にはアンネの姉のマルゴーが、二九年六月十二日にはアンネが誕生しました。

 アンネが生まれたのは、ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したのを端緒として、世界大恐慌が起きた年でもあります。大不況によりオットーの事業が行き詰まっていくのと、ナチスが台頭してくる時代は重なり合います。支持を拡大していたヒトラーは、一九三三年に首相に就任。独裁体制下で、人種主義に基づくユダヤ人迫害は厳しさを増していきます。

 時局を読んだオットーは、フランクフルトで築き上げたものを一度すべてゼロにし、オランダ・アムステルダムへ移住する決意をします。言葉も異なる新しい土地に出て行く心労は、かなりのものだったはずです。しかし迷っている暇はありませんでした。オットーは一九三三年にまず単身でアムステルダムに乗り込み、やがて食品会社オペクタ商会を設立します。生活が落ち着いた頃を見計らい、翌年までにはエーディトの実家に身を寄せていた妻と娘二人を順に呼び寄せました。

 アムステルダムにやってきた四歳のアンネは、モンテッソーリ・スクールの幼稚園に通い始めます。現在ここは、「アンネ・フランク・スクール」という名称に変更され、外壁にはアンネの筆跡で日記の一部がペイントされています。自由な校風で知られる学校で、わたしが一九九四年に訪ねたときも、さまざまな人種の子どもたちが無我夢中で、エネルギーのかたまりのようになって遊んでいました。その光景を見学しながら、ふとこのなかにアンネやマルゴーがいるかのような錯覚に陥りました。

 アンネが本当の意味で子どもらしい時間を楽しめたのは、モンテッソーリ・スクール時代まででしょうか。本来ならそのままモンテッソーリの小学校を卒業して上へ進級するはずが、ユダヤ人中学校への入学を余儀なくされます。ユダヤ人の子どもは、ユダヤ人だけの学校へ行き、ユダヤ人の教師からだけ教わることを義務付けられたからです。このあたりから少しずつ、彼女の人生も社会情勢に左右されていきます。一九三九年九月、ドイツ軍のポーランド侵攻、英仏の対独宣戦布告により第二次世界大戦が勃発し、四〇年五月にはドイツ軍がオランダを占領します。こののち、アムステルダムでもいよいよユダヤ人弾圧が始まります。ユダヤ人は四一年より公園、図書館、映画館、劇場などの施設に入ってはならないと命じられ、四二年四月には公共の場での「黄色のダヴィデの星」の着用が義務付けられ、同年六月には外出制限が課されました。

 父オットーは、オランダなら安全と思って移住先を決めたはずでした。しかし、その目論見は外れてしまった。移住先がオランダではなく、アメリカだったら、あるいはスイスだったら……。無駄だと十分に承知していながら、ついそんな仮定をしてしまう自分を、抑えきれません。

著者

小川洋子(おがわ・ようこ)
作家。1962年、岡山県生まれ。早稲田大学第一文学部文芸科卒業。88年「揚羽蝶が壊れる時」で海燕新人文学賞を受賞し、デビュー。91年「妊娠カレンダー」で芥川賞を受賞。2004年『博士の愛した数式』で読売文学賞、本屋大賞、『ブラフマンの埋葬』で泉鏡花文学賞、06年『ミーナの行進』で谷崎潤一郎賞、13年『ことり』で芸術選奨文部科学大臣賞、20年『小箱』で野間文芸賞、21年菊池寛賞を受賞、同年紫綬褒章を受章。その他、小説作品多数。エッセイに『アンネ・フランクの記憶』、『遠慮深いうたた寝』などがある。

※著者略歴は全て刊行当時の情報です。

■『NHK「100分de名著」ブックス アンネの日記 言葉はどのようにして人を救うのか』(小川洋子著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。

*本書における『アンネの日記』の引用は、アンネ・フランク著、深町眞理子訳『アンネの日記増補新訂版』(文春文庫)を底本にしています。また、小川洋子著『アンネ・フランクの記憶』(角川文庫)を参考にしました。

*本書は、「NHK100分de名著」において、2014年8月および2015年3月に放送された「アンネの日記」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「言葉はどのようにして人間を救うのか」、読書案内などを収載したものです。

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